2009.10.30
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百回

 野崎村は寒かった


 敗戦の翌年である一九四六年(昭和二十一年)、正月興行の鶴亀劇場で、私は、私の師匠である市川福之助と、初めて同じ舞台に立ち、短いながらも、師とセリフを交わした。
「新版歌祭文」野崎村の場である。
 福之助は、恋人である久松をたずねて、はるばる大阪からやってくる油屋という屋号の質屋の娘お染。
 私の役は、そのお染にしたがう女中のおよしである。
 福之助の付人である中島さんは、わざわざ客席へまわって、私の舞台を見てくれた。
「福二郎さん、よかったよ。あんたはさ、なんの役をやっても、一応その役になりきるから、うまいへたはべつにして、そこがあんたのいいところだよ」
「ありがとうございます」
 私は頭を下げて、礼を言った。
 だが、うまいへたはべつにして、というのはどういう意味だろう、と思った。
 このおばさんは、本所寿劇場時代からの福之助の付人だった。付人としてベテランの風格があった。年はもう五十に近かったのではないだろうか。
 舞台衣装の着付け、化粧の介添えなど、福之助の身のまわりの一切を、こまごまと世話する。
 頬骨が高く、目は落ちくぼんでいて、唇の大きい、顔のこわいおばさんだったが、私にはやさしく、親切だった。
 野崎村の女中およしの顔をつくってくれた(メイクしてくれた)のも、中島さんだった。
 一、「だんまり」 二、「野崎村」とつづいて、三番目、つまり切り狂言は「喜劇・娘十八」となるが、この芝居の内容は忘れてしまって、いまの私の記憶にない。
 私も出演していて「芳松」という役をもらっているのだが、覚えていない。
 題名から察して、いつもの曽我廼家五郎劇からの焼きなおしだろうと思うのだが、どんな芝居で、私はどんなセリフを言ったのか、記憶から欠け落ちている。
「喜劇」とはなっているが、あまりおもしろくない、印象にのこらない芝居だったのだろう。
 鶴亀劇場の正月興行が終わり、坂東竹若一座は、その三本の演目をそのまま持って白鬚劇場へ移った。
 向島のこの白鬚劇場でも、まだ正月興行である。
 私のメモには、三つの演目だけが記され、その下の配役のところには「前と同じ」とだけ書かれている。
 何月何日から、何月何日まで上演した、とは書かれていない。記録性はうすいのだ。だから私の書くものは、ほとんど「思い出話」になってしまう。いまとなっては致し方ない。
 この年の冬は、とくに寒かったように思う。
 いまでは信じられないかもしれないが、この時代、冷暖房の装置がなかった。
 客席が満員になっても、人間の体温で寒さがやわらぐということはなかった。
 舞台も客席も真冬の寒気に冷えきっていた。客席の椅子の下はコンクリートの床であった。足の指から足首、膝までがしんしんと冷えてくる。
 近所に住む客は、自宅から座布団を持参して、それを椅子の上に敷き、両足を折って、つまり正座して芝居を見た。
 これはべつに向島の場末の小屋だから暖房がないというわけではない。
 敗戦の翌年である。当時はどこの映画館へいっても劇場へ行っても、暖房なんてぜいたくなものはなかった。
 有楽町駅前の日劇の地下にあったニュース映画館には椅子がなく、私は立ったままで映画を見た。私だけではない。客はみんな立ったまま映画を見ていた。
 客席に椅子がなかったからである。
 信じられないだろうが、事実である。
 アメリカ軍の空爆によって焼き払われた空地に、北風がぴゅうぴゅう吹いていた。
 白鬚劇場を出て、常磐線・南千住駅まで歩いていく途中には、二基の大きなガスタンクが見えるだけだった。
 つい数カ月前のこの土地の上には、焼け爛れた老若男女の死体が、重なり合ってごろごろ転がっていたのだ。
 このあたりでは、白鬚劇場を中心にした一角だけが、奇跡的に焼けのこっていた。
 映画館をすこしばかり改造した小屋は、隙間風もひどかった。
 北風が吹くと、トタン板を張った屋根がめくれてペコペコ鳴った。
 このときの私の日記帳の欄外の余白には、冷たく寒い日の舞台のことを書きつけた、詩のような文章がある。

  野崎村

  ずいぶん寒い日です
  大阪から久松をたずねてきたお染は
  ようやく恋しい男に会えたというのに
  きつねみたいに目を細くつりあげて
  舞台でふるえています

  久松に裏切られたお光は
  客席に背をむけて泣いています
  軒先につるされた早咲きの梅の枝はゆれ
  北風は小屋の屋根を鳴らして吹き
  寒い日はみんな不幸です

 野崎村の百姓久作の娘お光と久松は、幼ないときからのいいなずけで、やがては夫婦になる約束をしている。
 ところが、久松は奉公先の大坂の質屋の娘お染と仲良くなってしまう。久松とお染は、この恋が叶えられなければ、心中するほどの深い仲になっている。
 それを知ったお光は、久松への思いをあきらめ、自分は髷を切って、尼になる決心をする。
 親たちに意見され、ひとまず大坂へ帰ることになって、お染は舟で、久松は駕篭に乗る。
 ここからがクライマックスの見せ場で、お染の乗った舟は、舞台の下手から本花道へ。
 そして駕篭に乗った久松は、舞台上手の仮花道へと、客席から見ると舞台の左右へ大きく分かれて引っ込む、悲しいながらも華やかな場面になる。
 義太夫三味線のにぎやかなツレ弾き「野崎の送り」の名曲となり、私はこの場面が好きで好きでたまらない。
 しかし、それは歌舞伎座などの大舞台での豪華絢爛たる演出であり、向島のもと映画館の小さな舞台では、そうはいかない。
 大芝居では、久作の家の場から舞台が回ると、すぐ裏の土堤の場となり、そこから舟が出ることになっているが、白鬚劇場には、回り舞台の設備がない。
 二場の芝居を一場だけで終わらせるために、舟は久作の家の前から出ることになってしまう。
 舟頭が竿であやつる舟に乗って、お染とその母親のお常は花道に引っ込むのだが、その舟が、うすいベニヤ板に粗末な絵を描いただけのものなのである。
 お染とお常は、舟に乗り込み、腰を下ろしてから、そのベニヤ板一枚の舟の端を、自分の手でつかむ。
 つまり、舟のへりを、自分の手で支えて、倒れないようにしなければならない。
 舟底は直接舞台の上になる。
 横に細長い板一枚だけの舟なので、手で支えないと倒れてしまう。
 義太夫の演奏と、立ったままで竿をあやつる舟頭のしぐさに同調して、その舟は進行する。
 乗っているお染とお常は、腰を下ろし、すわったままの形で舟を動かして、曲に合わせながら全身を横にずらしていかねばならないのだ。
 上半身は動かさずに、舟のへりをそれとなく支え、腰と足とをすこしずつ横にずらして、舟が進んでいくように見せる。
 単純で粗雑な仕掛けなので、それは客席から丸見えなのだ。
(いまはセンサーとやらの高度な仕掛けで、舞台につくられた海や川の上を、一隻の舟が自由自在にすべりまくる)
 本物がそこになくても、あるように演技するのも役者の芸にちがいないのだが、悲劇のクライマックスに、そのような粗末な仕掛けしかできない「小芝居」の貧しさが、私には悲しかった。たまらなくみじめに思えた。
 悲しいのは新米役者の私なんかよりも、お染役の福之助のほうにちがいなかった。
 久松のほうも、本来ならば舞台上手につくられた仮花道から、駕篭に乗って華やかに退場するシーンなのだが、ここでは義太夫の三味線に合わせて、立ったまま体を動かし、踊るようなしぐさを見せながら、中途半端に一歩ずつ、袖幕のかげに身をかくすだけなのだ。
 それは、まだ十七歳の私が見ても、貧しい演出だった。
 それでも、久松を演じる尾上音女も、父親の久作を演じる尾上竹之助も、主役である娘お光に扮した坂東竹若も、この一幕の情感を盛り上げ、まじめに熱演した。
 役者たちのひたむきな芸にひきずられたかのように、客席も、粗末な舟の動きを嘲笑する気配はなかったように私は思う。
 熱演にはちがいないのだが、火の気のない小屋の中の寒気はきびしく、それを耐えているために、お染の顔は硬直し、きつねのように目尻が細くつり上がっているのだった。
 このときの福之助の、寒さに凍えた顔を、私はきのうのことのように思い出す。
 せまい楽屋には、火鉢一つ置くほどの空間もなかった。
 冬、顔にぬる白粉刷毛(おしろいばけ)の感触はつめたい。
 隅田川の向こう側というと、私はいまでもお染の顔が凍ってきつねに似るほどの寒いところ、という感覚がある。
 白鬚劇場などは、もう影も形もなくなっているだろうが、JR南千住駅をおりて泪橋を左へ折れて白鬚橋をわたり、かつて私がそういう思いをした場所へ、こんどRマネと共に歩いてみようという約束をしてある。
 その時代の面影が、すこしは残っているかもしれない、とRマネは言うのだが、もう六十数年たっている。かけらも残っていないような気がする。
 あのときの寒さ、みじめさ、苦しさを、もう二度と味わいたくないと思いながら、しかし一方ではなつかしい記憶ともなってこのように、折りにふれて懐古してしまうのは、なぜだろう。
 私は十五、六歳のころから、久保田万太郎の小説を好んで読んでいたが、同時に、長田幹彦の「零落」「扇昇の話」「零(みお)」などの小説をくり返し愛読した。
 それは愛読というより、「耽読」であった。この小説の世界に耽溺した。
 読んでいると全身がジーンと痺れてくる。
 そして、いつかは自分も、この小説の主人公のようになりたいと夢想した。
 東京での暮らしがいやになった男が、一人で旅に出て、北海道でわびしい旅役者の一群と知り合い、ついにはその一座の役者になってしまうという話である。
 世間一般の生活に背をむけた、貧しい、わびしい、不幸な旅役者たちの姿が、詩情をもって描かれている。
 私には小さいときから「零落趣味」というような感情があり、それはマゾヒスティックな感覚に近かったのだが、この小説に耽溺することによって、その傾向はさらに強くなったように思う。
 長田幹彦という作家について、昭和三年春陽堂刊の「明治大正文学全集」第三十三巻「長田幹彦・野上弥生子」の中に、こういう略歴が記されている。

 長田幹彦先生小伝
 明治二十年三月一日、東京市麹町区九段中坂に生る。(中略)早稲田大學英文科に入學、専ら英仏露の文学を学ぶ。明治四十二年より漂泊的生涯に入り、北海道にて遂に旅役者の群に投ず。帰来、出世作「零落」を中央公論に寄せ、一躍して文名挙がる。後又京阪の地に流寓、爾來十七年間に著書八十九巻。

 敗戦直後の混乱期のなりゆき次第の運命もあったが、私が市川福之助の弟子になり、向島の焼けのこったみすぼらしい小屋の中で、寒さにふるえていたのも、この「零落」という小説の影響があったように思う。
 だが、実際に味わってみると、小説に描かれている世界よりもさらにきびしく、わびしく、希望のない日常に、私はふるえていた。
 しかし、座長の坂東竹若も、師の市川福之助も、その他の役者たちも、みんなけなげに一生けんめい毎日芝居をやっているのだった。みんな芝居が好きなのだった。
 いや、彼らは芝居しかやることがなかったとも言える。
 どんなに設備のない貧しい小屋でも、芝居をやってすこしでもお客がきてくれれば、飢えはしのげる。
 明日の運命がわからない敗戦直後の世の中、とにかく飢えをしのぐことが大切だったのだ。
 戦争に負けて、もう頭の上におそろしい爆弾を落とす飛行機が飛んでくることはなくなり、平和がきた、平和がきたとわめいているが、本当に平和がきたのかもわからない不安な時期、だからこそ彼らのやる芝居には、ひたむきさと情熱があり、私をいまだに感動させつづけているのだろうか。

つづく

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