マニア倶楽部 通巻14号 1987年10月号(三和出版)
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『土蔵に閉じこめられた体験がわたしを女囚願望者に…』
〜囚人の絵・取り調べの絵・拷問の絵を探して…〜
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四馬孝の原画も沢山
「また、まいりました」
明るい声で言いながら入ってきたのは、本誌前号のこの欄で紹介した婦人である。
「先日は、時間がなかったものですから、臼井静峰画伯の絵をろくに拝見できませんでした。きょうはゆっくりできますので……」
「例の、囚人の絵ですね。取り調べの場面とか拷問の図とか……」
「はい」
「その種のものでしたら、ほかにも、四馬孝さんのものもありますよ。あなたのご覧になりたい、囚人ものの……」
「あら、ほんと。これじゃ、とても、きょうだけでは拝見しきれませんね。またすぐ出直してこなくちゃあ……」
「とにかく、ダンボール箱に十箱、ギッシリありますからね」
「はい、たっぷり楽しませていただきます」
あとは、もう無言の行。お茶一杯飲む時間ももったいないという感じで、画集の山と取り組んでいた。それでも一時間ぐらいたつと一息という形で、雑談に入った。
「わたくし、小学校二年か三年のころに、ある体験をしたんです。いま考えてみますと、それもまたわたくしの性癖構成の要因の一つになっていると思いますわ」
――夏休みのことで、父に連れられて、父の郷里へ行きました。長野県の天竜川の上流の近くで、かなり辺鄙なところでした。実家はその地方では旧家だとかで敷地も広く、建物も大きかったことを覚えています。
父の兄さん夫婦とその子供三人、それに父の母、つまり、わたくしにとっては祖母という家族でした。その祖母は、七十に近かったのですがその頃でも一家の中心で、厳格な昔気質(むかしかたぎ)の人でした。
そして不運なことに、わたくしは食べ物でワガママを言った罰として、祖母に土蔵に閉じ込められてしまったのです。
とにかく旧家の土蔵です。湿っぽく、薄暗く、十歳にもならないわたくしにとっては、お化け屋敷の感じでした。
わたくしは、大声で泣きました。でも、許してはもらえませんでした。しばらくして許されて土蔵を出たのですが、奇妙なことに、わたくしのこころの底には、そのときの土蔵の雰囲気が懐かしくさえ感じられたのです。
家へ帰ってくると、その思いがさらに強まっているのに気付きました。つまり、囚われの身に自分を置いて、悲壮感に浸っていたかったのです。これはわたくしのマゾ感覚の芽ばえといえないでしょうか。
二十枚一組の画集の魅力
「そんなこともありまして、わたくしはいつか、囚われることにとても関心をもつようになったのです。ここに選んだ何枚かの絵の、囚われて拘束されている女性を自分自身に置き換えてみますと、体の奥からこみ上げてくる情感があるのです。もし家で一人でいるときなど、この絵を見たら、きっと自分で慰めてしまうことでしょう」
彼女の目はキラキラと輝いて、明らかに興奮していることが分かった。もともとは、むかしの白洲にいちばんこだわるのだが、現代でも、ここに掲載した何枚かの絵のようなことが現実にあるとしたら、やはりその世界に自分を置いてみたい、とも語っていた。
むかしは罪人は唐丸篭で護送されたのであるが、いま、この絵のような護送があったらどうだろう、と彼女は考えるそうである。
ここ風俗資料館にある、臼井静峰画伯のものにしろ、四馬孝のものにしろ、ほとんどが二十枚ぐらいのセット画になっていて、セットごとにストーリーをもっている。つまり絵物語になっているのである。
だからこそ、彼女にとっては、思いがけない遭遇となったわけで、それだけに心おどる発見なのである。拘束された囚人姿で電車に乗せられて裁判所へ送られる――そう思いながら画集を見るとワクワクしてくるのだそうで、確かに、画集をくい入るように見ている姿から、じゅうぶんに心情が汲みとれる。
「また、ごく近日中に伺います」
そう言って帰っていった婦人の後ろ姿には心なしか血の騒ぐ様子が窺えた。
(高倉 一)
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出典:
マニア倶楽部10月号 通巻14号
昭和62年10月1日発行
三和出版株式会社→★
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高倉一(たかくら はじめ)
1914年(大正3年)8月21日-2004年(平成16年)9月29日
1949年「夫婦生活」誌の編集者として雑誌業界に入る。戦後3大SM誌のひとつ「風俗奇譚(文献資料刊行会)」、アングラ文芸誌「黒の手帖(檸檬社)」等、数々の雑誌の編集長を経て、1984年に風俗資料館を開館(初代館長として2004年まで就任)。
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註
当「風俗資料館だより」のテキストの著作権は高倉一(風俗資料館)に帰属します。また再録に際し三和出版の許可を得て掲載いたしております。テキスト・画像等を無断で複製・転載・配布することを禁止いたします。(ただし出典を明記していただいての「引用」は歓迎いたします。ご希望の方は事前に必ずご連絡ください)
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