2007.08.21
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第五回

 囚衣の中のエロティシズム


 「与力・同心・十手捕縄」の中に掲載されている、小さな名刺型の、60枚のモノクロ写真を見ていると、たまらなく欲情してくるのだ。プロとはとても思えない新鮮な、清純そうな女の子が、両腕を背後にまわされ、手首を交差されて縄で縛り合わされている写真を見ていると、ムラムラ、モコモコ血が騒いで、アア、恥ずかしい、勃起してくるのだ。がまんできなくなるほど、欲情するのだ。私はやっぱり縄マニアなのだ。
 しかし、この手首の縛り方は、じつは、ゆるゆるで、緊縛感に乏しい。私には不満の多い縛りだ。不満だらけといっていい。全体的に、緊張感がもう一つである。
 だけど、感じるのだ。感じさせてくれるのだ。この女の子の不安そうな、おびえたような、びっくりしたような、だけど縛り手である先生を信じようとしている、その可憐な表情がいいのだ。つくられたものが、一つもない。
 いまの緊縛写真のカメラマンは、つくりすぎだ。SMの本質を知りもしないくせに、何もかも、自分でつくろうとしている。これがSMだ、SM写真はこうだ、という間違った観念に支配されている。だから、彼らの撮った写真には、マニアをよろこばせる魅力がない。形だけを追いかけ、魂を失っている。
 この女の子はまったくつくっていない。演技をしていない。魂だけが表現されている。
 日頃尊敬している先生のために、囚人に扮して、おとなしく両腕を背中にまわして縄で縛られているというこの設定(じつは私の妄想だけど)が、たまらなくいい。アア、ぞくぞくする。芸術は形よりやっぱり魂が先だ。

 この本「与力・同心・十手捕縄」を、じつは、発見した翌日、某誌の若い編集者にみせた。写真のページを示して、勢いこんで私はいった。
 「ね、ね、いいだろう、感じるだろう、この写真!」
 すると、その編集者、かりにA君としておこう、A君、キョトンとした顔でページをめくって、
 「感じるって、どこが感じるんです。体のほとんどは白い着物でかくされていて、出ているのは、顔と手首だけじゃないですか」
 と、言いやがった。
 しまった!と思いましたね。こんなバカに、この写真を見せるんじゃなかった!
 この編集者に、この写真を見せたところで、返ってくる言葉はわかっているのに、うっかり見せた自分の愚さに私は後悔し、傷ついた。
 「そうか、きみの想像では、オッパイや股のあいだを見せないと、緊縛写真とはいわないんだったな」
 「当たり前じゃないですか。こんな色気のない写真をのせたら、雑誌は売れなくなります」
 「そうかね。この写真からは、色気が感じられないかね」
 私はこの編集者が、先日の撮影の現場で、モデルの股間に、太いバイブを二本挿入し、同時に肛門にも一本ねじこんでカメラマンに撮らせていたことを思い出していた。彼はそれを「三本責め」といって自慢していた。
 また一カ月前には、縛って大股開きにしたモデルの陰唇を、二個の洗濯バサミではさみ、糸で引っ張って左右にひろげたシーンを、カメラマンに撮らせていた。
 カメラマンも夢中になり、
 「よしよし、もっとめくれ、めくりあげろ。おお、いいぞ、子宮まで見えるぞ、よし!」
 怒鳴りまくり、撮りまくっていた。
 こういう非日常的なポーズを、すこしも動ずることなく、従順に、平気な顔でやっている若いモデルの神経の太さを、私はすごいと思うが、洗濯バサミに引っ張られてめくれあがっている陰唇をみても、すごいとは思わない。エロティシズムも感じられない。
 陰唇なんて、しょせん陰唇である。
 そこの何かの人間的な感情が動かなければ、エロティシズムのにおいは発してこない。むしろ色彩といい、形状といい、陰唇の存在なんて、エロティシズムの感覚からは遠く離れる。
 「古流捕縄術」の写真における少女モデルは白いぶかぶかの囚衣を着せられているが、その囚衣の内側にひそむ太腿の合わせめからは、羞恥にまみれたエロティシズムが匂い出し、充満しているのである。
 (どうも私は表現が露骨でスミマセン。だけど実感なのです、先生、ゆるしてください、怒らないでください。世の中には私みたいな、こんなアホな妄想人間もいるのです)
 両手首を背中に縛られている少女の可憐な肉体の奥底からは、裸で股間をひろげたプロのモデルよりも濃厚なエロティシズムの香りが、むんむんただよい流れているのを感じるのです。
 しつこいようだけど、だいじなところなのでくり返す。
 むきだしにして、洗濯バサミではさんで、むりやりめくりあげた陰唇の姿よりも、白衣の奥底に隠されている股間を想像したほうに、マニアは(マニアだけではないと思うが)エロティシズムを感じるのです。80歳近い私でさえ、どうしようもなく興奮し、欲情してしまうのです。
 マニアというものは、少しのヒントと手掛かりさえあれば、ここまで妄想を多彩にひろげてしまう種族なのです。それがマニアの「才能」というものです。
 「濡木先生、ほんとですか?ほんとにこの地味な写真を見て、先生は興奮するんですか?」
 あきれ顔で、A君は私をみていう。
 「地味?地味じゃないよ。ぜいたくに時間と空間とエネルギーを使った、味わい深い、華やかな写真じゃないか」
 「ほんとですか?ほんとにこの写真で感じるんですか?ウソでしょう、先生、カッコつけてるんでしょう?」
 「カッコなんかつけていないよ。おれがいまさら、カッコなんかつける必要、あると思うかね」
 「フーン、そうですかねえ」
 と、A君はまだ信じてくれない。
 「ハダカにした女の体のすみからすみまでむき出した、きれいなカラーの緊縛写真を、目の前に100冊並べられるよりも、おれは正直、この小さなモノクロ写真のほうが興奮するんだ、欲情するんだ。オナニーしたくなるんだ」
 そのきれいなカラー写真で埋められた豪華な緊縛写真集100冊のうち、おそらく90冊は、撮影現場で、私が「緊縛」を担当している。だから、私の言うことは矛盾している。
 私の言葉の矛盾に気づき、A君は、なかば嘲笑をふくんだあきれ顔で、
 「先生、先生は変態だ」
 その言葉に、私のほうがびっくりする。
 「えっ?おれのことを、なんだと思っていたの?そこにもここにもいる、正常な、まじめな人間だと思っていたの?」
 「べつに、まともだとも、正常だとも思っていませんけど……」
 SM雑誌の編集は、いま、むずかしい。
 緊縛、マニアばかりを対象としているわけではないから、むずかしい。
 SMも、SMもどきも、ノーマルなエロも入れなければならない。しょせんは商業雑誌で、とにかく売らなければならないから、むずかしい。A君には、A君の苦労がある。
 今の世の中で、いちばんぜいたくで楽しい作業は「古流捕縄術」のような写真を、ゆっくりと、しめきりなしに撮ることであろう。

 そうだ、私もあしたは、落花さんを相手に、先生のこの御本をみながら、「東流・百姓の縄」というのを掛けてみよう。
 (と思って、改めて写真を見た)
 エッ、エッ、エッ?
 江戸時代悪いことをした百姓に、役人はこんなにていねいな、複雑な縄を掛けたのだろうか? 理解しがたいなあ……。
 こんなめんどくさい、手間のかかる縛り方をする必要があったんだろうか?
 どうも、信じられないなあ……。
 ほんとに、へたをすると、30分位かかりそうです。
 でも、やってみよう。なにごとも勉強です。落花さんはしかし、この「百姓縄」が完成する前に、縄に感じてしまって、半分失神して、体を横に倒してしまうだろうなあ。
 (そういう彼女のポーズも、それはそれでたいへんに悩ましく、魅力的で、エロティックで、私は大好きなのですが……)
 完成まで、とても持ちこたえられないだろうなあ。体を起こしていられないだろうなあ……。
 縄に対して、それほど敏感な人なんです。
 このへんのことは、前回に書いたように、写真はNGな人ですから、文章で結果をご報告いたします。
 「百姓縄」がうまくいっても、いかなくても、それはそれで、もちろん、楽しいのです。楽しいのは「完成」よりも。その「過程」のほうなのです。

つづく

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