2009.11.9
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百四回

 四ツ木平和劇場


 坂東竹若一座で演じた「心中天網島」の紙屋内(かみやうち)の場つまり「時雨の炬燵」について、もうすこし書かせていただく。
 Rマネがプリントして送ってくれたネットの中の「歌舞伎俳優名鑑・想い出の名優篇」に、市川福之助は、
「昭和七年十一月『時雨の炬燵』一幕の中でおさんと小春で名題に昇進した」
 とある。
 ということは、福之助はこの一幕の中で、女房おさんと、紀の国屋の小春の二役を演じたのである。
 つまり、この芝居は、一人の役者が、おさんと小春の二役をやることが可能なのだ。
 事実、私は、中村扇雀(いまの坂田藤十郎)が、おさんと小春を演じるのを、後年、大歌舞伎の舞台で何度か見ている。このときの治兵衛は、扇雀の父親である先代の雁治郎であった。
 同じく雁治郎(好きな役者だった! うまかった!)の紙治に、中村勘三郎(先代の)がおさんと小春を演じたのも見た記憶がある。(おさんが妙に色っぽかった!)
 故歌右衛門のおさんと小春も見た記憶がある。
 治兵衛の所業にあきれ果てた舅(しゅうと)の五左衛門が、娘のおさんと治兵衛を離縁させようとして、無理やりおさんの手を取って、家の奥へと退場する。
 すると、それまでこの家の外で様子をうかがっていた小春が中に走りこんできて、

 小春「治兵衛さん!」
 治兵衛「や、そなたは小春、どうしてここへ」

 と、たがいに手を取り合い、悲劇はクライマックスへと盛り上がっていく段取りである。
 おさんと小春では、かつらも衣装もちがうので、二役やる場合は、ここでは当然、早替わりとなる。
 ところが、鶴亀劇場も四ツ木の平和劇場にしても、もともと芝居小屋ではないので舞台裏がせまく、空間の余裕がないせいもあって、その早替わりが不可能である。
 そこで、小春の役は尾上音女が演じた、と当時の私のメモには記してある。
 音女も、竹若一座の芝居を支える確かな芸を持った女形であり、年も福之助より若く、遊女小春を艶やかに演じた。
 メモにはそのように書いてあるのに、ところが私の記憶の中には、福之助がおさんと小春の二役を早替わりで演じ、とくに黒い衣装をつけた小春の、悲痛なくらいの美しさがいまでもまぶたの裏に、くっきりと残っているのである。
 私の胸の奥に刻まれているのは、二役を演じた福之助なのである。
「時雨の炬燵」におけるおさんと小春は、福之助の二役にちがいないと思いこんでいる。
「河庄」の場の福之助のいじらしさ、美しさ、そして「紙屋内」の福之助のおさんが、あまりにも哀切で、人の世の悲しさを暗示していたために、二つの場のイメージが一つになって、私を幻覚の世界に引きずりこみ、そのまま、私を覚醒させないのだろうか。
 私はいまでも、あのときの私のメモは間違いで、記憶のほうが確かなのだと信じている。
 いま大歌舞伎で「心中天網島」が上演されると、上の巻の「河庄の場」も、下の巻の「紙治の場」も、私はかならず見に行く。二度三度と、幕見席で見る。
 よくできた近松劇の名作を見る楽しさと、同時に、六十数年前のせまく貧しい小屋の舞台で、熱演して、十七歳の少年の心に、これほどまでの感動を与えてくれた、福之助竹若両優の芸をしのび、胸を熱くふるわせるのを目的にして、私は客席の片隅にうずくまる。

 私はずいぶんよけいなことを書いてしまったようだ。
 こんなことを、いくらムキになって書いたところで、仕方がないのだ。
 しょせん、だれにもわかってもらえない。
 片鱗すらもわかってもらえない。
 なぜなら、福之助と竹若の舞台を見ることは、だれにも、ぜったいにできないのだから。
 舞台写真すら、数枚しか残っていない。もちろん、ブロマイドさえない。敗戦後のそういう時代だった。
 あるいは、映像などというものが、一切残されていないゆえに、私の心に、長い長い年月、深く重く、しかしいつまでも新鮮に、記憶されつづけているのかもしれない。
 美しいものは、目をつぶったほうがよく見えるのだ。

 この月の鶴亀劇場の二の替わりの切り狂言(一日の最後にやる芝居)「鴨川夜話」というのも、登場人物の心理がよく描けている仇討物(あだうちもの)のいい芝居だったという記憶がある。
 歌舞伎ではない時代物で、しいて言えば「新歌舞伎」といったところか。
 私よりいくつか年上の先輩で、浅草の剣劇王・梅沢昇に憧れている梅沢秀雄などは、これは「紙治」よりもいい芝居だと言って興奮し、袖幕で舞台を見ながら、
「いいなあ、いいなあ、福ちゃん、おれ、こんな芝居が好きだよ。これで二人が最後に斬り合うところで、雪を降らせたらもっと情緒が盛り上がるんだけどなあ」
 何度も首をふってうなっていた。
 鶴亀劇場には、雪を降らせる仕掛けがなかったのである。
 下座の太鼓の音で雪のシーンを表現していたが、いい効果が出ていたと思う。
 いい芝居だという記憶はいまでもあるが、「紙治」の印象が強かったせいもあって、内容は忘れてしまっている。
 この芝居には、私も女形で出ていて、与えられたセリフだけはおぼえている。
 それは、遊女屋の小女(こおんな)に扮した私が下手から出て、
「もし、おきぬさん。有馬から、兄(あに)さんがたずねてきやしゃんしたぞえ」
 と、福之助のおきぬに言うセリフである。
 それだけ告げて、すぐ舞台から引っ込む役であった。
 この興行を終えて、いつもだったら向島の白鬚劇場へと移動するはずの竹若一座が、こんどは葛飾区四ツ木の平和劇場という小屋でやることになった。
 一座にとっては、初めての劇場であった。
 どうしてそういうことになったのか、いちばん下ッ端の役者で、年も若い私には、何もわからない。
 私はただ、師匠である市川福之助の指示に従って動くだけである。
 当時松戸に住んでいた私は、バスで市川の国府台(こうのだい)へ出て、そこから京成電車押上(おしあげ)線に乗り、四ツ木駅で下車した。
 空襲をうけたかどうかははっきりわからないが、四ツ木の町は閑散としていた。
 駅近くには小さな商店がならび、ごくふつうの町の風景があった。
 向島のような下町としての密度がうすいように感じられた。
 いかにも東京のはずれという雰囲気があった。町のすみずみにまで北風が吹いていた。
 教えられたとおりに歩いていくと、駅から十分ほどで、平和劇場という看板のかかった小屋があった。
 なんの情緒も、風情もない、さむざむとした表構えであった。
 客席は妙に広々としていた。
 舞台も、鶴亀劇場や白鬚劇場より広く、かなり立派な花道がついていたのには、ちょっとびっくりした。
 この花道の裏側に、つまり客席とは反対側の位置に、細長い楽屋があった。
 化粧台が一列に並んでいた。
 楽屋はその一つだけで、役者たちは全員がそこで化粧をしたり、衣装をつけたりするのだった。
 舞台の下手につながって楽屋への入り口があり、いちばん奥のどんづまりの、つまり花道の揚げ幕のそばに、役者たちのための便所があった。
 映画館とも、芝居小屋ともちがう造りの、ふしぎな劇場だった。
 このときから、ずうっとあと、なんと四十年もたってから、私はこの劇場の成り立ちを知った。
 その平和劇場というのは、戦争中の物資配給の町の共同倉庫を改造したものだという。
 教えてくれたのは、浅草の「沢正」という飲み屋にきていた客だった。
 ある夜、私は、芝居好きの「沢正」の主人と、戦後四ツ木にあったその小屋のことを、思い出話の一つとしてしゃべっていた。
 すると、隣のテーブルで飲んでいた白髪の客が、ふっとこちらに顔をむけて、
「私はむかしから四ツ木に住んでいるので知ってるんだけど、あそこに劇場は戦争中、倉庫だったんですよ」
 と教えてくれたのだ。「沢正」で初めて見る客だった。
「へええ、道理で変な小屋だと思った」
 と言って私は笑ったが、これはまるで小説みたいな偶然だと思った。
「沢正」のおやじも(ほんとかなあ)というような顔で、おもしろそうにきいている。
 その初老の男の客から、私と「沢正」のおやじは、しばらくの間、当時の四ツ木の町の話をきかされた。
 東京の中央の劇場は空襲のためにほとんど焼けて、そのおかげで四ツ木のその小屋に、ずいぶん有名な役者や芸人たちが来たという話を彼はした。
 私と一緒に、その四ツ木の客から話をきかされた「沢正」のおやじも、もうこの世にいない。五十年来の親友だった。
 歌舞伎と新国劇の話を、あれほど楽しく語り合える人間はいなかった。
「沢正」ののれんは下ろされ、代わりに店先に赤や青い色の派手な看板が立ち、白いコック服を着た外国人が、大きな肉のかたまりをナイフで削って売っていた。
 先日、その前を通ってみると、それらのにぎやかな装飾は早くも取りはずされ、外国人の姿もない。有為転変の世。
 店のガラス戸は殺風景に閉ざされたままである。
 無言のガラス戸をみつめながら私は、並んで歩いているRマネに言った。
「ここのおやじとのきずなが、いかに強かったか、いまになってみると、よくわかるよ」
 Rマネは黙ったまま、埃で黒っぽく汚れた、その二階建ての木造の家の、いかにも古びた四枚のガラス戸に目をやった。

 また話が外れた。
 四ツ木の平和劇場へもどさなければいけない。
 私はその劇場を最後にして、竹若一座を退座したのだ。
 ということは、市川福之助と別れたのだ。

つづく

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