2009.11.3
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二回

 痴女の棲む二階


「おしゃべり芝居」について、Rマネと打ち合わせをしていて、こんな話題になった。
「この白鬚劇場時代のことを、先生は以前、藤見郁のペンネームで小説に書いていますよ。SMセレクトに掲載されています。いい小説ですよ」
「えッ? 忘れていたよ。読んでみようかな」
 さっそく風俗資料館の中原館長にお願いして、その雑誌をさがしてもらった。
 東京三世社発行一九七六年四月号の「SMセレクト」に、たしかにその小説は掲載されていた。
「痴女の棲む二階」という題名で、ペンネームは藤見郁である。
 ぼう大な数の図書、資料などを集めてある館内の棚の中から、アッという間にその一冊を探がし出して私の目の前に置いた中原館長に、いつものことながらびっくりする。
 博覧強記とは、まさしく、この人のことをいうのだろう。
 私の数多いペンネームを、私以上に知っており、私の書いたものについて、私以上にくわしいのである。ただただ、恐れ入るより他はない。
 その二十三ページにわたる「痴女の棲む二階」を、中原館長はすぐにコピーして、私に手渡してくださった。
 で、読んでみた。
「白鬚劇場」という名称が、そのまま出てきている。
「長田幹彦」という作家の名前も出てくる。
 私が書いた小説にちがいないのだが、これは意外だった。
 三十年前に書いたものなので、こまかい内容は忘れてしまっているが、比較的まじめに忠実に少年時代の自分のことを描こうとした努力のあとが見える。
 白鬚劇場の裏に隣接してあったうどん屋一家の家庭用の風呂に、舞台を終えた役者たちが入れてもらったことが書いてある。
 夜おそく十数人の役者が入ったあとの風呂の湯が、溶けた白粉と化粧油でどろどろ濁り、それが強くにおっていたと書いてある。
 濁った湯の感触と、臭気を、なつかしく思い出した。
 この小説を書いた三十年前には、まだ私の記憶の中に、白鬚劇場も鶴亀劇場も、まだそれほど古いものではなかったのである。
 つまり、この雑誌が発行された一九七六年は、敗戦後三十年ということである。
 それからさらに三十数年たっている。
 戦争はもう六十五年も前のことになってしまった。
 役者たちが落とした白粉や化粧油がしみこんだ風呂の湯のどろどろした感触やにおいを、私はもう忘れてしまっている。
 それが、この「痴女の棲む二階」の中には、鮮明に描かれていてなつかしかった。
 だが、その風呂を貸してくれた裏のうどん屋の娘とのことは、まったくのつくり話である。
 私が浸っていた風呂に、うどん屋の娘が裸になって入ってきたとか、その家の二階へしのびこんで、娘とエロティックな行為にふけったとかいう話は、すべて掲載誌の性格に合わせた創作である。
 だから、いま読むと、荒唐無稽にすぎて、リアリティーを欠く。
 こういう話をつくるのが仕事とはいえ、よくもまあ、ありもしないことを、せっせと書いたものだと、いまは思う。
 こんな「痴女」が実際に存在したら、どんなにいいだろうという、せつない願望を書き並べたような気がする。
 この一九七十年代から八十年代、九十年代に至る毎日、私は、当時十数種類発行されていた「SM雑誌」の緊縛写真撮影に縛り係として雇われ、裸のモデル女性と共に明け暮れた。
 若い女体と毎日密室みたいなところで向き合っていても、男にとってこんなに都合のいい「痴女」なんて、実際には一人もいなかった。
 モデル女性は、裸になるのが職業だから、裸になるのだ。
「痴女」だから、裸になるわけではない。
 裸になれば、その日のうちにお金がもらえるから、裸になるのである。
(そういえば、この時代、撮影時の私へのギャラも、トッパライ、つまり当日払いであった。撮影が終わると同時に、編集長から手渡されるのである。私がもらったのは一日三万円だったと記憶する)
 数多くのモデルを縛ってきたが「痴女」とか「淫女」には、私は遭遇しなかった。
(まあ、単に私がモテなかったということだけかもしれないけど)
 モテなかった私の欲求不満が「痴女の棲む二階」のような、やたらにモテる「私」を、小説の中に登場させたのかもしれない。
 それともう一つ。
 毎日のように裸のモデルと接触していると、彼女たちを女性としてではなく、単なる素材としか見られなくなってしまう、ということがある。
 つまり、エロティシズムの対象ではなくなってしまう。
 困ったことに、ギャラをもらうモデルを数回つづけていると、女性の肉体からSM的エロティシズムが希薄になってしまう。
 緊縛が、形だけで魂のない緊縛つまり、単に縄をまとっただけのヌードになってしまうと、マニアからそっぽをむかれる。
 だから私たちは、いや私は、私のエロティシズム欲望を奮起させるために、そういう小説を書いたりするのだ。
「痴女の棲む二階」に登場する十七歳の「私」は明かるく華やかだが、実際の私の現実は暗く、みじめで、きびしい寒さにふるえる毎日であった。
 寒さがこたえたのは、食べ物がなかったせいもある。
 飽食時代のいまではとても考えられないが、いつも腹をすかせ、食べる物を追い求めていた。
 ざんねんながら、「痴女の棲む二階」のような快楽的な事実はなかった。
 あれはやはり、夢物語でしかなかった。
 私ばかりではなく、あの当時の、いわゆる庶民はみんな飢えていたように思う。
 恥ずかしいことを書いてしまおう。
 空襲で焼けのこった向島の細い暗い路地を歩いていたとき、どこかの家の勝手口に、何かよくわからない食べ物の切れ端のようなものが落ちていた。
 私はそれをひろって口に入れた。が、すぐに吐き出した。それは犬のふんだったのだ。
 でも、そんな飢餓の時代を、あの役者たちは、必死に、一生けんめい、投げやりにならずに、芝居をやって生きていたのだ。そして私も。
 彼らのその歌舞伎への情熱に心をうたれ、ときに感動の涙を流しながら、あのつめたい暗い時代を私も生きていた。
 坂東竹若一座は、向島の白鬚劇場から、亀有の鶴亀劇場へ移った。

一、 黒手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)仲之町より仕返しまで 三幕

 花川戸助六…………坂東竹若
 揚巻…………………市川福之助
 白玉…………………尾上音女
  以下白鬚劇場と同じ配役

二、 心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)・河庄の場

 紙治が坂東竹若、小春が市川福之助、
 以下配役すべて白鬚劇場と同じ。

三、 舞踊

 この「舞踊」というのが、いまとなってはわからない。
 長唄か、清元か、義太夫の踊りか、それもわからない。
 地方(じかた)つまり演奏者がいないのだから、そういう本格的な歌舞伎舞踊ではないことだけは確かである。
 あるいは、レコードで踊ったのだろうか。
 私の日記には「舞踊」とだけしか記されていない。
 なぜもうすこしこまかく、たとえ一行でも二行でもいいからメモしておかなかったのか、くやまれる。
 踊りの内容を書いておけば、敗戦直後の都内の貧しい場末の舞台で、どのようなショーを客の前に提供していたのか、混乱時の世相の一端がわかるような気もするのだが、ざんねんに思う。
 一方で、それを私如きがいま知ったところで、どうなるのだ、どんな値打ちがあるのだ、という気持ちもある。
 値打ちがあろうが、なかろうが、どんなことでも書き留めておけばよかったと思うのは、三文作家とはいえ、もの書きの業(ごう)とでもいうのであろうか。
 そういえば、竹若一座に一時「参加」の形で出演していた川部サブロー一行の名前も、いつのまにかメモから消えている。
 やはり、歌舞伎の一座と同じ舞台に立つのは違和感があったのか、客から好まれなかったので興行社が引き離したのか、消えた原因は、おそらくその両方にあったのであろう。
 そんな事情を、いまは知りたい気もするが、一座の中でいちばん下ッ端の十七歳の役者であり、貧しく、飢えていた私には、そういうことを聞きだしてメモをする力はなかった。

つづく

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