第1話 by 多香美じかん
白川コーポレーション社長・白川京一郎(53歳)が、
会社から帰宅し、着替えをしていると、
ひとり娘の由梨子(25歳)が部屋に入ってきた。
「おかえりなさい、パパ。」
「ああ、ただいま。」
「あの件どうなった?」
「あの件?」
「宇田川さんの事よ。
お願いしておいたでしょ?
今週中に処理する、って言ってたじゃない?」
「ああ、その事か。
大丈夫だよ、心配しなくても。
今朝、彼に辞令が渡されたよ。」
「そう。ありがとう。
ずっともう日本には戻ってこれれないように
しておいてよ。」
「海外じゃない。
彼の転勤先は名古屋だ。」
「なんですって?
名古屋なんてすぐそこじゃないの?
新幹線なら2時間で着いてしまうわ。」
「仕方が無いだろう。いくら左遷とは言っても
北京や台湾の支社では仕事の内容が違いすぎる。
だいたい、急に名古屋へ行け、というのも
無理な話なんだ。
宇田川が抱えているプロジェクトだって、
やっと軌道に乗ったところだし、名古屋支社で
人が不足しているわけでもないしな。」
「だってぇ・・・。」
「現に宇田川は社長室にやって来て、
私に転勤の説明を求めたよ。
部長の説明では納得がいかない、ってね。
たぶん、説明に困った部長が、社長命令だ、
とでも言ったんだろう。」
「まぁ、なんてふてぶてしい男なんでしょう。
社長命令だ、って聞けば、
ピンとくるはずなのに。」
「はっきり言ってやったから、安心しなさい。」
「きつく叱ってくれた?」
「ああ。今後一切由梨子には近づくな、
って、言っておいたよ。
もう、二度と由梨子の前には現われないだろう。」
「そう。・・・なら大丈夫ね。」
由梨子は宇田川という男が大嫌いであった。
宇田川恒夫、27歳。由梨子の大学時代のテニス部の先輩
で、その頃から何度も由梨子に言い寄って来た男である。
頭は悪くないが、見るからに不潔で、由梨子にとっては、
生理的に虫酸の走る顔で、ゲジゲジのような存在であった。
であるにもかかわらず、宇田川は由梨子にぞっこん惚れ
ていて、なかなか由梨子の事をあきらめようとはしなか
った。父親の会社に就職した、と知った時は驚いたと同
時に、なんだか薄気味悪く感じた由梨子だった。
就職してからも宇田川は、由梨子の事を道端で待ち伏せ、
手紙を渡してきたり、デートに誘ってきたりしてきた。
たまりかねた由梨子は、はっきりと、迷惑です、と断っ
たのだが、それでも宇田川はあきらめず、しつこく由梨
子につきまとった。
由梨子はそれを父親である京一郎に告げ、宇田川を人事
異動で海外の支社へ飛ばしてほしい、と頼んだのである。
京一郎はひとり娘の由梨子が可愛くて仕方がなく、由梨
子に対してとても甘かった。由梨子の頼みなら、何でも
聞いてしまうような優しい父親だった。
由梨子もそれをちゃんと心得ていて、母親の事はお母様
と呼んだが、父親の事はパパと呼んで甘えていた。
だから、宇田川の件も、個人的な事情で社員を転勤させ
るのはどうかと思ったが、可愛い娘の頼みでもあるし、
また、父親として、娘につきまとう男は許せない存在だ
ったので、宇田川の上司と相談し、無理矢理、宇田川の
名古屋支社への転勤を決定させたのだった。
由梨子が部屋を出ようとした時、京一郎が言った。
「あ、そうだ。
由梨子、明日の昼だけど・・・。」
「お母様から聞いたわ。
パパ、午前中仕事が入ったのでしょ?」
「ああ、すまない。
どうしても片づけとかなきゃならない件でね。」
「仕方ないわ、お仕事ですもの。
お母様と先にお店へ行ってるわ。」
「そうしてくれ。午後1時までには必ず行くから。」
明日の土曜日は家族3人で、外で食事する約束になって
いた。
由梨子は大学時代から交際していた糸崎という男と婚約
したばかりで、その婚約者・糸崎とデートするのが、い
つもの土曜や日曜の過ごし方であったが、糸崎が先週か
ら関西方面に長期出張に出かけたので、糸崎とのデート
はしばらくおあずけになり、それなら、久しぶりに、家
族水入らずで外食でも、という話になったのである。
「愛する妻と可愛い娘が
お腹すかせて待ってるんだから、
出来るだけ早く来てね。」
宇田川の左遷を知って、気分が晴れたのか、由梨子はお
どけてそんな事を言い、父親の「こいつゥ!」という声
を背に、明るく笑いながら部屋を出た。
鼻歌まじりで階段を降り、広い廊下を通ってリビングに
入ると、母の静江(46歳)が、お手伝いの道代(50歳)を
叱りつけていた。
「気をつけてちょうだい、道代さん。」
「申し訳ありません。」
道代が深々と頭を下げている。
「お母様、どうしたの?」
由梨子がたずねた。
「道代さんがね、
今日、お庭の薔薇に水をやるのを忘れた、
って、言うのよ。」
「まあ。」
白川家の広い庭には、まるで薔薇園のように色々な種類
の薔薇が咲いていた。静江も由梨子も薔薇が大好きだっ
たし、広い庭に咲き誇る何百何千という薔薇の花は、近
所でも評判で、白川家のシンボルでもあった。
「申し訳ありませんでした。つい、うっかり・・・・」
道代は今度は由梨子に向かって、深々と頭を下げる。
「つい、うっかり、じゃあ、済まないわよ。
もし枯れたりしたらどうするの?
道代さんにあれだけたくさんの薔薇を弁償出来て?」
由梨子が道代にそう言うと、静江が、
「もういいわ、由梨子。
今、道代さんにはきつく言っておいたから。」
と言って由梨子を制した。
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます。」
道代はもう一度静江に深々と頭をさげ、その場を立ち去
った。
静江は溜息をついて怒りをしずめ、、気を取り直すよう
にしてソファに腰掛けた。その隣にに由梨子も腰掛けた。
「お母様、明日の・・・」
由梨子がそこまで言いかけると、静江はハッとして、
「あ、そうだわ。
道代さんにタクシーの手配をお願いするのを
忘れてしまったわ。
薔薇の件で頭がいっぱいになっちゃって・・・。」
と言った。
すると由梨子は、
「タクシーなんて嫌よ。」
と口を尖らせた。
「だって、お父様が朝から出かけちゃうから、
車も無いし、運転手もいないのよ。」
「でもタクシーは嫌。
煙草臭いんですもの。」
「しょうのない娘ねぇ。
でも、困ったわねぇ、
タクシーが嫌となると・・・。」
「大丈夫、大丈夫。
悟くんに来てもらうから。
それを言いに降りて来たのよ。」
その時、帰り仕度を整えた道代が、リビングに再び顔を
出し、
「今日はこれで失礼いたします。
おやすみなさいませ。」
と挨拶した。
すると由梨子が、丁度良いとばかりに、
「道代さん、
悟くんに、明日の午前11時にここへ迎えに来るよ
うに言っておいてちょうだい。」
と、言った。
「え?」
顔を上げる道代。
「明日、お昼、お母様とお食事に出かけるんだけど、
パパが朝から仕事で、車も運転手もいないのよ。」
「はぁ、でも悟の都合も聞きませんと・・・。
明日はお休みですので、
どこかへ出かけるかもしれませんし・・・。」
道代が恐縮そうにそう言うと、由梨子は少しムッとした
表情になって、
「私が呼び出して
悟くんに断られた事なんてないわよ。」
と言うのだった。
悟とは、道代のひとり息子の松下悟(23歳)の事である。
また、悟は、白川家の近所に住む由梨子の幼なじみでも
あった。
年下で、しかも気の優しい悟を、由梨子は幼い頃から、
いいように使ってきた。悟が成人した頃、悟の父親が亡
くなり、母の道代が白川家でお手伝いとして働くように
なったのだが、それからはさらに拍車がかかり、まるで
自分の召し使いのように私用で呼び出し、車で送り迎え
などをさせていた。
由梨子の友達の間でも、悟はアッシーとして有名だった。
道代が家政婦として白川家につかえている事もあり、悟
は今春、白川コーポレーションに就職する事が出来た。
この就職難の時代に、悟のような三流大学出身者が、白
川コーポレーションのような大会社に就職出来たのだか
ら、道代はありがたいと思うと同時に、白川家には絶対
服従を誓わされたような重たい気持ちもあった。
そんなわけで、由梨子も悟を私用でこき使うのは当然の
ように感じていたし、道代も息子の都合よりも白川家の
都合を優先しなければならない、と考えた。
「わかりました。
明日の午前11時ですね。伝えておきます。」
道代がそう言うと、静江が、
「明日は主人が6時に出かけるので、
道代さんはそれまでに来てちょうだい。」
と言った。道代が返事をすると、由梨子が、
「私とお母様はまだ寝てるから
起こさないでちょうだいね。
道代さん、騒々しいから、
ドアを閉める音や廊下を歩く音で、
すぐ目が覚めちゃうんだから。
お願いよ。」
と言った。
「かしこまりました。」
道代は頭を下げて、その場を立ち去った。
道代が玄関を出て行く気配を確認すると、
静江が由梨子に言った。
「悟くんの都合を聞かないのは、
あんまりじゃない?」
すると、由梨子は笑って、
「大丈夫よ。
あの子に休みに出かける用事なんてないのよ。
性格が暗いから友達もいないみたいだし・・・。
私が呼び出せば喜んで飛んで来るわよ。
いつも、そうだもん。」
と言った。
「モテモテね、由梨子は。
悟くんといい、宇田川さんといい・・・。」
「変な事言わないでよ、お母様。
悟くんはともかく、
宇田川なんて名前出さないでよ。」
「ふふふ、ごめんなさい。
でも、由梨子がこんなにモテモテだと
糸崎さんも大変だわね。」
「もう、お母様ったら。
悟くんや宇田川さんといっしょにしないでよ。
男の質が違うわ、男の質が。」
「まァ、ごちそうさま。」
由梨子と静江は幸せそうに笑いあった。
だが明日、その宇田川と悟に、死ぬほど辛く恥かしい目に
あわされる事になるとは、由梨子も静江も、この時、夢にも
思っていなかった。