夢か芝居か
私の芝居好きを知って、大歌舞伎の特別席へ、毎月招待してくださる、私にとっては最高にありがたい人への私の礼状は、まだまだつづく。 私が市川亀治郎のファンであるとすれば、私に高価な特別席のチケットを送ってくださるこの方は、私のファンということだろうか。 京成電車の四ツ木駅を下車して、途中五分のところにある平和劇場という小さな芝居小屋で、清姫に扮した市川福之助が、人形振りで踊る「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」。 その日高川の波幕の陰で、竹次にもらった煎り米を食べて飢えをしのいだのが、一九四六年(昭和二十一年)の冬。 それから六十三年後の私は、大きな劇場のふかふかしたやわらかい特別席に腰を沈め、一流の歌舞伎役者たちが演じる芝居を、いかにも知ったかぶりの、したり顔で眺めている。 夢みたいな話だ。 いや、これは夢ではないのか。 私はあの日高川の波布の陰でねむっていて、ずうっと夢を見つづけているのではないか。 そう思うと、そんな気もしてくる。 悪い気分ではない。 や、私はなぜか、妙にうっとりしてきて、亀治郎へのファンレターのつづきを書くのを忘れた。 考えてみれば、亀治郎は、やがては澤潟屋(おもだかや)一門の総帥になるべき役者なのです。 これでもか、これでもかとばかりに気をゆるめず、魂をぬかず、観客へのサービス満点の精神で舞い、踊りまくる亀治郎の姿は、まさしく往年の猿之助(私はこの人の復活通し狂言をすべて見ています。それも二度三度四度とくり返して)の躍動感を彷彿とさせるものでした。 もういいよ、もうおやめ、お客さんはもう十分よろこんでいるよ、そんなにムキになって踊りつづけなくてもいいよ、明日はまた「三五大切」で、大役の小万をやらなければならないのだから、疲れるといけないよ、と澤潟屋とは縁もゆかりもない、ただの観客でしかない私の、こんなよけいなご心配。 ですが、心の中ではそんな言葉を、舞台の彼に投げかけているのでした。 なんという気性の激しい青年俳優だろう。 この気のつよさは、明日の歌舞伎を引っ張っていく強さだ。 よく体が動くというだけでなく、亀治郎の踊りのひと振り、ひと振り、きちんときまった見得の形には、格調の高さがありました。 更科(さらしな)の前、じつは戸隠山の鬼女の心持ち、そして、この舞踊劇のテーマがよく心身に入っていました。 おじいさんの猿翁からしっかりと受け継いでいる大歌舞伎の芸魂、品格というものを感じました。 えッ? えッ? え、え、え、待てよ、猿翁は亀治郎にとってお祖父さんではないのか。もうひと世代、前になるのか。 つまり曽祖父ということになるのか。 亀治郎にとってお祖父さんは、いまの猿之助の父親の、早くして亡くなった段四郎になるのか。 こんがらがってきたぞ。 すると私は、いまの亀治郎、父親である現段四郎、その父親の映画やテレビにも出ていた段四郎(テレビでは遠山の金さんなんかやっていた)、その父親である先代の猿之助つまり猿翁と、四世代つづいて、この一門の芝居を見つづけていることになるのか? 私は太平洋戦争の末期に、猿之助(猿翁)の「勧進帳」の弁慶を、演舞場で見ているのです。 そのときの富樫は、十六世羽左衛門でした。 義経は海老蔵、のちの十一世団十郎だったと記憶しています。 いまの歌舞伎座の舞台で、私は四世代の澤潟屋を見ていることになります。 こんど市川右近が、演舞場で「黒塚」を踊るというけど、亀治郎ほどの芸魂、希薄、格調の高さで演じられるか、どうか。 形だけ、表面だけの岩手・鬼女にならないでもらいたい。 形だけの鬼女ではつまらない。客に岩手の哀れさが伝わらない。右近よ、たのむ。祈りたい気持ちです。 そのうちに亀治郎が「黒塚」をやるようになるだろう。 この「紅葉狩」を見るかぎり、「黒塚」も大丈夫だ。立派にやれる。亀治郎には魂がある。 ああ、亀治郎の「黒塚」が見たい。私は期待している。 私が、猿翁になる以前の猿之助の「黒塚」を見たのは、やはり戦争中で、それから孫の猿之助に継がれた「黒塚」を、何度見たことだろう。数えきれないくらいに見た。 現猿之助の「黒塚」は、後年になればなるほどよかったように思います。 鬼女になった岩手が、昔を想って月影を踏みながら踊るところでは、涙が出ました。 お月さまさえ 障(さわ)りがござる 梢木の葉に露霜しぐれ またも憎いは 風と雲 ほうやれさ ほうやれさ のところです。 猿之助は、鬼女にならざるをえなかった女の心を、しっとりと、しんみりと演じていました。 いまの亀治郎だったら、猿之助以上の「黒塚」が演じられるのではないか、と思うのは私の買いかぶりでしょうか。 亀治郎は、昼の部の「盟三五大切」の芸者小万もよかったです。 役の性格をしっかりとつかんでいるところが見えました。私は満足しました。 歌舞伎における「女」の姿になっていました。これは大切なことです。女になってはいけないのです。女形でなければいけない。 「一本刀土俵入」のお蔦を見て以来、私は女形をやる亀治郎のファンになりました。 (勘太郎の駒形茂兵衛もよかった。亀治郎といい、勘太郎といい、名優の血というものをしっかり感じました) 亀治郎のお蔦は、何をかくそう、私が見たお蔦の中で、一番よかったのです。 私が、だれそれの茂兵衛で、だれそれのお蔦を見たか、その役者たちの名前をここにずらずらっと書きならべると、いかにたくさん芝居を見ているかの自慢になりそうなので、やめておきます。 絶品といわれた前進座の先代国太郎のお蔦も数回見ています。新国劇の「一本刀土俵入」は、島田が好きだったので数えきれないほど見ています。 「三人吉三」の歌六の土左衛門伝吉はよかったですね。 味のある、聞かせるセリフ術とはこういうものか、と思いましたね。 自分一人だけでずいぶんけいこし、くふうもしたんでしょうね。 歌六、このところ急にうまくなりました。 説得力のある、いい伝吉だと思いました。 まわりが若い人ばかりだったせいもあって、いっそう際立って見えました。 いままで若手の一人だと思っていた歌六が、そして歌昇も、いつのまにか萬屋(よろずや)一門の重鎮になっていました。 かつて猿之助一座で鍛えられた若手役者たちが、いまみんな実力をたくわえ、重要なポジションを得ているように思われます。 獅童なんか、ついこのあいだまで、ヨチヨチ歩きの子役だったのです。 猿之助の功績は大です。 小米がいつのまにか門之助を継ぎ、梅枝が時蔵になってすっかり腕を上げ、その時蔵の伜が梅枝となって、このところ毎月、ういういしい若女形ぶりを見せています。 「三人吉三」のおとせなど、新鮮で、いじらしくてよかったです。 (ああ、私はこの萬屋一門も、四世代にわたって見ていることになります。いまの時蔵のお祖父さんの時蔵が、ヨチヨチ歩きの錦之助と賀津雄を連れて、二人の子供の初舞台の「傀儡師」を踊った姿を、きのうのことのように覚えています。このときの錦之助が、のちの萬屋錦之介に、そして賀津雄は中村嘉葎雄という名前になりました) 錦之介と嘉葎雄のすぐ上に、獅童という兄さんがいて、その伜が、いまの中村獅童です。 こんなことを書いていると、キリがありません。ついつい長くなってしまいました。 いつもいつもご招待賜り、あつく御礼申し上げます。いずれ改めて御礼に参上つかまつります。 十九日と二十日、つづけてペガサスホールへ行き、つかこうへい劇団の「新・熱海殺人事件」と「ロマンス」を見る予定です。 私に高価な芝居を見せてくださるありがたい人に、この礼状をFAXで送った。 すぐに電話で返事がきた。 「いつもながら若々しい、情熱的な感想文ですね。感想文というより、これは批評になっています。いっそのこと亀治郎さんのところへも、これをコピーして送ってあげたらいかがですか。きっと喜ばれると思いますよ」 若々しいといわれて、私の心は、さらにあたたかくなった。 計算してみると、なんと十六時間も、私は結構な歌舞伎を見つづけていたのだ。 夢のようである。 ついきのうまで私は、葛飾区四ツ木の、もとは倉庫だったという芝居小屋の舞台で「日高川」の波布の中にもぐって、人からもらった煎り米を噛んで飢えをしのいでいたのだ。 あの芝居小屋の波布の中の自分と、いまの自分とが、直結しているように錯覚する。 その間の、六十数年間という歳月は消滅している。 私は夢のように芝居の中で生き、夢のように芝居を見ながら死んでいく。 しあわせである。 (つづく) ★Rマネの註★ 上記掲載いたしました第百七回の原稿は、2009年11月18日に執筆されたものです。手作業での掲載作業のため、タイムラグが生じてしまいました。申し訳ありません。 よって上記文中にあります「十九日と二十日」は、すでに過ぎてしまいましたが、2009年の11月19日と20日のことになります。ご了承ください。
(つづく)