後編
白内に戻った私はまた普段の生活に戻っていました。
小学校や近所でささやかれる私の評判は概して「ませた ガキ」とか「生意気な子」というものでしたが、それは あくまで裃つけた表でのこと。実は家の中での私は大変 な甘えん坊で片時も母親のもとを離れようとしません。
宿題も母が居間にいれば居間で台所に立てば台所でやっ ていたのです。お風呂も一緒なら寝る布団まで母と一緒 という始末。たまさか私が自分の部屋のベッドで寝る時 は 「そんなに悪い子はお母さんのお布団には入れてあげ られないわね」 こう言われて渋々自分の寝床に潜り込むというあんば いですからその生活は幼稚園児並です。もとよりあんな 立派な香織さんとは比べるべくもありません。その代わ りといっては何ですが母とは四六時中何かおしゃべりを していました。今回東京へ行った思い出話もあんなにい ろいろあったのに二日とかからずネタが尽きてしまった のです 「何か言い忘れたことないかなあ。………やっぱり 残っているのはあれだけか。でも、あれは……」 さすがの私もあの話をするのにはちょっと勇気がいり ます。
それは伯母さんに口外しないと約束したこともあ りますが、これに刺激されて母が香織さん並のお仕置き を私に強制しやしないか。そのことが何より心配でした だけどやっぱり聞いてみたい。 「ええい、いっちゃえ」 悩んだあげく私が素朴な疑問を母にぶつけるまでにそ れでも五分とかかりませんでした。私はミシンを踏む母 の背に向かってこう切り出したのです。
「ねえ、お母さん。お母さんは僕をお仕置きするとき 僕に「お仕置きをお願いします」って言ってほしい」
「え、何のこと」 母の戸惑いは当然です。
ですから、結局は香織さんの 家で起こったお仕置きの一部始終を洗い浚い母親に話し て聞かせることになったのでした。
「そう、そんなことがあったの。姉さんとこは旧家だ し、香織ちゃん女の子だからね」
「旧家で女の子だとお仕置きをお願いしますって言わ なきゃいけないの」
「そういうわけじゃないけど。お仕置きってやる方も 辛いのよ。だから相手の気持ちを慮って嘘でもお願いし ますって言ってくれればやる方も少しは気が楽になるも の。そんな思いやりの気持ちを持ってほしいからそうし てるんじゃなくて」
「僕には絶対できないな。あんなこと」
「どうして」
「だって恥ずかしいもの」
「それは香織ちゃんだって同じじゃなくって。だいた いお仕置きなんて恥ずかしいものよ。……それはそうと あなたよくその場に立ち会えたわね。香織ちゃんにして みればその方がよほど恥ずかしかったでしょうに」
「香織ちゃんには見つからなかった」
「見つからなかったってどういうこと」
「カーテンの陰から覗いてたから」
「いやだそれじゃあのぞき見してたの。だめじゃない そんなことしちゃ。誰にも見つからなかった」
「伯母さんには見つかっちゃった」
「じゃあ怒られたでしょう」
「べつに怒ったりしないよ。ただこのことを白内に帰 っても誰にも言わないでねって」
「言わないでってあなたお話してるじゃない」
「だってお母さんはいつも隠しごとはいけないって」
「それとこれとは別でしょう。関係ありませんよ。あ なたいつからそんなに簡単に約束を破る子になったの」
母の雲行きが怪しい。これはやばいなと感じたのです が、あまりの急転に私は心の準備が間に合いませんでし た。母はいきなり私の襟首をつかむと 「お座り」 と言って正座させます。このあたり私の扱いは飼い犬 のコロと同じでした。
「あなたは自分のしていることが分ってるの。あなた は香織ちゃんの恥ずかしい姿を覗き見したあげく伯母さ んとの約束まで破っているのよ。お母さんあなたがそん なにだらしのない子だとは思わなかったわ。あなたのお しゃべりは生まれつきだけどこの分じゃ私が口止めした ことまでよそへ行ってしゃべってるんでしょうね」
「えっ」 私はすぐに「そんなことはないよ」と言いたかったの ですが、まったく身に覚えがないわけでもないのですぐ に言葉が出てきません。すると母はそれみたことかと言 葉を続けるのでした。
「そう、やっぱり。ご近所で何かとうちの噂がたつか ら変だ変だと思ってたけど原因はあなただったのね。そ んな危ない子うちにおいとけないわね。そうだ、あなた 伯母さんの養子になりなさいな。あそこ男の子がほしい って言ってたからちょうどいいわ。さっそく電話してあ げる」
母か立ち上がろうとしますから私は慌ててしまいます 「だめだよ」 「なにが駄目なの。今なら新学期も始まったばかりで ちょうどいいじゃない。もっともあんたみたいなぐうた ら坊主が香織ちゃんちに行ったら毎日お仕置きでしょう から毎日おサルさんみたいなお尻をして学校へ行くこと になるでしょうね。きっと評判になるわよ。九州から赤 いお尻のお猿さんが来たって」
「ぼくいやだよ。お母さんのところがいいもの」 私はこの時すでに半べそかいていました。
九歳の少年 にとって母親はまだまだ絶対的な存在だったのです。
「私はいいのよ。あなたみたいに口だけ達者な男の子 よりもっとおしとやかな女の子を養女に迎えるから…… 女の子なら台所仕事ぐらい手伝ってくれるでしょうから その方がまだましね」
「だめ、電話しちゃ。伯母さんちなんか行きたくない から。お母さんの家にずっといるもん。お手伝いだって してあげる」
「してあげる?けっこうよ。女の子ならさせていただ きますって言ってやってくれるもの。あなたいやなんで しょう。私がお仕置きするときお願いしますって言うの なんか」
「えっ……言えるよ。そのくらい」
「じゃあ言ってごらんなさいな」
「えっ……えっと、お仕置きをお願いします」
「もう二度と覗き見はしませんって言ってからでしょ う」
「もう二度と覗き見はしません」
「お約束は守りますもいるのよ」
「お約束は守ります」
「もう一度言ってみようか。二度と覗き見はしませ ん。お約束は必ず守ります。よい子になるためにお仕 置きをお願いしますって」
「えっ……そんな……」 もうすっかり母のペースです。ほんの少し口篭もっ ただけでも……
「言いたくないのならいいわよ。伯母さんのところ に電話してあなたの荷物は明日にでも送ってしまいま すから」
「そんな、言うよ。二度と覗き見はしません。お約 束も守ります。よい子になるためお仕置きをお願いし ます」
「何だ、言えるじゃない。そうやってお願いされち ゃあやらないわけにはいかないわね」
母はミシンの椅子に座り直すと膝を軽く叩いて私を 待ちます。
「えっ!」 私は驚きましたが、もうあきらめるしかありません でした。 母の膝にうつぶせになるのはどのくらいぶりでしょ うか。以前は小さかったので膝の上から見る光景が随 分と高く感じられましたが、今は手が床に着くくらい 頭の位置が低くなっています。ただ、火の出るほどの 痛みだけは今でもはっきり覚えていてその痛みの記憶 が私の体をフリーザーにいれたお肉のようにこちこち にしていました。もう、半ズボンを脱がされても何の 反応も示しません。おそらくパンツまで脱がされたっ て何の抵抗もしなかったでしょう。すべてはあの強烈 な一撃を待ち構えるために神経を集中していたのです。
「さあ、いくわよ。ようく噛み締めなさい」
(パン) スナップの効いた強烈な一撃が私の小高い丘に命中 します。それは母が私を押さえつけていなければ部屋 の隅まで飛ばされるほどの勢いでした。
伯母さんのようにはじめはゆっくり軽くなんていっ ても母には通用しません。はじめから目一杯、それが 母のやり方だったのです。
「いいこと、覗き見は悪いことなの。分ってる」 (パン) 「分ってるの」 (パン) 「ご返事は」 (パン)
「はい、わかりました」
「伯母さんとの約束を破るのはもっと悪いことなの」 (パン) 「分ってますか」 (パン) 「はい」
「もう悪さはしませんか」 (パン)
「はい、しません」
「本当に」 (パン)
「本当です」
「じゃあ、今度からお仕置きのときはお仕置きをお願 いしますって言えるわね」 (パン)
「え」
「何がいったい「え」なの」 (パン)
この一撃はそれまでにも増して強烈でした。文字にす るとパンパンと書くだけで凄味が伝わらないと思います が、なにしろ母は手加減というものを知らない人ですか ら一発一発それはそれは強烈だったんです。私はすでに 荒い息をついていました。その息の根の奥からこう言う しかありませんでした。
「言います。お仕置きお願いしますって言います」
「本当に?」 (パン)
「本当に約束します」
「約束するのね」 (パン)
「約束します」
ここまでくると母は満足したようでした。私を抱き上 げ慎重に自分の膝の上に乗せるとまた何かされるんじゃ ないかと恐怖する私の顔をタオルで丹念に拭いてから、 おでことおでこを合わせ……
「これでお母さんのよい子が戻ってきた。もうおいた しちゃだめよ」 物心ついたときから最初のお仕置きのときからこれが 我が家のお仕置きの終わりを告げる儀式でした。
「これであなたも香織ちゃんと同じになったわけだ。 ついでにおしまいもお仕置きありがとうございましたっ て言わしちゃおうかなあ」
母にこう言われて私はぽっと顔を赤らめます。
「いいこと健ちゃん、あなたがどんなに背伸びをして も私から見ればあなたはまだ赤ちゃんの方に近いわ。だ からもっときついノルマを課して、もっと厳しい折檻で 締め上げることだってやろうと思えばできるのよ。ただ お母さんそれは望まないわ。健ちゃんが今日一日のこと を全部洗い浚いお話してくれる時間を奪いたくないもの それは香織ちゃんのお母さんだって同じ。お腹を痛めた 子の悲しむ姿を見て喜ぶ母親なんてどこにもいないはず よ。ただ香織ちゃんの処は旧家だからそこの娘さんとし て身につけなけばならない素養がうちなんかよりたくさ んあってそれで大変なだけなの。あなた香織ちゃんがお 仕置きしますよってお母さんに言われたのに平気だった って言ったでしょう。あれはね香織ちゃん自身お母さん の様子を見ていて怒ってるなって随分前から知っていた はずなの。女の子っていうのはねそんなことにとっても 敏感なのよ」
「だったらやめればいいじゃないか」
「それができないの。これ以上やったらお仕置きとわ かっていてもどうしても自分の心を押さえられない時が あるのよ」
「どうして」
「どうしてかしらね。それもきっと女の子だから……香織ちゃんが……」
「ふうん」
「だけどその香織ちゃんもあなたに覗かれることまで は覚悟していなかったはずだからこのことは香織ちゃん はもちろんお友だちにも親戚の人にも誰にも言っちゃだ めよ。あなただってお尻を叩かれてるところお友だちに 見られたくないでしょう」
「分かった。もう誰にも言わない」
私はこの約束を三 十年間守ってきましたがもうそろそろいいでしょう。
「 ねえ、もうぼくを伯母さんの養子に出したりしない」
「当たり前じゃないの。そんなこと最初から考えてな いわよ。今日はちょっとからかってみただけ。神様から いただいた大事なあなたを誰にも渡すもんですか。ただ 私も姉さんみたいに「お仕置きをお願いします」とか「 お仕置きありがとうございました」なんて言わすことが できるかなあと思って試してみたの。大成功だったわ。 ありがとう健ちゃん。まだまだあなたは私のかわいい赤 ちゃんよ」
まったくひどい話です。そんなことで私をはらはらさ せたうえに一ダースもお尻をぶつんですから。しかし、 そんなひどい人のパジャマをしっかり握り締めてでない と寝付かれないというのですからやはり私の方がよほど 困ったちゃんなのでしょうか。 ………………
それから一ヶ月ほどたったある日、私は初夏の日差し を全身に浴びてごろ寝していました。偶然空いた時間を もてあますかのように畳の上を右にごろごろ左にごろご ろ。その体と同じように頭の中もとりとめのない思いが 浮かんでは消えまた浮かぶということの繰り返し。そん な時は東京で起こった事件などもふと脳裏を掠めます。
それは忘れたい思い出でした。大人になった今なら小学 生がお尻をぶたれているのは対岸の火事で面白いかもし れませんが、当時の私には明日は我が身となりかねない 恐怖の思い出なのです。ところが、そんな思い出もこの 五月の陽光の中に身を置いていると不思議に何だか別の 要素を含んで脳裏を流れていくのです。でもそれが何な のか幼い身にはわかりません。
切なく悲しくそれでいて なにかわくわくするようなこの感情。わからないままに 私は芋虫を続けていました。と、気づけばかすかに濡れ ているではありませんか。あわてて確認するとやはり、 「あれ、漏らしちゃった。恥ずかしいなあ」 神経質な子は病気になったんじゃないかと親に相談す るそうですが、私はぐうたら坊主ですから初めての射精 も感想はそれだけでした。そして、あの切なさを今一度 味わいたくて再び五月の強い日差しに身を任せたのです 夢想を続け芋虫を続けしだいに夢路へと落ちていく心地 よさ。私の快楽はその後大いなる発展をとげますが、原 点はここだったような気がするのです。