<A Fanciful Story>
竜巻岬《1》
K.Mikami
【プロローグ】
菜の花畑の海の中を強い風に煽られながら進む少女。幅広帽子を必死に右手 で押さえながら……それでも彼女は歩みを止めなかった。
「あっ」
彼女の自慢の帽子があっという間に大空へ解き放たれる。
「あら、あの子まだ子供じゃない。困ったわね。……パーカー、パーカー」
老婆がひとり、少女が立入禁止の標識を無視してこの菜の花畑に入り込んだ ときから双眼鏡で監視を続けていたのだ。
「お嬢様、また誰か」
「そうなの、しかもあれはまだ子供ね。いいとこ十四才ぐらいかしら」
「では思い止まりましょう。こんなに強い風が吹いているんですから」
「ところがそうでもないのよ。北風が吹いて少女たちの背を断崖へ向かって 強く押すときは不思議に誰も跳びこまないのに、南風が吹いて、『来るな、来 るな』って叫んでいるときに限って行ってしまうものなの」
「ではいかがいたしましょうか」
「そうね、……」
老婆としてはもちろんこのまま引き返してくれることを望んでいたが…
「だめね、やっぱり。あの子本気で飛び込むわ。しかたないわね。パーカー 準備して」
彼女の命令がもう一秒でも遅かったら少女の命はなかったかもしれない。
「ほら、やっぱり」
少女が目を覚ましたのはベッドの上だった。彼女は岬の突端から飛び込んだ 瞬間すでに気を失っていたのだ。だから自分が大きな網によって救われた事も どうやってここにきたのかもまったく覚えていなかった。
「あら、気が付いたのね」
看護婦に声をかけられた少女だが、すぐに彼女とは視線をそらしてしまう。
「私、助かったんですね」
「なんとか体だけは…もう掠り傷一つないはずよ」
「私、あの岬から飛び込まなかったんですか。自分では勢いよく飛び込んだ つもりだったんだけど……よく覚えてなくて。きっとその場で気絶してたんで しょうね。私っていくじがないから」
「そんなことはないわ。パーカーさんが言ってたけど見事なジャンプだった そうよ。もう一秒でも遅かったら助からなかったって」
「助けてくれなくてもよかったのに。もうお義母さんには連絡したの」
「いいえ、誰にも。それにあなたは助かったわけじゃないのよ」
「助かったわけじゃないって、……じゃあここは天国?…それにしちゃ随分 貧相な場所だけど」
「いいえその反対。たしかにあなたの体はこうして無事だけど、もうあなた の戸籍はこの世にはないの。表の社会ではあなたはすでに死んだことになって いるのよ。嘘だと思うならあなたのお葬式のビデオを見せましょうか。こんな ときのためにここではかならず撮ってあるの」
ビデオが流れ始めると少女は複雑な表情でそれを眺めていた。そして、義母 が泣いている光景に出くわすと「空々しい」とか「まったく役者なんだから」 と言っては舌打ちをする。そのうち、その画面からも目をそらしてしまった。
「で、いったいここはどこなの」
看護婦はそれには答えず、答えはドアの方からやって来た。
「ゴブラン城よ」
「ペネロープ様」看護婦が入室してきた女性に膝を軽く曲げて会釈をする。
「お嬢ちゃん、生きてたときのお名前は広美さんだったわね」
「私、今でも生きてます」
少し語気を強めて広美が訴えるとペネロープ女史は静かに微笑む。
「まあまあ、元気のいいこと。とても四週間前に崖から飛び降る決心をした 子とは思えないわね」
「四週間、私、四週間もこのベッドで寝ていたんですか」
「そうよ、もう彼女から聞いたと思うけどあなたはお葬式もすんでるの。… そしてこれがあなたの死亡届け。警察が出した事故調査報告書もあるわ」
広美は唐突に突付けられる現実に動揺したのか二枚の紙切れをペネロープに 突き返そうとする。
「嘘よ、こんなの。私、あそこで足を滑らせただけで…」
しかし…、
「お嬢ちゃん嘘はいけないわ。私、あなたが立入禁止の柵を乗り越えてから ずっと双眼鏡で見ていたのよ」
「………」
広美は言葉を失った。まさか見られていたなんて思いもよらなかったのだろ う。
「広美さん」ペネロープは冷静に話を切り出す。
「仮にあなたが事故で足を滑らせただけなら私たちはとっくにあなたを親元 に返していたわ。でも、あそこには靴が揃えてあったし、遺書も飛ばされずに 残ってた。あなたが十分間もぶつぶつ呟いていた三角形の緑の石、あれが重し になってたの。飛び込む時も実に立派だったわ。まるで映画の一シーンを見て るみたいにね」
「………」
「これでもあなたはあの時足元をすくわれたって言い張るつもり」
「………」
「そんなこと誰も信じなくてよ。いいこと、あなたはあそこで命を捨てたの それも自分の意志でね。だから、あそこであなたの人生はおしまい」
「………」
広美の表情が哀願の眼差しに変化したのを感じてペネロープは先を続ける。
「そこでね。どうせいらない命なら私たちが頂きましょうということになっ てあの時崖の中腹に大きな網をだしてあなたの命を拾うことにしたの。ひろっ たら当然それは私たちのものよね。あなたは捨てたんですもの。違うかしら」
「………」
広美の表情はすでに怯えへと変化している。
「そんなに恐がらなくても大丈夫よ。別に取って食べたりしないから。ただ これから先は私たちに従順に仕えてくれさえすればそれでいいの。そうすれば あなたに何一つ不自由はかけないわ。最初は慣れないから、ちょっと辛いかも しれないけど、どんな事があっても従順に従順にって心で願っていれば、その うちこんな幸せな世界はないって思えるようになってよ」
ペネロープは広美をやさしく見つめる。しかし、次の瞬間には顔を少し曇ら せて、
「でも、逆に我を張ったり、逃げ出そうなんて考えると、来る日も来る日も 地獄の責め苦が待ってるわ。どうせあなたも試すでしょうから言っておくけど ここを逃げ出した人は一人もいないの。大抵の人は二三度脱走を試みるみたい だけど、それで諦めるみたい。あなたも試すのは自由だからやってみたらいい わね」
ペネロープは再び柔和な顔に戻って広美の頭を静かに撫でた。
本来なら「何すんよ」と強気にはねのける彼女だが、今はさすがにその気力 もない。何が何だか分からぬままに、今はただなされるままに身を置くしかな かったのである。
次の日、広美はくだんの看護婦に城のなかを案内された。外観は岩肌をくり 貫いた粗野で厳めしい古代の城も内装は19世紀末に手を加えアールヌーボー 調のモダンな造りになっている。
「全室、エアコン完備よ」
看護婦がおどけて言う。
「私、これからどうなるの」
「どうにもならないわ。少なくとも四五年はここで生活することになるだけ よ。あなたは若いからもっと長くなるかもしれないわね。いずれにしてもそれ を決めるのはここの城主アラン様で私には分からないわ」
「ここの主人はあのお婆ちゃんじゃないんですか」
「ああ、ペネロープ様のことね。あの方は先代の姪ごさんで現当主アラン様 の家庭教師を長いことやられてたの」
「ではやっぱり偉い方なんですね」
「ここのbQってところかしらね。噂によるとあなたあのペネロープ様付き になるらしいわ。日本びいきのペネロープ様がアラン様に是非にってねだった らしいの」
「………」
勝手の分からない広美にはそれがはたして幸運だったのか、不幸だったのか 分からない。ただ、今はこの看護婦が自分にとってもっとも近しい関係にある ということだけを理解できるだけだった。
「ところであなた日本人よね。なぜわざわざ自殺しにイギリスまできたの」
「別に自殺しにイギリスに来たんじゃないわ。母が死んで父が私を引き取っ てくれたんだけど。あとできた後妻とうまくいかなくて…」
「なるほどね。言われてみればあなたの顔ゲルマン人の特徴をよくそろえて るわ」
「ねえ、私ここで何をすればいいの。メイドとして働かされるの」
「んん……メイドはメイドでいるし看護婦も医者もここには揃ってるわ…… …あなたはね、」
彼女はそこでいったん言葉を区切った。その先はこの幼い子にはとても言え なかったのだ。
「ほら見てご覧なさい。あなたの仲間があそこにたくさんいるわ」
指差す先に大広間があってそこに若い女性ばかり七八人たむろしてゲームに 興じている。
「あの人たちも竜巻岬から飛び降りたの」
「そうよ。もう何年も前にね」
「じゃあ、あそこから飛び降りてもみんな助かっちゃうんだ」
「そうじゃないわ。だいたい網を出すかどうかはご領主様の判断一つだし、 うまく引っ掛かるんだって三人に一人だそうよ。それにたとえそうして助けて も本当に生きる気力を失った人もいて、そうした場合はその人の好きにさせる の。ここは慈善事業じゃないもの」
看護婦がそこまで言った時、彼女の言葉を遮る者がいた。
「ジャニス」
一言叫んだだけだったが、その凄味のある声はそれでだけで十分におしゃべ りな彼女の口を塞ぐことができたのだ。
声の主はペネロープ。でも広美が振り向いたときにはもう柔和な顔へと戻っ ている。
「体調はどうかしら」
「………」
「ん…顔色はよさそうだけど。どうなの落ち着いたのかしら」
「たぶん大丈夫かと思います」
「あなたはまだ若いものね。普通は三日ほど様子をみるんだけど、明日から でも試練に耐えられそうじゃなくて」
「…し…れ…ん…」
「そうあなたはこれから試練を受けることになるの。ここで暮らすための。 もちろんここで暮らしたくなければそれはそれでいいのよ。無理強いはしない わ。その場合はあなたの最初の望みがかなうだけ」
「最初の望みって」
「あら、もう忘れたの。竜巻岬であなたが望んだことよ」
「………」
広美は思わず息を飲む。
「大丈夫。その時は寝ている間にそっと処理してあげるから、苦しむことは 何もなくてよ。ここへはあなたの意志とは関係なくお呼びしたんですもの…。 そのくらいの礼儀は心得てるつもりよ」
「………」
広美はすでに死ぬ気などなかった。だからペネロープの言葉に不安と恐怖が 走る。死にたくない以上試練を越えて生き抜くしかなかったのだ。
「やってくださるわね」
「……」広美は首を縦に振る。
「まあ、聞き分けがいいのね。その気持ちが大事なのよ」
こうして広美はベッドで目覚めた二日後から、ここの一員として暮らすこと に決まったのだった。
<序章(了)>