誇り高き役者たち
「おしゃべり芝居」を読んでくださっている数名の方から、ごていねいなメールをいただいた。 ありがとうございます。 ずいぶん励ましていただきました。 中に、戦後数年まで存続した、いわゆる「小芝居」についての質問もありました。 本心をいうと、そのご質問に応じながら、私はもっともっと「小芝居」のことを書きたい。書けるような気がする。 ですが、私は「小芝居」そのものよりも、その希少の世界に、多少なりとも触れ合ってきた私自身を確かめたいために、ここまで書いてきたのです。 私は、私が実際に目で見て、直接関わり合ってきたことだけを書こうと思っている。 「小芝居」全般については、私のような主観的な、ときに近視眼的な体験談よりも、もっと大局的に、演劇史的に、そして史料的に記述されている、ありがたい印刷物が、数種類発行されている。 この「おしゃべり芝居」の文章の流れから逸脱してしまうかもしれないが、それらの本を、つぎに紹介してみる。 まず「東京の小芝居」昭和五十七年三月に台東区教育委員会から発行されたもの。 編集は、台東区立・下町風俗資料館で、昭和六十一年三月に第二版が刊行されています。値段はどこにも記載されておらず、私の記憶では、昭和六十一年に、上野不忍池畔の下町風俗資料館で買ったもの。値段は忘れてしまった。 つぎに三宅三郎著の「小芝居の思い出」これは「歌舞伎資料選書・5」で、編集は国立劇場芸能調査室とあります。昭和五十六年一月三十日発行と記されています。私はこれを国立劇場の筋書売り場のとなりの図書売り場で買ったのですが、この本にも値段が記載されていません。たしか千円か千五百円だったように記憶しています。それにしても公的な機関で売り出される本には、どうしてはっきり価格が表示されてないのだろうか。私はたしかにお金を出して買っているのに。 つぎに、浅草の会・二百回記念特集として発行された「浅草双紙」。 これは昭和五十三年十一月に、千代田区三崎町の未央社というところから発行され、編集は「浅草の会」となっております。値段は千五百円で、図版が多く、私にとっては非常にありがたい本です。 表紙の「3」に、浅草国際劇場のSKDの「秋の踊り」の広告が出ています。ああ、SKD! 浅草下町わたしのレビュー踊りつづけて半世紀SKD! なんと私は、川路龍子、小月冴子時代からのSKDファンでもあったのです! 入場料は一般席で千七百円。併映の映画は「男はつらいよ・寅次郎わが道をゆく」とあります。 私はこの国際劇場で、SKD(松竹歌劇団)の他に、「エノケンのノートルダムのせむし男」なんかも見ています。新国劇も見ています。もちろん、辰巳・島田の役者盛り、働き盛りの真最中です。新派もやっています。 もともと関西で活躍していた森川信が、初めて東京へ出てきて座長芝居をやったのが、この国際劇場だったのです。戦争中でしたが私はそれも見ています。 (ああ、また話が横道に外れた。これでは横道どころか、そのまた脇道の、さらに路地にまで踏み入ってしまう。私が浅草のことを書きだすと、キリがなくなってしまうのだ) つぎに、これも浅草の会編集による「写真にみる浅草芸能伝」平成二年十月の発行で「浅草の会・四十周年記念号」とあります。定価は三千五百円で、貴重な写真が多く掲載され、私にとっては思い出ぼろぼろ、涙ポロポロの一冊です。 つぎに一九七〇年、演劇出版社から発行された阿部優蔵の「東京の小芝居」、そして平成九年に青蛙房から発行された、中川哲の「東京小芝居挽歌」二千三百円。 この本の著者・中川哲氏は、一九二一年(大正十年)生まれで、私より十歳年上ということになる。 この十年間の世の中の変動と混乱は、個人的にも激しいものだった。 本所緑町の寿座(寿劇場)と、それにつながる「かたばみ座」の舞台を、中川氏はかなりひんぱんに見ておられる。 そして役者たちの舞台姿を、ご自分が見た目で語っておられる。 それゆえに、この「東京小芝居挽歌」も、私にとっては非常に貴重な、ありがたい一冊である。 一度お目にかかりたかったのだが、先年亡くなられた。 生きている小芝居の体臭が、また一つ遠去かった。記録としては残されるが、香りも、色彩も、体臭も消えてしまった。 一九四五年三月、アメリカの空軍による東京下町一帯の猛爆によって、寿劇場は潰滅した。 そのとき、寿劇場で「小芝居」の孤塁を守って健闘していた役者たちが、敗戦を経て数年後の一九五〇年(昭和二十五年)集結して「かたばみ座」をつくった。 そして、再び定期的に「小芝居」を演じつづけた。という記録は、演劇史に、はっきりとのこっている。 しかし、寿劇場が焼滅して散り散りになった役者たちが、やがて「かたばみ座」を結成し、再起に至るまでの、約五年間の、いってみれば「空白」時代については、どこにも記録されていない。 しかし、役者たちは敗戦直前、そして直後の世情最も混乱の時期を生きていた。その「空白」自体も、芝居をやって生きていた。 ひそかに、といおうか、死物狂いといおうか、芝居をやって生活していたのだ。 そして私は、たまたまその一座のどこにも記録されない短期間の「空白」時代に触れ合い、お世話になった。この出会いは偶然であった。 しかし、もの心ついてから十五歳まで、父に連れられて寿劇場の芝居を見続けてきた私にとって、鶴蔵、竹若、福之助たちとの再会は、必然ともいえた。 私は「空白」時代をのりこえて結成された「かたばみ座」については、何も書けない。そのなりゆきも、実態も知らない。 私が「おしゃべり芝居」の中で書こうと思っているのは、「私」である。 というより、私は「私」しか書けないのだ。「かたばみ座」を書きたくても書けない。 ものごとを大局から見る知識も学識も持たず、感情の流れるままに、卑小に生きてきた私には、しょせん「私」しか書けないのだ。 葛飾区亀有の鶴亀劇場、そして墨田区向島にあった白鬚劇場、これらの劇場のことは、どの本で調べても出てこない、実在するのか、というような意味のご質問を、熱心な読者の方からいただいた。 この二つの劇場の名は、匿名もしくは仮名である。劇場そのものは、たしかに存在した。 (四ツ木の平和劇場はそのまま、本当の名前である) 私は「私」のことを、できるだけ正確に、あの当時の感情のままに、素直に書こうと思っている。 そのためには、劇場の名をそのまま出すことがためらわれた。劇場名を出すと、だれかにいやな思いをさせやしないかという危惧がある。 匿名にしないと、相手を傷つけることになるのではないかと思う。 わかりやすく、例を一つあげる。 この「おしゃべり芝居」の中に登場する女性の名を、私は匿名にしてある。 匿名にしないと、その女性に迷惑がかかるおそれがあるからである。 その女性の住所、活動している場所だけを明記しても、迷惑がかかるにちがいない。 同じように、劇場の名前をそのまま明記してしまうと、たとえ五十年前のことでも、迷惑に思う女性がいるような気がする。 こういう文章を書いていると、自分では意識しないうちに、だれかに迷惑をかけていることがある。 私はできるだけ、それを避けたい。 それともう一つ、私の愛するあの誇り高き歌舞伎役者たちは、「かたばみ座」以前に、そういう名もない場末の、もと映画館だった貧しい小屋で、シロウト同然の軽演劇一座と共に芝居をやっていたという事実を、人に知られたくなかった、記録にのこしたくなかったのではないかと、私はひそかに思っているのだ。 それだったら、この「おしゃべり芝居」の中に、実在の芸名をあげて書くことも遠慮すべきではないのか、という人もいるだろう。 だが、彼らの芸名だけはしっかり明記しておかないと、私のこの文章が真実であることの証拠にならない。 あの役者たちの気持ちになってみれば、鶴亀・白鬚劇場時代のことは秘しておくべきではないのか、とも思う。しかし私は、彼らが、敗戦直後の悲惨ともいえる逆境の中で、彼らなりの純粋な歌舞伎を、妥協することなくひたすらに演じつづけたということも、やはりここに「記録」したい。それは私だけしか知らないことだから。 鶴亀・白鬚劇場だけを仮名にしたのは矛盾しているが、万一この文章が彼女(この「彼女」はあとでたくさん出てきます)の目に触れたときに弁解ができる、おだやかにすませられるという、なんともずるい計算もある。 とにかく私は、自分の目で見、肌で感じたことだけを正直に書きたい。 記録にたよらず、自分のメモと、記憶だけ、感覚だけで、当時のことを素直に書きたい。 ああ、このようなことを書いているうちに、話はどんどん脇道に外れていく。 「おしゃべり芝居」の姿勢から、気持ちが遠くなっていく。 もとのトーンへともどさなければいけない。 感覚をもとにもどして、私はあの時代のことを書きすすめよう。 そうだ、最近、或る人へ書いて送った私の手紙を、ここに載せることにしよう。 それは、私がかなり一生けんめい、心をこめて書いた手紙である。 前略。 ありがとうございました。新橋演舞場、見て参りました。 「三人吉三巴白波」、菊之助、よかったです。いまの菊五郎が、菊之助だったころより、みずみずしくて、色気があって、いいように思います。蜷川演出に、じかに触れたことは(十二夜のとき)彼にとって大きなプラスになったように思います。 ただし昼の部の「盟三五大切」(かみかけてさんごたいせつ)の三五郎は、品がよすぎて、やさ男すぎて陰がなく、もうちょっと悪(わる)の匂いを身辺に漂わせたほうがいいと思いました。でもすっきりと江戸前で、きれいでした。 菊之助のお嬢吉三と、愛之助のお坊吉三は、ホモの匂いがふんぷんとあり、きれいで、妖しくて、おもしろかったです。 松緑の大ざっぱな和尚吉三は、内面の表現不足で、この宿命の兄妹の悲劇を盛り上げるまでに至りませんでした。 歌舞伎座、忠臣蔵も見せていただき、ありがとうございました。いい席でした。感謝しております。 仁左衛門の由良之助、わかりやすい芝居で、愛嬌があって、よかったです。 幸四郎の平右衛門、福助のお軽は、仁左衛門の演技よりもさらにわかりやすく、まるで現代劇のようで、でもいまのお客さん方には、こちらのほうが歓迎されるでしょう。 私は先代幸四郎(白鸚)の由良之助、歌右衛門のお軽、先代松緑の平右衛門を、重ね合わせて見ていました。でも楽しかったです。 六段目の段四郎が、おおどかな味があって、さすがに歌舞伎らしい、いい貫禄でした。 演舞場、夜、亀治郎の戸隠山の鬼女には文句なく感動しました。 所作事で、こんなに純粋に感動することなんて、めったにありません。 感動しすぎて、このところ毎夜、ねむるときになると、亀治郎の黛赭(たいしゃ)の隈取りをした鬼女の顔と姿が、私のまぶたの上におおいかぶさり、足を踏み鳴らす勇壮な音が、頭の中にびんびんひびきわたるのです。 といっても、それはけっして不快なものではなく、寝苦しくなるというものでもなく、逆に、こころよい華麗な色彩と、音楽の波(常磐津連中、竹本連中、そして長唄お囃子連中が、ずらりと豪華にならび、この三方掛け合いは、ぜいたくな気分にさせていただきました)に、私の全身全霊は浸されているのでした。 気が遠くなるほど美しく、迫力のある一幕でした。 この「鬼揃紅葉狩」は、亀治郎が、猿之助の演出どおりにやると筋書の中で言っていましたが、まさしく、彼、がんばりました。 もう十分に踊ったよ、もうそのへんでいいよ、よかったよ、たっぷり踊ったよ、もういいよ、よかったよ、と私が心の中でねぎらっているのに、亀治郎は、これでもか、これでもかとばかりに、気合いをこめて、力強く踊りつづけるのです。 大正九年に初世猿之助(猿翁)が、春秋座を結成し、新しい演劇運動を始めたという、その若き日の血気さかんな初代猿之助の気概が、脈々と亀治郎に流れているのを感じました。 いくら若いとはいえ、まあ、その元気なこと。見ている方がハラハラするほど四肢に力をこめ、リズムをくずさず踊りつづけます。 客席からいっせいに湧き上がったあの熱い拍手は当然です。 もしかすると、この舞踊劇の演出者である猿之助が、甥の踊りの出来を心配して、こっそり来て、客席後方から見ていて、それを亀治郎は知っていて熱演しているのではないかと、私は思わず後ろをふり返ったほどでした。 数年前、いまの勘三郎が勘九郎時代、浅草歌舞伎の舞台で、初めて「鏡獅子」を踊り、そのとき御父君の故勘三郎が客席後方で、心配そうに見守っていたことを、私は思い出したのです。 この亀治郎の気合いのこもった、しかも格調のある紅葉狩を猿之助が見ていたら、さぞかし満足の笑顔をうかべていたと思います。 療養中の猿之助はどうかわかりませんが、段四郎はこの時刻、近くの歌舞伎座で、忠臣蔵六段目の勘平腹切の場の不破数右衛門だけで一日の御役御免、あと舞台はないはずですから、演舞場、切りの伜の踊りを見に来ているのではないかと思ったりしました。 そして、彼もやはり、この若さみなぎる力強い、堂々たる跡継ぎの舞台を見て、安心し、うなずいているのではないでしょうか。 澤潟屋の誇りと名誉を一身に背負って踊る亀治郎の姿に、私は何度も胸を熱くさせました。 (つづく)
(つづく)