第2話 by 多香美じかん
翌日、由梨子とその母・静江は、お洒落に着飾り、家を
出た。
清純な白地に少し派手めの花柄がついたワンピースで、
上品でありながらも艶やかな美しさを強調している由梨
子は、栗色の髪を首筋のあたりで柔らかくカールさせ、
くっきりとした濃い眉に切れ長の目がやや吊り上り、い
かにも気の強そうな令嬢、といったの顔つきの美人であ
った。
母親の静江は、チャイナドレス風にアレンジされたパー
プルのワンピースが、しなやかさで妖しい官能味の肢体
に良く似合っていた。二重になった真珠のネックレスが
上品な首筋の美しさをより一層際立たせている。由梨子
ほどの気の強さは感じられないものの、気高い美しさを
感じさせる、高く通った鼻筋とやや小ぶりな朱唇は、由
梨子とそっくりで、二人が母娘である事は誰が見ても一
目でわかる事であった。いや、顔だけではなく、なんと
なく近寄りがたい、気軽には話しかけられない、そんな
高貴な雰囲気までがよく似ていた。
花に例えるならば、二人とも、手入れの行き届いた薔薇、
といった感じであった。
家の前で車を停めて立っていた悟に、由梨子が、
「何してたの?
11時、って言っておいたはずよ。
10分も遅れてるじゃない?」
と叱った。
「申し訳ありません。」
悟は深々と頭をさげて、そう言ったが、心の中では、
ベーッと舌を出した。
「(ふん、今に見てろ。
吠面かかしてやるからな。)」
悟は無表情で、車のドアを開けた。
後部座席に乗り込む由梨子と静江。
静かにドアを閉めた悟は、急に体が震え出した。
いよいよ、復讐劇の幕はきっておろされたのだ。
悟はそれが実感として湧いてくると、体はブルブルと興
奮に震えて仕方なかった。
悟は、気の弱さや自分たち親子の立場だけで、由梨子の
言いなりになってきたわけではない。
幼い心に抱いた由梨子への恨みを、自分の性癖を満足さ
せる形で晴らすこの日を、ずっと夢見てきたのだ。その
夢を果たすためだけに、悟はいつも由梨子の近くに居続
けた。たとえ八つ当たりされようがアッシーと呼ばれて
馬鹿にされようがようが、悟は平気だった。
震える体で運転席に座った悟は、その瞬間、車内に漂っ
ている二人の香水の、なんともエレガントな香りに目が
くらみそうになり、思わずボーッとしてしまった。
その香りの中に身を委ねていると、夢の世界をふわふわ
と漂っているような気分になった。
「何をしてるの!?
ぼんやりしてないで、
はやく車を出しなさいよ!」
由梨子の声で、悟は我にかえった。
「は、あ、・・・はい、すみません。」
あわてて、車を発進させる悟。
「(人を何だと思ってるんだ?
ふん、威張っていられるのも今のうちだぞ。)」
悟は心の中でそうつぶやきながら、アクセルをふかした。
しばらく走っていると、由梨子が、
「悟くん、道が違ってない?」
と言い出した。
由梨子の言う通り、道は違っていた。悟はレストランで
はなく、宇田川の待つ秘密のアジトに向かって車を走ら
せているのだ。
「いえ、この道で良いのです。
社長の古いお知り合いの方が経営なさっているお店
が、小岩にありまして、そこへお連れするように言
われました。」
「聞いてないわよ、そんな話。」
由梨子が怪訝な表情を見せると、
「今朝、社長がお出かけになる前に
私の母親にそうおっしゃったそうで・・・。」
と、悟が言った。
「パパが出かける時は私は寝てたから・・・、
お母様、何か聞いてる?」
「いいえ、私もまだ起きていなかったから・・・。」
「そう。じゃあ、道代さんしか知らないんだ。
・・・・それにしても小岩とは遠いわね。
小岩にパパの知り合いの方のお店があるなんて、
私聞いた事がないわ。
お母様、知ってる?」
「ううん、知らないわ。初めて聞く話よ。」
「なんでも、珍しいお酒が置いてあるそうで、
社長のような洋酒通の方しか知らない
秘密のお店なんだそうです。」
悟は必死で、でまかせを言った。
なんとしてもこの母娘を騙してアジトへ連れ込まなけれ
ばならないのだ。
積年の恨みを晴らせるかどうか、は、これにかかってい
るのだ。
怪しまれたりしないよう、もっともらしい嘘を必死で考
え、高鳴る胸をおさえて、自然を装い、由梨子の問いに
答えた。
「でも、お母様も知らないなんて、変だわ。」
由梨子が食い下がる。悟は冷や汗のようなものが湧き出
るのを感じながら、
「特に大切な商談には、よく利用されてい
たそうですけど、なんでも他人にはあまり
教えたくないお店だそうで・・・。」
と言った。
すると由梨子が、
「私やお母様は他人じゃないわ!」
と鋭い口調で言った。
「す、すみません。
そういうつもりで申したのではなく・・・。」
動揺する悟。
「まぁ、いいじゃないの、由梨子。
悟くんだってそこへ私たちを連れてくるよう、
言われただけなんだから・・・。」
由梨子に突っ込まれ、汗をかきながら必死に答えている
悟に同情した静江が、そう言って由梨子を制した。
悟の、気の弱い青年、というイメージと、これまで由梨
子の言いなりになってきた実績がものをいった。
もっと問い詰めればボロを出すであろう誘拐犯の、その
動揺した態度が、静江の目には、
[なんだか怪しい]ではなく[気の毒]に映るのだ。
それに、まさか、悟が自分たちを誘拐しようとしている
のどとは、夢にも思っていない静江だったので、そうや
って悟をかばうような言い方をするのであった。
悟は、また心の中で舌を出した。
「(ふん、娘の幼なじみで、家政婦の息子で、
亭主の会社の新入社員である俺を信じきって
いるようだな。お人好しな奥様だぜ。)」
由梨子にしても、悟が自分に恨みを抱いていている事に
など全く気づいていないし、宇田川とグルになって自分
たち母娘を誘拐しようとしているなどとは、思いもしな
いので、静江にたしなめられると、それ以上悟を問いつ
めるのはやめてしまった。
悟はルームミラーで由梨子や静江の様子をうかがいなが
ら、はやく目的地に着くよう、祈るような気持ちで車を
走らせた。
悟にとって、ときめくような、焦るような、なんとも
複雑で息苦しい時間が続いた。
もう少しだ、あと少しだ、と心の中で自分を励まし、
アクセルをふかした。
やがて数十メートル先に目的地が見えてきた。
悟は武者震いがした。
車を路上に停めて素早く降り、助手席のドアを開ける。
「こちらです。」
怪訝そうな表情で、由梨子と静江は車を降り立った。
そこは、いかにも場末の安っぽいスナックで、京一郎が
会社の接待をしたり、家族と食事をしたりする類の店と
は、到底思えなかったからである。
由梨子が、
「こんな汚らしいお店でお食事するというの?」
と顔をしかめながら言った。
悟はそのスナックの扉の前から地下に降りてゆく階段に
足をかけて、
「いえいえ、この地下のお店です。」
と答え、「さァ、どうぞこちらへ。」と
戸惑う二人を促した。
階段を降りかけて、由梨子はさらに、
「いやだ、真っ暗じゃないの?」
と悟に言った。
悟は怪しまれないように必死で演技をした。
悟は、ここが正念場だ、と自分を奮い立たせ、
必死で嘘をついた。
「なんといっても秘密のお店ですので・・・。」
「なんだか薄気味悪いわ。
本当にここなの?」
「はい、間違いありません。
この階段を降りた所のお店です。」
悟はそう言って、残りの階段を急ぎ足で降り、その店の
ドアを開けた。
「どうぞ、こちらです。」
由梨子と静江が、少し戸惑いながらも上品な足取りで
階段を降りてくると、悟は、心の中で、
あと5歩だ、あと3歩、あよ1歩、
と、数えながら、二人のよく引き締まった美しい足首
を見つめるのだった。
由梨子がドアの中へ足を踏み入れると静江もそれに続
いた。
それを見届けて、悟はフーッと息をついた。
そこは、ドアの大きさから想像するよりは、かなり広
い空間だった。古びたビリヤードの台と壊れたテーブ
ルや椅子などが、カウンターの側に放置されているだ
けで、ガランとした雰囲気だった。
由梨子がつぶやく。
「何?ここ・・・。」
そして、静江が振り向き、悟を見た。
悟は黙ったまま、ドアを閉めた。
車の中で由梨子の質問に必死に答えていた悟とは
別人のようだった。
すると、カウンターの奥からひとりの男が出てきた。
由梨子はそれが宇田川である事に気づくと、
表情を強張らせた。
宇田川は、不気味に微笑みながら、由梨子と静江の方に
一歩一歩近づいてきた。
由梨子と静江の眩いばかりの美しさは、
この廃虚のような空間の中では、より一層光り輝いて見
えた。
宇田川はその眩しさに目を細めながらも、なめるように、
その美人母娘の頭の先から爪先を見つめた。
「お二人ともようこそ。」
宇田川が低くつぶやくと、悟が由梨子と静江の背中を
力任せに突き飛ばした。二人は悲鳴をあげて、つんの
めり、宇田川の足元に倒れ込んだ。
そして、悟が、ドアに鍵をかけた。