2009.11.7
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百三回

 おさんの悲しみ


 Rマネは、私にとって、本当にありがたい人である。
 市川福之助坂東竹若について、過去に記述されている記録を、パソコンで探がし出してくれたのだ。
 それは私の知らない記述だった。
 いつもパソコンとか、ケータイの悪口を言ったり書いたりしている私だが、ネットとやらに、こういう得難い、貴重な記録が秘められているのかと思うと、やはり、おろそかにはできない。
 それは「歌舞伎俳優名鑑・想い出の名優篇」というもので、プロフィールと芸歴、それに二人の俳優の顔写真まで載っている。
 ありがたいことである。正直、私は涙が出てきた。
 Rマネよ、ありがとう。この御礼に、私はあなたに何をしたらいいのだろう。
 その記録の中に、福之助と竹若が、いわゆる小芝居「かたばみ座」解散ののち、大歌舞伎へ登場するときのことが出てくる。
 短い記述だが、私にはとくにありがたかった。
 そのあたりの記録を、いまここに書き写したいのだが、そうすると、鶴亀劇場と白鬚劇場時代の流れを、また中断しなければならない。
 そこで、その貴重な記録の紹介は、あとにする。
 いや、あとにすると言っておきながら、さっそくその記録の中の一行を、ここに書き写すことになる。
 それは、市川福之助が、
「昭和七年十一月、宮戸座『時雨の炬燵』のおさんと小春で名題昇進」
 したという記述である。
「時雨の炬燵(しぐれのこたつ)」というのは、近松門左衛門作の「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」の「河庄」の場の、すぐつぎの場である。
 そして、昭和二十一年初春興行の鶴亀劇場では「河庄」のあとの二の替わりに、すぐこの「時雨の炬燵」の場が演じられるのである。

 鶴亀劇場 二の替わり

一、純情悔悟の愛 一幕

 小山………………………………片岡当兵衛
 村山大尉の娘……………………坂東麗子
 その妹……………………………坂東竹丸
 村野………………………………沢村鉄三郎
 清一………………………………梅沢秀雄

二、心中天網島・紙屋内(かみやうち)炬燵の場

 紙屋治兵衛………………………坂東竹若
 おさん……………………………市川福之助
 小春………………………………尾上音女
 舅(しゅうと)五左衛門…………尾上竹之助
 娘 お末…………………………坂東竹丸
 伜 勘太郎………………………坂東小竹
 丁稚(でっち)三五郎……………梅沢秀雄

三、鴨川夜話 一幕

 新之丞……………………………坂東竹若
 隼人………………………………尾上竹之助
 きぬ………………………………市川福之助

 一番目の「純情悔悟の愛」という芝居については、なんの記憶もない。
 奇妙な、といおうか、ふしぎな、というべきか、なんとも古めかしい外題である。
 これもおそらく曽我廼家(そがのや)五郎劇の焼きなおしであったろうと思われる。
「大尉」などという戦時中の階級名などが出てくるのも不可思議である。
 さて、二番目が「時雨の炬燵」である。
 いい舞台だった。
 あのせまい、貧しい鶴亀劇場の舞台装置の中に、私は大坂天満(おおざかてんま)の紙屋治兵衛こと「紙治」の店の雰囲気を見た。
 十七歳の私は、まだ大阪という土地を知らない。天満という町も知らない。下町に生まれ育った私は、東京を離れたことがなかった。
 もちろん大坂の当時の商家の内外(うちそと)の構えも知らない。
 それなのに「紙治」の店の中の、暗い、せつない、やるせない雰囲気にすっぽりと身も心もはまりこんだ。
 竹若の治兵衛、福之助のその女房おさんの芝居に、魂をうばわれた。
 舞台の袖の暗いせまい片隅に正座して、両手を膝の上に置き、まばたきもせずに毎回見た。
 週日は夜一回だけだが、土曜と日曜は昼夜の上演なので、鶴亀劇場で九回見た。
 そのつぎの週、竹若一座は葛飾区四ツ木の平和劇場という初めての小屋へ移り、そこでもこの「時雨の炬燵」をやったので、「河庄」と同様に、私は十八回、毎日この狂言を見ることができた。
 前述したように「河庄」の場のつぎが、この「時雨の炬燵」になり、ストーリーはつながっている。
 演じる役者たちの気持ちもつながっていたように思う。熟達した、いい芸を見せてくれた。
 とくに福之助は、昭和七年十一月に、浅草の宮戸座でおさんと小春をやり、この役で、名題昇進したという芝居である。
 自分の夫が、他の女、しかも遊女を愛し、その女と今夜にも心中するかもしれないという、あまりにもせつない、せっぱつまった女房の気持ちを、福之助はすばらしい女形の表現力で見せてくれた。
 私は福之助のおさんを見ながら、毎日心のなかで、むせび泣いていた。
 十七歳の子供に、そんな悲しい、複雑な女の気持ちがわかるのだろうか、とみなさん、お思いだろう。わかってたまるか、と。
 それが、わかるのだ。
 わかるのですよ。
 あのときの私に、ようく理解できたのです。理解というより、やはり感覚的にわかったのだと思います。
 いま八十歳になりかけている私ですが、六十三年前の自分の感覚、あのときの感動、あの芝居に対する理解度の確かさを、はっきり思い出すことができるのですよ。
 だからこそ私は、あの「心中天網島」の、「時雨の炬燵」の場の、女房おさんのセリフを、いまでもおぼえているのです。
 福之助の声色で、おさんの口調で言うことができます。
 お疑いの方は、こんどお目にかかったときに、すぐにその場で演じてみせましょう。

「――ええ、あんまりじゃぞえ、治兵衛さん、それほど名残りが惜しいなら、誓紙書かぬがよござんす。なぜにおまえはそのように、私が憎うござんすえ」
 すると竹若の治兵衛が、炬燵の中から起き上がって、こう言います(私はこのときの竹若の声色もできます。得意です)。
「そりゃおさん、何を言うぞえ。子までなした二人が仲に、なんのそなたが憎かろう」
 そうなんです。治兵衛はこの女房を愛しているのです。全然嫌いではないのです。それなのに遊女の小春を愛してしまったのです。
 困ったことに、この小春も、おさんも、治兵衛も、思いやりの深い、人情味のある、いい人間なのです。
 この人間たちの描写がすぐれていて納得できるところに、このドラマが名作とされ、今日に至るまで人気狂言とされている由縁があるのです。
 治兵衛のこのセリフをきいて、おさんは愚痴を言います。
 この愚痴のシーンがまた、人間ぽくていいのです。
 おさんを紋切り型の、おとなしい貞淑な女房としていないところがいいのです。

「いえいえ、憎いそうな、憎いそうな。憎ましゃんすが、嘘かいな」
 これを現代語にしますと、
「いいえ、憎いと思ってる、私のことを憎らしいと思ってる。憎いと思っているのは、嘘ではなく、本当にそう思ってるんでしょう」
 と、こうなります。
 ここで義太夫が入って、
 ――おととしの十月、中の亥(い)の子に、炬燵あけた祝儀とて……。
 おさんのセリフになって、
「これ、ここで、枕ならべてこのかた――」
 義太夫で、
 ――女房のふところには、鬼がすむか、蛇(じゃ)がすむか、それほど心残りなら、泣かしゃんせ、泣かしゃんせ、その涙が、蜆川(しじみがわ)に流れたら、小春が汲んで飲みゃろうぞ。――
 おさんのセリフで、
「あんまりむごい治兵衛さん、なんぼお前にどのような、せつない義理があるとても、二人の子供は、お前なんともないかいな」
 義太夫になって、
 ――心の限り口説き立て、恨みなげくぞ、誠なる……。
 このあとの治兵衛の弁解のセリフがまたすばらしく、私は竹若の声色でそのセリフを演じることができます。

「――おお、尤もじゃ、謝った。悲しい涙は目より出で、無念の涙は耳からなりとも出るならば、言わずと心見すべきに、同じ目よりこぼるる涙、足掛け三年がその間、露ほども悋気(りんき)せぬそなたに言うも恥ずかしながら、ついこの間も曽根崎で、残らず聞いた小春めが不心中(ぶしんじゅう)……」

 そうだ、Rマネにはまたすぐ会うから、この治兵衛のセリフを、竹若そっくりに芝居して見せてやろう。
 イヤだと言ってもやってやる。Rマネには迷惑なことかもしれないが、無理にでも聞かせてやるぞ。

 だけど、こうやってこんなふうに書いていると、キリがない。
 この幕のおしまいまで、こんな調子でつづけてしまいそうだ。
 ああ、いつのまにか、また横道に外れてしまった。
 話をもとに、もどさなければいけない。

つづく

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