私がこの道を歩むようになったのは12歳のときの体験がきっかけでした。それ以
前にも洋画でスパシ−ンに出会ったり、学校で綺麗な女の子が先生にお尻をたたかれ
ている場面に出くわすと、何故かドキドキと胸が高鳴ったものです。しかし、その頃
にはまだこだわりがなく、やはりあの「事件」が私の生涯を支配したと思うのです。
故郷は港町で外国人が沢山、生活しておりました。私の近所にもアメリカ人の家族が
いて、英語教室を営んでおりました。その家族構成は祖母、夫妻(父母)、そして美
しい姉妹がふたりいました。後々わかったことですが、夫が外資メ−カ−に勤務する
実業家で日本に駐在していたようです。そして妻(母親)がその教室の先生であり、
家計の足しにしていたのです。当時は高度経済成長期という華やかな反面、物価上昇
率が高く、生活も決して楽なものではなかったのでしょう。そして私は友人の誘いで
この教室に通うことになったのです。当時は現在の進学塾のように自前のビルを保有
していたり、ビルの一室を賃借して子供たちを教えるというような経営的なものでは
なく、別勉と称して個人宅の一室で5〜6人を教えるといった、至って家族的なもの
でした。しぶしぶ通い始めた私がこの教室をすっかり気に入ってしまったのは美しい
姉妹と出会えたからです。特に姉のキヤロンは絶品の美少女でした。しなやかな髪。
長い睫毛と潤んだような大きな瞳。そして輪郭の整った顔立ち。それは町でも評判の
美しい娘でした。年の離れた妹のエルシ−はまだとても幼くて、西洋人形のように可
愛らしい女の子でした。当時はミニの女王ツイギ−が来日して数年、ミニスカ−トが
流行していました。そしてキヤロンもまた、私の背丈からするとパンテイが覗けるほ
ど短いミニを穿いていたのです。お決まりの膝丈の白いハイソツクスは彼女の長い脚
をますます引立たせていました。冬にはやはり白のロングブ−ツを着用していました
が、これは若者に人気のあった小川ロ−ザさんの影響だったと思います。この年は平
年より気温が高く、春でも蒸し蒸しとしていました。そして市民の需要に応えるよう
に、市内で季節外れのジヤンボ温水プ−ルが開設されたのです。オ−プン初日、私は
友人とはしゃいで出掛けたものです。超満員の中、憧れのキヤロンとバツタリ出会っ
たのは、とてもラツキ−でした。しかし、彼女の魅力的な水着姿は余りにも刺激的
で、私の小さな代物はすっかり勢いづいてしまい、処理に困ったほどでした。豊かな
胸は中央に深い谷間を作り、くびれた腰周りから勢いよく膨れ上がった、元気いっぱ
いのお尻はふっくらと豊かで、形も見事なものでした。そしてムツチリと健康的な太
腿から始まる二本の長い脚は、ほどよい肉付きを保ちながら、優美な脚線を描き、小
さな踵へと纏まっていました。私はこれほど美しい娘を見たことがありませんでし
た。彼女は多くの男性から欲情の視線を浴び、女性からは羨望の眼差しを送られてい
ました。しかし、男の欲情を誘惑する彼女の魅力的な後ろの膨らみが、家庭ではいま
だに「しつけの場所」として使われていたとは誰が想像できたことでしょう。
ある連休初日の夜、私は英語のテキストを紛失していることに気付きました。よく
よく思い出すと「教室」に忘れたに違いないと思い、翌朝すぐに取りに出掛けまし
た。玄関では祖母が掃除をしていて、顔馴染の私を中に入れてくれました。いつもの
部屋でテキストを見つけ、帰ろうとした時、奥の部屋から先生(母親)の叱声と娘の
泣き声が聞こえてきたのです。私は妹のエルシ−がおいたをして母親にお仕置きされ
ているのだと思いました。この家に上がり込むようになってから、お転婆のエルシ−
が母親の膝の上に俯伏せにされて、裸のお尻をたたかれている場面を見たことがあっ
たのです。さして驚きもせず、玄関まで来た時、異変に気付きました。娘の涙声がと
ても色っぽいのです。その時。私は妙な好奇心を覚えました。そして激しく胸が高
鳴っていたのです。私は息を殺し、恐る恐る足音を忍ばせて奥の部屋に向かいまし
た。そして完全に閉まり切っていない、ドアの僅かな隙間から中の様子を覗いて見た
のです。その瞬間!私の心臓は張り裂けそうになりました。母親の膝の上にあるのは
小さな愛くるしいお尻ではなく、豊かに成熟した大きなお尻だったのです。ムツチリ
した太腿から続く二本の美しい脚は、膝丈の白いハイソツクスに包まれて長々と伸び
ておりました。お仕置きされていたのは何と姉のキヤロンだったのです。しかもミニ
スカ−トはすっかり捲り上げられ、パンテイも下ろされたお尻まるだしのスタイルで
した。そんな見事な恥態で、母親に「パチン パチン」とこっぴどくお尻をたたかれ
ているのです。キヤロンは色っぽいお尻をくねらせながら、熟れた両脚をバタバタさ
せて、小さな子供のように嗚咽をしながら泣き叫んでいました。ところが母親のほう
は、涙声を全く無視して、大きな暴れっ子を相手に(いとも簡単に)規則正しく、リ
ズミカルに平手打ちを繰り返しているのです。丸太のように頑強な左腕が娘の腰を
しっかりと締め付けて身動きを取れなくしているのです。恐らく常日頃から姉のお仕
置きにも手慣れていたのでしょう。下半身にのみ抵抗を許されたキヤロンの肉体の動
きは、真後ろから覗いている私にとって何ともエロチツクな光景でした。しかし私は
眼の前の現実がにわかには信じられませんでした。母親の背丈より高くなった大きな
娘が、こんな子供扱いをされているなんて想像を絶する出来事だったのです。しかも
彼女の肉感的な水着姿を目の当りにしていた直後だけに尚更のことでした。しかし、
何度眼を凝らして見ても、美少女が折檻されている肉体の部分は「お尻」だったので
す。母親の平手打ちは次第に強みを増し、ムツチリしたお尻は眼を覆いたくなるほど
真っ赤に腫れ上がっていきました。やがて尻全体が、まるでお猿さんのように鮮紅色
に染まった頃、母親は打つ手を休め、額の汗を拭いました。その時、私は咄嗟に覗き
見がばれるのではないかと思い、その場を離れました。そして息も絶え絶えに玄関ま
で辿り着くと、奥から再び「パン パン」と小気味よい音楽が聞こえてきました。私
はとても心残りながら安全を優先し、一目散に逃げ出しました。私は走りました。大
好きなキヤロンへの同情と哀れみと、それにも勝る激しい欲情が入り混じり、何とも
複雑な思いでした。またあれほど成熟した娘を小さな子供のように折檻してしまう大
人への恐怖と嫌悪が交錯し、それが自分の身にも及ぶかも知れないと思うと想像した
だけで屈辱でした。私はその後の一日をどのように過ごしたか、はっきりと記憶して
おりません。ただ強烈な興奮状態で飯も喉に通らなかったことを憶えております。中
学生になったばかりの私は、女性の裸体に凄く興味を持ち始めていました。それが美
しい娘の裸の尻を見ただけでも刺激が強過ぎるのに、そこを集中的にやられていたの
ですから尚更のことでした。その夜、キヤロンがお仕置きされた原因を確信しまし
た。英語のテキストを開くと、夫々の奇数ペ−ジの右上に漫画チツクないたずら書き
がされていたのです。これは当時、若者の間で流行していた「ペラペラ漫画」という
もので、ペ−ジを勢いよくめくると、漫画スト−リ−になっているというものでし
た。しかし、その内容たるや男女の性行為を描いたもので実に卑猥なものでした。キ
ヤロンはこのいたずらを母親に見つかってしまい、お尻ペンペンされたのです。他人
の子供を預かる先生として、娘が思春期の少年の勉強道具にセツクスのいたずら書き
をしたことは、重大な罪を犯したことになるのでしょう。今にして思いますと、母親
の厳しい叱責や強烈なスパンキングには、子供にはわからない奥の深さがあったのだ
と思います。しかし、私はあの破廉恥な体罰を目撃したことで屈折した性を歩むこと
になってしまったのです。
その後、私は教室に通う度に、キヤロンのお尻が見られるのでは、と期待に股間を膨
らませていました。しかし、二度と見ることはありませんでした。それどころか、彼
女の色っぽい肢体や娘らしい仕草を見せつけられるにつれて、あの休日の事件がどう
しても「夢」としか思えなくなってきたのです。それから暫くの日が経って、キヤロ
ンのバ−スデイパ−テイが催され、私たちも招待されました。テ−ブルには母親が精
魂込めた手作りのケ−キが並べられてありました。それは躾には厳しい反面、如何に
自分の娘を愛しているかを証明していました。いつものお転婆風ではなく、綺麗なド
レスを着飾ったキヤロンはますます美しく、同席するのも憚れるほど魅力的でした。
私はそんな緊張のなか、いくら憧れても、決して手の届かない美しい娘を横目に、
「僕は貴女のお尻の秘密を知っている」と思うと何故か得意な気分に浸れるのでし
た。やがて部屋の明かりは消され、楽しいパ−テイが始まりました。そして真っ暗な
ル−ムの中で、18本のキヤンドルの灯火は眩しいほどに美しく光り輝いているので
した。