第1作目から芝居の話
私はこの数年来、河出書房新社という出版社から、つづけざまに5冊の本を出している。「緊縛の美・緊縛の悦楽」「実録・縛りと責め」「性の秘本・責めと愉悦」「『奇譚クラブ』の絵師たち」「『奇譚クラブ』とその周辺」、すべて書き下ろしの文庫本である。 近いうちに6冊目が出る。これは、某誌に連載中のエッセイをまとめたもの。 その6冊目の本のタイトルは、「緊縛・いのちある限り」というのだ。河出書房の編集部の人がつけてくれた。 「緊縛・いのちある限り」なんだか凄いタイトルである。悲愴感が漂っている。ちょっとおどろおどろしい感じもある。 私自身には女体を縛ることに、悲愴感なんて、すこしもない。自分が好きな女性を、好きなように縛り、好きなように愛撫し、私自身の肉体も女性から愛撫されて、この上ない快楽を味わっているのだから、悲愴感なんて、あるはずがない。「いのちある限り」というけど、好きな女性を思いのままに縛っていると、楽しくて楽しくて、どんどん寿命がのびるような気がする。いま私が、好きな女性を縛って、快楽の坩堝(るつぼ)にはまりこんでいる情況は、「S&Mスナイパー」という月刊誌に連載している最中なので、興味のある方は、どうか、そちらもお読みください。 え?なんですって? 他人が楽しんでいる様子なんか、読みたくもない、とおっしゃるんですか? うん、それもそうであります。 たしかに、他人が、しあわせそうに、快楽をむさぼっている図なんて、想像しただけで腹立たしい限りであります。ですが、まもなく80歳になろうという男が、老醜をむきだしにして、27歳の若い女体と、痴戯、痴態の限りをつくすなんて光景は、めったに読むことはできませんよ。 さて、私はなにを書こうとしているのか。そうだ、この「おしゃべり芝居」では、私が過去に書かなかったことを吐き出してしまおうと思っているのだ。 「おしゃべり芝居」の「芝居」というのは、単なる装飾語ではなく、実際に「芝居」、つまり「演劇」のことであります。 私の「SM人生」は、本当のところをいうと、私の「演劇人生」と、かなりの部分で、からみ合っています。 それをいままで書かなかったのは、それまで書くと、なにやら話がゴタゴタ、複雑になって、わかりにくく、読者に不親切なような気がしていたからです。 芝居をやりながら小説を書き、雑誌の編集をやり、同時にまた芝居をやって、原稿を書きながら、ときには寄席芸人のまねごとをしたりして、とにかくおちつきがない。 その間に、もちろん、ズーッとSMに関連した何かをやっていて、その種の文章を書きつづけていました。 「プロフィル」のところで書いたように、まるでバカみたいに、いろいろなことをやってきております。 「演劇」といったって、そんなこころざしの高い、立派な、ご大層なものではなく、正直にいえば、私の中には、いつも芝居への憧れがあり、「演劇指向」のようなものがあった、というところでしょうか。要するに、きわめて低次元のところで、単に芝居が好きだった、ということです。 私が最初に書いた「SM小説」は、昭和28年(1953年)11月号の「奇譚クラブ」に発表した「悦虐の旅役者」です。40枚ほどの短編小説です。青山三枝吉というペンネームで書いています。挿画は、都筑峯子さんという筆名の、じつは男性です。 この画家に関しては「『奇譚クラブ』の絵師たち」の中に、こまかく書いておきましたので、興味のある方は、そちらをお読みください。 「悦虐の旅役者」は、タイトルで示されているように、浅草で軽演劇(ああ、この軽演劇という言葉も、いまはない)をやっていた劇団が、当時大流行したストリップショーに押され、女剣劇の一座を組んで旅興行に出る、その巡業中のことが描かれています。 一人称で書かれており、作中の「私」は、その一座の狂言方、つまり座付き作者ということになっています。 つまり、私の小説は、第一作目のときから「芝居の世界」が出てくるのです。それは、私が意識して、芝居の世界(それも東京の大舞台ではなく、最も大衆的な、小さな旅の芝居)を描こうとしたわけではなく、テーマはSMなのに、気がついたら、ごくしぜんに、そういう旅の一座が、小説の舞台になっていた、ということです。そしてこの傾向は、のちのちまで、つまり、50年後の今日までつづいています。 旅芝居の一座、というと、それだけで私はもう、ドロドロした泥絵具の色彩にも似た、男と女の退廃味の濃いロマンティシズム、そして、ふつうの世俗社会にはない独特のエロティシズムがあるような気がします。 これはもちろん、私だけが抱く勝手な空想、あるいは妄想にすぎないのですが、私にはとくに、この種の憧れに似た思いが子供のころからありました。 旅から旅へ、怪しげな芝居を演じて移動する一座の男女たちの生活には、人生の裏街道を忍びながら歩く、後ろめたいさびしさがあり、そしてまた、ときには途方もなく甘美な、グロテスクな快楽がひそんでいるような気がして、ものごころついたころから憧れていました。麻薬にも似たような魅力を感じていました。 いや、80歳に近くなったいまでも、魅力を感じています。ですから、好きで、よく観ます。「悦虐の旅役者」を書いた55年前の気持ちと、すこしも変わっていません。 (じつは、私は、心の中でひそかに、ああいう一座の魅力がわからない人間に、SMの感覚がわかるはずはない、と思っています。) 私のこの文章に「おしゃべり芝居」という名をつけた理由が、すこしおわかりいただけたと思います。とにかく私は、芝居が好きなのです。 第一作目が好評で、すぐに原稿料も送られてきたので、つづいて第二作目に「春風座秋の旅路」というのを書きました。同じく旅役者の話です。これは、つぎの号、つまり昭和28年の12月号に掲載されました。 「貴殿の書かれる小説は、どこか明かるく、ロマンティックなムードのあるところがいい。雑誌の性質上、小誌はどうしても暗く陰湿になります。貴殿の作品は、それを救ってくれます。これからも、この調子で作品を送ってください。筆名を変えてくだされば、同じ号に、何編でも掲載させていただきます」 という手紙が、編集長の吉田稔氏から送られてきました。 その手紙の情熱的で、誠実な内容が、その後、私と「奇譚クラブ」との関係を、密接なものにしていくのでした。 (つづく)
(つづく)