帰 還(前編)
K.Mikami
イエスが天界の住人となって2000年が過ぎたこの日、神はイエスの為に
成人式を催した。天界では地上の百年が一年に相当する。二千年目のこの日、
イエスもようやく成人の仲間入りをはたしたのだ。
はや厳粛な儀式も終わり、会場はなごやかな雰囲気に包まれている。
「ガブリエル、人間たちは今でもこいつの誕生日を祝っておるのか」
ミカエルは痩せたイエスの肩を鷲掴みにして引き寄せる。
「もちろんじゃ、クリスマスというて今ではクリスチャンでなくてもその日
はお祭りよ」
「御主は人間どもに人気があるのう」
ミカエルは酒の力もあってさらに強くイエスを抱き寄せる。
「無理もあるまい。あれだけ多くの人間どもの前に姿を現わした天界人は他
におらぬのだから」
「それもこれも、あの邪悪な母親から御主を守らんがため。神が御主の魂を
大工の小せがれに封印したのが事の始まりよ」
おとなしく聞いていたイエスだが、この時初めて酒臭い二人の大人に対して
口を開く。
「その邪悪な母上というのはいったい誰なんですか。誰に聞いてもその事に
は答えてくれないのです」
すると、あれほど饒舌だった二人の口も急に重くなる。それはたとえ酒の席
でも言えぬことだった。
「まあ、よいではないか。そのようなこと。ここにいる者にとって母上は誰
でもよい。我らはすべて全知全能なる父上の子供なのだから……」
「そうだ。そのとおり。まさにこれに勝るものはないわな」
二人に限らない。誰に聞いても返ってくる答えは同じようなものだったのだ
と、その時である。
一人の使者が威風堂々玉座に腰をおろす神に何やら耳打ちを……
「これへ」
神の、低く、しかし、よく通る声がビロードのカーテンに仕切られたアーチ
に向く時、人々の視線もまた、そこへと引き寄せられる。
ところが、現われ出でた人影にどよめきが起こった。
「ルシィフェル」「ルシィフェル」「あれはルシィフェルではないか」
あちこちでその名がささやかれる。そんな観衆のざわめきなどまるで眼中に
ないかのように彼女は静々と進み出た。
「あの裏切り者がなぜこの席に」
「なぜ今頃になって戻って来たのじゃ」
「神はあの女を許されたとでもいうのか」
そんな非難の声に混じって、
「美しい、変わらぬなあの美貌は…」
「もう五千先年も生きているというのに若い頃と何も変わっておらぬ」
「いやいや、凄味が増した分わしにはさらに美しくなったように見えるぞ」
「さよう、さよう、あの魔力は我々には真似のできぬものよ」
胸の前が大きく開いた黒いドレスを身にまとい細身の金のネックレスをして
いる以外、これといって派手な出で立ちではない。にもかかわらず、観衆には
彼女の存在自体が驚異であり魅惑的だったのだ。
そんな彼女がただ一度、瞬間足を止めた時があった。
『菩提樹で見たあの瞳だ。が、なぜ今も私はあの女の視線に縛られねばなら
ぬのか、…神に救われしあの頃とは異なり、今ではこの身を自らが支えられる
というのに…射抜かれし魂はやはりあの時のまま…もう身動きもかなわぬわ』
『坊や、私の坊や、ずいぶん大きくなったのね。もう坊やではないのかしら
あの時は神に邪魔されて抱くこともかなわなかった。しかし、今は違う。今は
………それだけでも帰ってきたかいがあるというものだわ』
収まらぬざわつきに苛立つかのように神が再び声をあげる。
「静まれ、静まるのじゃ」
ルシフェルはあたりの喧騒とはおかまいなしに再び歩みだした。そして、神
の足元にぬかずいたまま動かなくなった。
「古来より我に仕えし者はその顔を存じておろう。かつて天界に在りし時は
智天使であったルシィフェルが帰還いたした」
神からその名を告げられ再びどよめきが起こる。かつての彼女を知っている
者はもちろん、その顔を見たことのない幼き者までも、その名は堕天使という
肩書きとともによく知られているところなのだ。
「皆にはあえていきさつは伏せていたが、ルシィフェルはわしの命を受けて
下界に下ったのだ」
神の言葉に膝まづく彼女は微動だにしない。しかし、これには黙っていられ
ぬ者がいた。カナンである。彼はルシィフェルが出奔した当時彼女の教育係を
命じられていたのだ。
「恐れながら父上、ルシィフェルは当時まだ未成年。私の弟子にございまし
た。たしかにその実力は抜きんでてはおりましたが、そのために増長いたし、
天界の規範を踏み躙り、あろうことか父上の仕置きにまで口を挟むなど許され
ざる行状は数知れず、それゆえに天界を追放になったのではありませぬか」
「知っておるぞ。カナン。わしはそれほどぼけてはおらぬ」
神の声にカナンは思わずひれふした。
「たしかにルシィフェルがここを出でし事情はそうなれど、その後、わしは
これを許した」
「分かりませぬそのようなこと。真理は一つのはず。それを歪めしは大罪に
て、許しなど本来ないはず」
「長き月日、うつろいが、この天界の掟をも変えさせるのじゃ。これは人間
に数々の邪悪な心をもたらした。高慢、虚栄、猜疑心、いずれもこの天界では
否定してきたものだ。しかし、これはそれを科学という名に変えることで人間
の生活を豊かにした。人の暮らしが豊かになればその分だけでも争い事が減る
のは道理…」
「そ、それでは神は、エデンの暮らしを否定なさるおつもりか」
「聞け、カナン。ここはすべてが理想の郷じゃ。しかもそうなってからあま
りに長い月日がたつ。ゆえに忘れてしまったのかもしれぬ、我らもまた遠き昔
の日々、人間と同じ道を歩んできたのを……ルシィフェルはそれをわしに訴え
たかったのじゃ」
「馬鹿な、あのような愚かしき者と神聖なる我々が同じなどと父上のお言葉
とも思えませぬ」
「カナン、それが高慢と申すものじゃ。我々が人間と同じ過ちを犯してどう
する」
神の言葉にカナンは恐縮して顔を赤らめる。しかし…
「されど、此の地に汚れなどあっては私の落ち度となります。せめて錬獄に
てみそぎを受けたのち……」
食い下がるカナンを振り切るかのように神は右手を大きく一振りさせて弧を
描く。
「それも済んでおる」
神の右手が描いた場所がスクリーンとなり、そこにルシィフェルの煉獄での
様子が映し出される。
それは薄絹一枚で苛酷な強制労働に耐える姿であり、巨大な車輪に貼り付け
られ業火に身を焼かれる姿だった。妖艶な肢体が紅蓮の炎に照り輝き、恍惚と
なって果てる様は人々の度肝を抜く。
さすがにそれを正視できぬのか、時折訪れる小さなざわめきをルシィフェル
は床に視線を落として聞いていた。するとその脇で自分と同じように膝まづく
カナンが神に対し何かを捧げようとしているのが分かる。
「…………」
神はカナンの貢ぎ物をしばし無視していたが、何も言わぬカナンの迫力に押
されてか、ついにはそれを取り上げたのである。
『恐れながら、このことお聞き入れがなければ、いかようにも…』
カナンは他の者達がルシィフェルの肢体に見惚れている間もそういって念を
送り続けた。つまり、自分の願いが叶えられない時は捧げたその鞭で打ち据え
てくれというのだ。
それはたとえ神であっても取り扱いに骨の折れることだった。
『恐れながら、父上におかれてはこのルシィフェルに今や何の罪もないとの
仰せだが、彼女が出奔いたした折のいきさつまで不問にふされるおつもりなの
か。それをうかがいたい』
彼女が天界を出奔した直接的な原因はそんなに大儀のあることではなかった
早い話、教育係だったカナンの厳しい授業にいやけがさして逃げ出しただけの
ことだったのである。
「…………」
神は判断に迷った。しかし、言われてみればカナンの言うとおりで、これと
それとは話の違うこと。神はあらためてカナンに尋ねる。
『では、どういたしたいのじゃ』
『さすれば、その折の罪の清算を私めに……』
カナンの言葉に神はルシィフェルの方を見る。この念のやりとりを彼女も又
聞いていたはずなのだ。彼女にあえて尋ねずとも答えは知れていた。よもや、
否とは言うまい。しかし、その彼女の素振りは明らかに怯えていたのである。
「よかろう、カナン。好きにいたせ」
迷いの末、神はカナンの申し出を承諾する。すると、彼は配下に命じてある
物を取り寄せさせた。
「ルシィフェル、これを着るのじゃ」
カナンは取り寄せたその物を膝まづく彼女の目の前に投げてよこす。それは
粗末な木綿の布切れ。肉付きのよくなった今の彼女にはサイズ違いで着ること
が困難なかつてのワンピースだった。
「思い出したかなルシィフェル。それは三千年前、おまえに与えた制服だ。
おまえは今でも私の弟子であり、おまえは私の命には従わなければならない。
おまえが私の授業を抜け出して雲隠れした件の懲罰もまたしかりなのだ」
ルシィフェルはあきらかに動揺していた。その服を手にしたまま、なかなか
着替えようとしないのだ。
少女時代、この服の裾を捲られて受けたお仕置きの何と恥ずかしかったこと
か。ルシィフェルはそのことを思い出していたのだ。しかも、人間社会と違い
恥ずかしいという感情は天界では許されない。
恥ずかしいという素振りを見せるたびに、少女のお仕置きは延びる。それに
耐えきれなくなって彼女は天界を出奔したのだった。その時の悪夢が、今また
甦っていた。しかも、名乗りあってこそいないが、今ここには息子もいるのだ
苦悩するルシィフェルにカナンが追い打ちをかける。
「どうした、ルシィフェル。早くいたせ。御主がまっこと天界人にふさわし
ければ造作のないことよ」
ルシィフェルは決断を迫られた。が、道が他にあるわけではない。ただ心に
決着をつける時間が必要だったのである。それがついた時、彼女はいさぎよく
かつての制服を身につけたのだった。
<続く>
帰還(後編)
K.Mikami
あとはもう何の問題もない。服を着た瞬間から彼女は十代の少女へと戻って
いた。生身の体を持たない天界人は、地上の人間とは異なりただ念ずるだけで
どのような年代の体へもその身を変化させることができたのである。
やがて……
愛らしい乾いた唇や小さな胸の前で組み合わされた白く繊細な両手が小刻み
に震えだす。罪の重さを噛み締めるかのように、その蒼白いの顔は立ち上がり
ゆっくり、ゆっくりとカナンのもとへ歩み寄るのだ。
『これがあのルシィフェルか』
その時は場内の誰もが同じ感想を持った。
カナンが腰を下ろす椅子の前へまで来ると、そこでいったん止まってその場
に膝まづく。
「私は多くの罪を犯しました。どうか先生の手でお仕置きをお願いします」
少女はか細い声で懺悔の言葉を口にする。それはこれまでの妖艶なイメージ
とはかけ離れた無垢で可憐な姿だった。
「女は恐いな。さっきまであれほど多くのフェロモンを発していたのに、今
は微塵もその素振りを見せぬ。いったいどちらが本当の彼女やら…」
「いやいや、どちらも本当のルシィフェルよ。それが女と申すものじゃ」
外野のひそひそ話など耳に入らぬほどルシィフェルは真剣に懺悔し、祈り、
カナンのお仕置きを求めた。天界の学校ではこうした場合、先生がお仕置きを
してくれなければ何一つ次のことを教えてくれなかったのである。
「どうか、お仕置きをお願いします。もう充分反省していますから……」
そうやって弟子にせがませている間、教師は弟子の瞳を覗き込む。そこから
弟子の本心を読み取っていくのだ。どのような隠し事も欺瞞もカナンの読心術
の前には隠れる場所がなかった。
こうして本当に反省しているかどうがを見極めた上で、最後にお尻を叩いて
許してやるというのが、天界のしきたりだったのだ。
カナンはルシィフェルの細い顎をそのしわしわの右手で軽くしゃくりあげる
と、とりわけ念入りに彼女の心を読んでいく。
『神に対する忠誠は真実か』
『天界に恨みを持っていないか』
『権力に対する野心はないか』
『邪悪な快楽を望んでいないか』
カナンの読心はルシィフェルに過去の恥ずかしい体験や他人には絶対に知ら
れたくない癖や性癖までも洗い浚いさらけ出すように要求する。それは煉獄の
業火の中でその身を焼かれるよりはるかに苦痛に満ちたみそぎだった。
プライバシーの全てが白日のものとなり打ち震えるルシィフェルに向かって
カナンはさらに要求をエスカレートさせる。いわく、
『神に対してまこと忠誠心があるなら心で神と交わることができるはずだ』
というのである。
『そ、…それはあまりに。とても、そんなことは……』
尻込みするルシィフェルを、しかし、カナンは許さない。
『では、神への忠誠心は嘘なのだな』
ルシィフェルは仕方なく神の方を向くと、わずかにためらっただけで心の中
に神の姿を引き入れていく。
「ん、……んん……あっ…ああ、……あああ……」
やがて苦しい息の下、押さえきれない吐息が漏れ始める。が、それは神と共
に楽しんだというのではない。ルシィフェルはその夢想の中で、常に神からの
折檻を夢見てリビドーを高めていったのである。
「よかろう、こちらへ来るのじゃ」
カナンは彼女がその絶頂を迎える直前、ルシィフェルの意識を現実に戻して
しまう。そして、最後の仕上げ。彼は自らの膝を軽く叩くと最愛の弟子をその
もっともふさわしい場所へと呼んだのだった。
「はい、先生」
これから何が起こるかは百も承知。でも、もう何があっても逆らわない決心
のルシィフェルがそこへ辿り着くと、カナンはやさしく彼女を抱き上げ、服の
裾を捲り上げて、そのよく締まった少女の双丘にまず最初の一撃を加える。
「ピシッ」
静まり返った場内に高く乾いた音が木魂した。さらにもう一撃。
「ピシッ」
そして、もう一つ。
「ピシッ」
三つたて続けに叩いてから、カナンはいきなり彼女を膝に抱いたまま空中へ
「あああ!!!」
驚くルシィフェルにカナンの説明はない。見上げる人々の姿が小さくなるほ
どの高さにまで舞い上がってから、今度は急降下。見る見るうちに床が迫って
くるのだ。
「あ〜あああああ〜やめて!」
泣き叫ぶルシィフェルの眼前10センチのところで床がとまる。
しかし、「ふうっ」と息をつく暇はない。一瞬間をおいて、カナンの強烈な
右手がすぐにあとを追ってきたのだ。
「ピターン」
反動のついたそれは前の三つとは比べものにならないほどの衝撃だ。
「いやあん」
ルシィフェルはまるで小娘のような悲鳴を上げる。これは本当に痛かったの
だろう。それまで緊張して作り続けてきた娘の体がもとに戻っていた。肉体を
持たない天界人は気持ちだけでどんな体も手にいれることができるが、気持ち
が緩めば、年相応の体へと戻るのだ。
「ほら、尻が垂れとるぞ」
カナンに小声で言われ、頬を赤く染め慌てて小娘に戻るルシィフェル。
しかし、戻ればまたあの空中からのお仕置きが待っていたのである。
「いやいやいや、やめて〜」
ルシィフェルの叫びは本物だろう。小娘を演じようとすればその心までもが
小娘に戻ってしまう。恐怖心もまたしかりだ。そして、再び…
「ピターン」
「いたあーい」
もちろん、叩かれたお尻を撫でることなど許されない。
「さあ、もう一度だ」
「いやいやいや、もうだめ許して、どんなお言い付けも逆らいませんから」
必死の哀願もむなしく、また…
「ピターン」
「ああああああ」
今度はやみくもに両足をばたつかせるルシィフェル。垣間見える女性自身に
場内から失笑が漏れる。もうそこには堕天使と恐れられた昔の姿はなかった。
「さあさあ、まだ序の口だ。これからだぞ。本当のお仕置きは…」
カナンは再び無慈悲に飛び上がる。
こうして一ダースほど過ぎた時、しかし、ルシィフェルにも救いの手をさし
のべる者がいた。
「カナン様、どうか、もうお止めください」
場内の者も興がのり、もう誰も反対などしないと思っていた矢先のこの声に
『何事?』
と思ってカナンが見ると、それは今日成人を迎えたばかりのイエスだった。
「もう充分でございましょう。ご不満ならあとは私が引受けますから…」
こう懇願するイエスに、カナンは複雑な表情を見せて笑う。彼の笑いが何を
意味するか、この時イエスはまだ分かっていなかったのである。そんな青年に
今度は神が救いの手を差し出す。
「もうよかろう、カナン」
神の声、これにはカナンも異を唱えることができない。そればかりか、
「はい、父上。これまでのご無礼、平にご容赦を…」
彼はそう言って神に謝罪したのだった。
「ん、これでよい。三人とも席に着くがよい。今日はイエスの成人とルシィ
フェルの帰還の祝いじゃ。楽しくやろうぞ」
こうして全員でワインをあけて乾杯すると、天界のクリスマスは夜更けまで
延々にぎやかに続いたのだった。
<了>