煙草の記憶

平 牙人

 私が中学二年の時伯母が亡くなった。以前から体が弱く、入退院を繰り返していた伯母

だったので、家族に与えた衝撃は、それほど大きなものではなかった。

 それでも田舎のことで、通夜、告別式、と葬儀は形式通りに執り行われた。

 伯母の家は車で三十分程しか離れていない。それでも母は、二日ほど伯母の家に泊まり

込んで手伝いをした。

 初七日も過ぎ、そろそろ四十九日という頃に伯父が挨拶に来た。

 形見分けは、母には着物と帯、父には天眼鏡、私にはブローチだった。

 夏休みのことで、私は家にいたが、父はまだ帰っていなかった。

 いつも偉そうにしていた伯父が、急に気が弱くなったのか、母に葬儀の時の手伝いの礼

を何度も繰り返し、しょんぼりと立ち上がって帰っていった。

 伯父が帰ると、母は農協に出かけていき、留守番をいいつかった私は所在なく、テレビ

の置いてある居間に戻った。

 伯父が座っていた藺草の座布団に座ると目の前に煙草とマッチが置いてある。

 父は「いこい」だったが、伯父はピースだった。香りが違うといつも自慢していた。

 私は、箱の中から一本抜き取り匂いをかいだ。甘い良い匂いがした。

 箱の中には煙草が七本残っていた。六本になったら誰かが気が付くかしら?

 胸がドキドキと脈打っているのが自分ではっきりと分かった。

 開け放たれた障子を閉め、煙草に火をつけた。そっと吸い、口の中の煙を味わって

みた。甘さは感じられなかった。

 もう少し、大量に煙を吸い込んでみる。ベエエ変な味……

 父も伯父も鼻から煙を出す。息を吸って鼻から出す練習をしてみる。

 煙を一度吸い込めばいいのだ。

 思い切り吸い込んで、鼻から煙を出した。その瞬間、私は倒れた。

 外で音がしたが、私は起きあがることすら出来なかった。

「芳恵! 芳恵!」母親の声だ。

 母は、途中で印鑑を忘れたことに気が付いて戻ってきたのだ。

 原因が煙草だと分かると、母は急に厳しい声になった。

「中学生が煙草なんぞイタズラして! 畳も焦がしているよ!」

 手から落ちた煙草が、畳を1センチほど焦がしていた。

 青い顔をしている私を寝かせ、母は印鑑を取り出した。

「十分も寝ていりゃ治るよ。忙しいときに世話ばかり焼かせて、帰ってきたら承知し

ないから、今から覚悟して置くんだね」

 母の言葉も、どうでもいいほど気持ちが悪かった。

 母は十分と言ったが、十分過ぎてもまだ気持ちが悪かった。このまま病気になれば

母も折檻を赦してくれるかもしれない。

 その期待も、二十分過ぎると望めなくなった。血液が体中を駆けめぐり始めると何

事もなかったようにケロッと治ってしまった。

 気分が良くなると、母親の言葉が重くのしかかってきた。

 総体的に子供の躾には厳しい土地柄で、近代的なマナーなど何一つわきまえぬ私だ

が、田舎は田舎なりに礼儀作法に厳しく、善悪のケジメにも厳しかった。

 畳が黒く焼け焦げていた。父にだけは知られたくない。その一心で畳を擦った。

 黒い焼け焦げは取れたが、畳がその分だけ凹んだ。泣きたい気持ちだった。

 母親が戻ると、私は畳に両手をついて謝った。

「もう、二度としませんから堪忍して!」

 母親は印鑑を仕舞うと何も言わずに私の首根っこを掴んだ。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 奥まった納戸部屋に連れて行かれるのだ。そこに行く途中で、母親が鴨居の物差し

を取るのがわかった。

 中学生になったら、もう、大人になったつもりか。母ちゃんが忘れ物をしなかった

ら、家が火事になっていたかもしれない。

 母親は小言をいいながら、私を畳に跪かせ、頭を畳に着けさせると短いスカートを

跳ね上げるようにまくり上げ、ズロースを引き下げた。

 子供の頃から何度も同じようにされたが、中学生には辛い折檻だった。

 生理が始まってから、急に膨らみ始めたお尻を、母親の手の平が容赦なく叩く。

 鍬で畑を耕し、鎌で草を刈る母の手は、革砥のように丈夫だった。

「少し目を離すとすぐに悪さをするんだから! 今日は泣いても赦さないよ」

 ビシビシとお尻を叩かれ、私は泣きわめき、暴れた。

 物差しが、ビシッと音を立ててお尻に打ち込まれると、私はキャッと叫んで飛び上が

り、そのまま部屋の隅にうずくまった。

「まだ足りないよ、素直にしないと狸だからね」

 狸というのは両手両足をくくってしまうことを言うのだ。

 なおも抵抗する私を、母親は本当に縛り上げてしまった。納戸の部屋の天井、剥き出

しになっている梁に藁縄を掛け吊られてしまう。

 吊られると言っても体が空中に浮くわけではない。背中は畳についているのだ。

 この村の子供なら、一度や二度は「狸」にされた経験を持っている。

 乱暴な男の子などは、本当に梁から吊されたらしい。

 母親の汗のしみた手拭いで手を足の後ろに回してを縛られ、梁から下がった藁縄で足を

縛られ、足を伸ばしたまま固定された。

「狸にしないで! 恥ずかしいから嫌だ! ごめんなさい! 堪忍して!」

 母親は容赦なく、ビシビシと物差しでお尻を叩いた。

 隣家とは50メートル以上も離れていて、泣けど叫べど聞こえるはずもなかった。

 焼け付くようにお尻が痛み、ヒイヒイと声を上げ泣いた。

 折檻が終わっても、母は縄を解いてはくれなかった。

 蒸し風呂のような納戸部屋で、全身汗まみれになっていた。喉が渇き、声も涸れた。

 1時間ほどで父親が帰宅し、遠くで話し声が聞こえた。

「煙草!」咎めるような父親の声が聞こえ、生きた心地もしなかった。

 ドタドタと足音を荒げ、納戸の戸が開いた。

「ホウ、煙草を悪さしたというのは、このめす狸か。臭せえなぁ」

 汗の臭いだけではなかった。スカートまで濡らしている。

 いくら父親でも、こんな格好を見られたくはない。

 私は、首筋まで真っ赤になった。

 父は、胸のポケットから煙草を出すと火をつけた。

「二度と悪さをするんじゃねえぞ、今度したら、煙草灸だからな」

 そう言いながら、煙草の火をお尻に近づけた。

「熱い! ああん、熱いよぉ、ごめんなさい、ごめんなさい」

 直接、肌に触れなくても飛び上がるほど熱かった。

「ちったぁ懲りたろう、縄を解いて掃除をさせろ、臭くて仕方ねえ」

 ようやく赦された。縄を解かれても、すぐに立ち上がることは出来なかった。

 風呂場で頭から水を浴びせられ、部屋の掃除、洗濯、母親に追い回された。

 台所の床に正座させられて、遅い夕食を一人で食べた。

 じっと座っていられないほどお尻が痛かった。

 その日から何十年経つことか、それ以来、煙草には手を触れたこともない。

おわり

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