2009.11.17
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百五回

 竹次のなさけ


 私のボロボロになっている古い六十年前の日記帳にメモしてある四ツ木の平和劇場における坂東竹若一座の演し物は、つぎのようなものである。
 最初の一週間は、

一、山の娘
二、時雨の炬燵
三、丸橋忠弥・捕物まで

 二の替わり

一、権三と助十
二、日高川入相花王

 書いてあるのは、これだけである。
 つまり、配役などは記されていない。
 文字どおりの、メモである。
 一九四六年(昭和二十一年)の年が明けて、私、十六歳の冬であった。
 ここ数回、私はこの文章の中で、自分の年を十七歳と書いているが、どうやら間違いのようである。
 かぞえてみると、十六歳なのである。
 どうしてこんな間違いをやってしまったのか。
 Rマネよ、どうしたらよいか、教えてください。
 いまさら訂正するのもめんどくさい。ずいぶん十七歳と書いてしまったような気がする。
 私の年齢の一つや二つ、どうでもいいじゃないか、放っておけ、という気持ちもある。
 これだけしかメモしていなくて、しかも、ペンの文字はやや乱暴である。
 このとき、十六歳の私の心は、平静を失っていたのであろう。
 配役をメモする気力すら失っていたように思う。
 もうどうでもいいや、という気分になっていたのか。
「山の娘」も「時雨の炬燵」も「丸橋忠弥」も、すでに鶴亀・白鬚両劇場で上演された狂言であり、配役も大体同じだったのだろう。
 だから、メモする気になれなかったのか。
 動揺し、心の平静を失っていた時期とはいえ、「時雨の炬燵」は、前述のとおり、精神を集中させて、しっかり見ている。そして生涯忘れ得ぬ感銘を心身に刻みつけている。
「丸橋忠弥」の濠端の場では、私はぬいぐるみを着て、犬となって座頭竹若の丸橋忠弥とからみ、捕物の場では、捕方の一人となって二度も三度も斬られている。
 二の替わりの「権三と助十」の配役は、メモしていなくても、私は記憶している。
 岡本綺堂・作の「権三と助十」ではなく、講釈ネタの「大岡裁き」で、あまり上等とはいえない、喜劇味の濃い台本だった。
 竹若が権三(ごんざ)をやり、その相棒の助十(すけじゅう)を、なんと、女形の福之助がやったのだ。
 この記憶にまちがいはない。
 美しさが売り物の福之助が、汚ない貧乏長屋に住む駕篭かきの、まぬけな三枚目をやった印象は、私に強烈だった。
 福之助はそれでも一生けんめいに鼻の下を青くぬり、汚れ役の三枚目をやった。
 私は見ていて痛々しく、なさけなかった。
 胸がキリキリ痛むほど、なさけなく悲しかった。女形がやってはいけない役だった。
 だから、よく覚えているのだ。
 そのかわり、つぎの幕の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」では、福之助は立女形(たておやま)らしく、美しいお姫さま姿になって、清姫を人形振りで踊った。
 この一幕は、恋しい安珍を追って、狂気の果てに蛇身となる清姫が主役で、いわゆる安珍清姫の道成寺伝説の芝居である。
 日高川の川岸での悲嘆と、波の上の狂おしい動きを、所作(しょさ)で見せる。
 所作・所作事とは、舞踊のことである。
 福之助はさすがに格調の高い、みごとな人形振りを見せた。
 が、私は、川岸での恋に狂い、悲嘆に悶える清姫の動きは見られるが、川に飛び込んで波の上での泳ぎと踊る姿は見ることができなかった。
 なぜなら、そのとき私は、波幕の下側にもぐり、体を横にして、全身で波布を動かしていたからである。
 つまり、川の中の波になっていたのだ。
 波は、私一人ではなかった。
 私と同じように舞台の上でねそべり、波布をかぶっていた竹次という役者がいた。
 その竹次のことを、ちょっと書きたい。
 私より五つ六つ年上で、もう二十を越えているらしかったが、最近入ってきた人なので、一座では私のほうが一応先輩ということになる。
 波布の中にもぐりこみながら、竹次は、
「福二郎さん、お腹すいてるんでしょう、食べない?」
 とささやいて、私に片手をさしだした。
 私は、
「なに?」
 と言って反射的に手を出し、それを受け取った。
 茶色にこげた百粒ほどの米粒だった。
 私はにおいを嗅いだ。香ばしかった。つまりそれは、煎り米だった。
 米粒を、鍋かフライパンで煎ったものだった。ひと握りの食糧。
「ありがとう」
 と言って私は掌で受け取り、数粒を口の中に入れた。すこしにがく、香ばしく、うまかった。
「うまいよ、竹次さん」
 と、私は低い声で礼を言った。
 空腹だった私は、百粒ほどの煎り米を、すぐに食べ終えた。あまりのうまさに泣きそうになった。舌を出して、掌をぺろぺろなめた。すると竹次は、また百粒位くれた。
「これを食べて、あとで水を飲むと、お腹がいっぱいになるよ」
 私は波布の下で口の中に入れたその煎り米のうまさを、いまだに忘れることができない。
 忘れることができないから、いまこうして書いている。
 あの竹次のてのひらであたためられた、ひと握りの固くこげた米粒の味。
 そうだ、竹次のことをもうすこし書こう。
 彼は女形志望で竹若一座に入ってきたという。
 最初は、福之助の弟子になるのを望んでいたのだが、顔も姿も女形にむいていないと言って福之助は断った。
 若女形の尾上音女のところへも行ったが、断られた。
 それじゃうちへおいで、と助け舟を出してくださったのが竹若親方で、すぐに竹次という芸名をいただいたの、うれしかったわ、と彼は私に言った。
 眉毛が濃く、両眼が深く落ちくぼんでいて、鼻が大きくあぐらをかいていて、唇が上下とも厚く、鰐口で、私が見ても、竹次は女形には無理な顔だった。
 身長は百五十センチ位で、背が低いのは女形にはいいのだが、肩幅がたくましく張っていた。
 が、根っからの芝居好きで、気のいい人間で、どんな役でも熱心にやった。
 どこかで修業してきたらしく、舞台ではっきりセリフも言えた。
「福二郎さん、福二郎さん」
 と言って年下の私を先輩として立ててくれ、ときには私の下着を洗ってくれたり、靴下の穴にツギをあてて縫ってくれたりした。
 四ツ木の平和劇場での芝居が終わったあと、私は疲労と空腹のために動けなくなり、家へ帰るのが苦痛になることがあった。
 省線電車の市川駅前から出る京成バスが、国府台(こうのだい)を経て松戸駅へ行き、私は毎日それに乗って四ツ木へ通う。
 だが、夜遅くなると、そのバスが出なくなってしまう。
 歩くと、京成国府台駅から私の家まで、途中で長い上り坂もあって、一時間近くかかるのだ。
 疲れきった体で一時間歩くのはつらかった。当時、旅団坂(りょだんざか)といったその坂の途中で、私は動けなくなり、道端に横になって寝てしまったことがある。
 眠ってしまったら、凍死していただろう。
 そのつらさを竹次に訴えると、
「そういうときは、あたしの部屋へ泊まっていきなさいよ。亀有駅のすぐそばで、歩いて三分もかからないんだから。えんりょすることないのよ。おいで、おいで」
 と、やさしく言ってくれ、彼は自分の借りている部屋に、私を連れて行くのだ。
 せまい路地を二度も三度もまがった突き当たりにある小さな家の、玄関わきの四畳半が、竹次の借りている部屋だった。
 一組しかない布団を、彼は私に提供してくれた。
 自分は、私が寝ている足のほうから、そろそろと足を入れてきて、互い違いになって布団の中に入るのだ。
 竹次の足が、私の顔の前にのびてくる。
「だいじょうぶだよ。足、よく洗ってきたから、くさくないよ」
 と彼は言って、なにやらうれしそうに、ククク……と一人で笑った。
「SM雑誌」が月に二十種類近くも出ているころだったら、私はこの竹次を美少年にして、私自身も美少年にして、夢幻的に、快楽的に、そういう小説を書くところである。
 が、実際には、何もなかった。
 竹次と私の関係は、そこまでだった。
 そこまでだったから、こうやっていつまでも忘れないのだろう、とも思う。
 あんなにもこわい顔をしていたのに、気の弱い、やさしい竹次には、私の体に触れる勇気はなかったのだ。
 手も握らなかったのだ。
 手を握ったのは、あの「日高川」の波布の中で、
「福二郎さん、これ、お食べよ」
 と言って、私の掌に、ひと握りの煎り米を渡してくれたときだけだった。

 ああ、また話が横道に外れてしまった。
 竹若と福之助が、どんなに格調高く、「時雨の炬燵」を熱演しても、美しい女形の福之助が三枚目の助十をやってがんばっても、客席は毎日ガラガラだった。
 上野から常磐電車に乗って約三十分、亀有駅下車、歩いて三分のところにある鶴亀劇場までは、本所寿劇場時代からの古いひいき客が足を運んでくださる。
 だが、京成電車に乗って、葛飾区四ツ木まで、たずねたずねて来てくださる客は、やはりすくなかったように思う。
 おまけに、このころの京成電車は(いま考えると京成電車だけではなかったのだろうが)時刻表どおりに動かず、何かの理由で、いつもどこかで停車して遅れていた。
 片岡当兵衛が、
「ははあ、このことを言うのだな、傾城(けいせい)に誠(まこと)なしっていうのは」
 と、冗談を言って、みんなを笑わせた。
 地元の客に、いきなり「時雨の炬燵」を見てもらっても、共感は得られなかったように思う。
 だからこそ、わかりやすい喜劇の「権三と助十」をやったのだろうが、客席が閑散としていると、笑い声もおこらない。
 うなぎの寝床のような細長い楽屋の中で、竹若が福之助にむかって、
「この芝居をやると、なぜか解散が近くなるんだよね」
 と、笑いながら言っていたのを思い出す。

つづく

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