2009.10.21
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十九回

 奇妙な家畜人ヤプー


 たこ八郎との交友はすこしばかりあったが、べつに「SM」がからんでくるようなものではなかった、と前に書いた。
 だが、ほんのちょっとだけあった。
 いや、まてよ、やはり「SM」というほどのものではなかったかな。とにかく書いておこう。
 東銀座の三原橋の下にあった小さな劇場、劇場というより映画館の舞台で、「家畜人ヤプー」と題した芝居をやっており、そこに、たこ八郎が出演していたのだ。
 その映画館は、いまはシネパトスという名称になり、やや異色の洋画専門館になっているが、当時はいわゆる「ピンク映画」ばかりやっていた。
 ピンク映画が続々つくられ、隆盛のきざしがあった。
 そこは或る興行会社の経営で、都内にピンク映画系の直営館をいくつも所有し、映画と同時に、アトラクションとして上演時間一時間ほどの「実演」を毎日やっていた。
 実演とは、芝居つまり演劇のことである。
 そのための小さな劇団が、二つか三つあった。ピンク女優を中心にした、いわゆるピンク劇団である。
 その中に「劇団・炎」という座員五、六名の一座があり、私は縁があってそこの座付き作者みたいなことをやっていた時期がある。
 それが、昭和なん年から、なん年ごろまでのことか、記憶はあるが、記録はない。
「劇団・炎」で上演された私の芝居の台本はすべて「裏窓」および「サスペンス・マガジン」に掲載してあるので、調べれば大体のことはわかる。このときのペンネームは藤見郁である。
 だが、私が「劇団・炎」の青木マリや、水咲陽子のために脚本を書いたのが、昭和なん年か、それが正確にわかったところで、どうということはない。
 この時代、私のメインの仕事は「裏窓」の編集長である。
 編集の仕事は一週間で片づけ、あとのこまかい作業は部員にやらせて、私はそういう芝居に関わり、毎日を楽しんでいた。
 あ、思い出した。「劇団・炎」に関わる前、私はテレビ映画の台本を書いていた時期もあったのだ。それも編集長時代だった。
 そのへんのことを書き出すと「たこ八郎」から、ますます話が離れるので、本筋にもどす。
 この映画館の舞台で、つぎに上演しなければならない「劇団・炎」の台本のこともあって、私はたこ八郎が出ている「家畜人ヤプー」の芝居を見た。
 当時「沼正三とは一体何者なのか?」と一般のマスコミにも騒がれていた、あの「家畜人ヤプー」とは、ほとんど関係のない、きわめてお粗末な芝居だった。
 たこ八郎が裸で宇宙人に扮し、しきりに「キャッ、キャッ」という奇声を発し、手足をふり回していたシーンだけしか記憶にない。
 あまりにもくだらないので、腹も立たなかった。
 客席にいたのを舞台のたこ八郎に見られ、だまって帰るのも不愛想だと思い、外へ呼びだした。
 舞台裏も楽屋もせまく、外部の人間が入る余裕がない。
 外へ呼びだしたところで、会話をかわせる相手ではないので、
「見たよ、おもしろかったよ、がんばってね」
 とだけ言って彼と別れた。
「家畜人ヤプー」とは、なんのことか、彼にはまったくわかっていないのだ。だから会話は成立しない。たこ八郎と「SM」とは、やはり結びつかない。
 たこ八郎がこういう芝居に出たりしていたとき、「たこ部屋」の営業はどうなっていたのか。
 きっと井上荘のママか、知り合いの女の子が店を開いてやっていたのだろう。「たこ部屋」の本当の経営者は、もともと井上荘のママなのである。
 そのへんのことは、私にはよくわからない。聞こうともしなかった。
 或る夜「たこ部屋」へ行くと、深井俊彦とたこ八郎がめずらしく何やら熱心に話し合っている。
 他に客の姿はない。
「だからね、だからお前はバカだっていうんだよ。あんなときに、お前一人だけがふり返ったら、みんなで一生けんめい走って逃げているあのシーンの雰囲気がこわれるだろう。もうお前は、あの監督に使ってもらえない。ほんとにバカなことをしたなあ」
 と、深井俊彦が説教しているのだ。
 ホウ、めずらしいことがあるもんだ、と私は思い、だまって聞いていた。
 深井が怒ったり、人に説教なんかしているのを、私は見たことがない。
 もともと声が低く、もの静かにしゃべる人なのだ。
 たぶんムシ歯がぬけ落ちてしまったのだろう、前歯が上下ともない。
 そのために唇が上下とも奥へ引っ込んでしまっていて、大声で的確に発音できない。
 のどの奥のほうで呼吸をするようにしてボソボソしゃべる。
 八の字型の眉毛と、柔和な細い目と、黒ぶちのメガネの人相に、そのおだやかな低音はよく似合った。
 あまり理髪店に行かないので、髪の毛はのび放題にのびていて、しぜんに荒々しいオールバックの形になり、後方へ長くたなびかせている。
 百九十センチ近くもありそうな長身で、いつも背中を丸めて歩いている。
 髪の毛をぼうぼうにのばした、身なりをかまわない長身で猫背の初老の男が、飄々と新宿の街を歩くのを見て、踊り子たちは、「乞食ライオン」とか、「ライオン乞食」とか呼んでいた。
 もちろん、親しみと愛情をこめたニックネームである。
 なんとなくうす汚ないので、多少の蔑視もあったが、とにかくやさしく、好人物なので踊り子たちに人気があった。
 だれに対してもおだやかで、冗談ばかり言っていた。日常の会話まで、冗談だけで成立させていた。
 前述のように、美濃村晃と私がたずねて行くと、うれしそうに目を細めてニヤニヤ笑いながら、
「やあ、へんたい二人組がきたぞ。それじゃおれも入れてもらって、へんたい三人組でいこうか」
 というように。
 その深井俊彦が、まじめな顔で、しかもたこ八郎を相手にしゃべっているのは、めずらしいことであった。
「役者なんてものはな、監督の気持ちになって動かなければいけないんだよ。お前、あの監督にはもう使ってもらえないぞ」
 と、背中をふかく丸め、たこ八郎の顔をのぞきこむような姿勢になって深井は言う。
「だけどよう、師匠、おれは役者として、ちょっとでもいいから認めてもらいたくて、あそこでふり返ったんだ。おれには役者としての姿勢があったんだよ」
 と、たこ八郎はなかなか屈しない。
 二人は深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」の一シーンについてしゃべり合っているのだった。
 その映画の中で、チンピラやくざの一群が警官隊か、あるいはべつの暴力団だったかに追われて逃げていくシーンがある。
 そのチンピラやくざの一群の中の一人であるたこ八郎が、ひと足遅れて、ホンの一瞬だけ、後方をふり返るショットがある。
 後方というのは、つまり、スクリーンを見ている客席ということになる。
 たこ八郎は、自分を役者として目立たせたいため、役者として、あれは意図してやったことだと主張する。
 深井俊彦は、そんなことをしたらシーン全体の調和がこわれるから、やってはいけないと叱っているのだった。
 私はたまたま、その映画を見ていた。
 七、八人の男が固まって、バラバラ走って逃げていくとき、たこ八郎がわざと遅れて、ふり返って正面に顔を見せたそのシーンを、はっきり記憶していた。
 そして、たしかにそのとき、
「あ、たこ八郎が出ている!」
 と思った。たこ八郎という役者を印象づけられた。
 しかし、深井俊彦のいうことも間違ってはいない。
 演出家としては、そんなことは勝手にやってもらいたくない。
 深作監督がそのシーンをそのまま使ったのは、このときの撮影は手持ちのカメラで流動的に演出していたので、画面のブレや気になるところが多少あっても、人間の動きをリアルに表現する意図があり、その効果のほうを重視したのであろう。
 たこ八郎が写っていたのは、ほんの一瞬だけなので、監督としては撮りなおしをするほどのことはないと思ったのだろう。
「たこ部屋」のガラス戸が、がらがらとあいて、私も深井も顔を知らない客が入ってきたので、師弟の論争はそこで中止されたが、私はたこ八郎が「役者の姿勢としては」なんて言いだしたことが印象にのこった。
 論争の途中で、たこ八郎は私の顔を見て、
「ねえ、先生はどう思う?」
 ときいた。
 私は当然、深井の意見のほうを正しいと思うのだが、みんなからバカにされているたこ八郎が、自分の意志を持っていることにちょっと感動し、あいまいに、
「うん、そうだなあ」
 などと返事をし、言葉を濁した。
 私は、たこ八郎のことをバカだと思ったことは一度もない。バカのふりをしているだけだと思っていた。
 たこ八郎は、いつも礼儀正しく行動していた。ボクシングのための脳障害の後遺症があり、失禁するという噂も、おもしろおかしく伝えられてはいるが、私は本当にしていなかった。
 バカのふりをして低姿勢で世間を渡り、芸能界で生きるのが、彼の処世術だと思っていた。
 人通りの多い祭の夜の、ごったがえす混雑の中で、私をみつけて呼び込む眼光の鋭さ、そして、そのときの彼の、全身から溢れ出るあたたかさ、親密感は、ただものではなかった。
 新宿のゴールデン街の中で、ばったり、たこ八郎と出会った。
「先生、こんど山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』という映画に出て、高倉健さんに殴られるんですよ、見てください!」
 声をはずませて言うと、うれしそうに彼は片目で笑った。
 それが昭和なん年、なん月、なん日のことだったか、私の日記には書いてない。

つづく

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