2009.11.29
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百十回

 性的快楽の「質」


 鶴亀劇場の舞台が閉(は)ねるのは、夜九時ごろで、師匠の福之助は楽屋へもどってくるなり、かつらを取り、衣装をぬぐと、廊下に出て、走るように風呂場へいく。
 風呂へは入らず、洗面所で化粧だけを落とす。
 付人の中島さんと私が、洗面器の中へ湯を入れて、師匠の襟首の後ろまで濃くぬった練り白粉を、石鹸で落とすのを手伝う。
 たくしあげた楽屋着の左右のたもとを、私が背後から高く捧げるようにして持つ。
 その自分の姿が、うす暗い洗面所の、壁の鏡の中に映っている。
 尊敬する女形の師に仕える甲斐々々しい弟子の姿がそこにある。
 それを見ると、このときだけは福之助と自分が一体化して、美しい役者の弟子でいることが、うれしいような、誇らしいような気分になるのだった。
 顔を落とした福之助は、中島さんに手伝わせ、帰り支度をする。
 舞台以外のときでもすべて和服で、手順がきまっているから、その支度はめまぐるしいほど早い。
 福之助と中島さんは、鶴亀劇場の楽屋、つまり鶴亀荘アパート一階の玄関から、二人そろって外へ出る。
 私も帰り支度をして、二人のあとからお供をする。お見送りである。
 外は暗い。電力も貧しい時代だから、街灯なんかついていない。
 常磐線・亀有駅まで徒歩五分。
 九時をすぎると人通りはなくなり、駅の前もひっそりとして暗い。
 あかりをつけて商売をしている店なんて一軒もない。
 上野方面いきの電車のホームへ渡る福之助と中島さんに、私は改札口の手前に立ちどまって、ていねいに一礼する。
 福之助は、こくりと頭を下げてうなずき、中島さんは、
「ご苦労さま」
 と声をかけて、私の見送りねぎらってくれる。
 私の家は二人とは反対方向なので、下り電車、松戸方面いきのホームへ行くふりをする。
 ふりをするだけで、ホームには入らない。
 すぐに鶴亀荘アパートへ引き返す。
 玄関のガラス戸をそっとあけ、靴をぬぎ、その靴を手に持って、二階への階段を上がる。
 廊下は暗い。突き当たりに三つ並んでいる共同便所のドアも、そのとなりの炊事場も暗くて見えないほどだ。
 二階の廊下全体に、小さな電球が一個ついているだけなのだ。この暗さが私のいちばんの味方だった。
 三姉妹の部屋のドアをあけると、私は背中をまるめ、すばやく室内にすべりこむ。
 この数秒間のスリルは、やっぱり快感だった。
 私はいつもネズミのようにすばしっこく行動し、姉妹たちはおもしろがって、うまく私を受けとめてくれた。
 だから私のこの侵入が、二階の住人たちに気づかれることはなかったのだ。
 もしかしたら、彼女たちが自分の部屋に私を泊めたりしたのは、このスリルを楽しむだけだったのかもしれない。
 まさしく、毎日することのなかったあのころの姉妹たちの、退屈しのぎの材料に、私はなっていたのだ。
 食べるものは彼女たちがこっそり運んできてくれたが、トイレだけは部屋を出て、みつからないようにして廊下の突き当たりの便所へ行かなければならない。
 一度ガラス窓をあけて、そこから外へ小便をしようと思ったが、それはさすがに珠代からとめられた。
「この窓の真下は、竹之助さんの楽屋で、夜はいないから大丈夫だとは思うけど、そういうことだけはやめてちょうだい」
「わかった」
 夜だから住人たちは寝静まっている。
 それでも私は用心して、廊下を歩く足音とか、ドアをあけしめする気配をうかがい、だれも廊下にいないことを確かめてから、息を殺して便所にいった。
 便所は大小兼用の個室であり、もちろん男女共同だった。
 私が便所に入っているときに、だれかがやってくる気配があったら、私は呼吸をおさえ、その人が去るまで待っていた。
 だれもいなくなったら廊下へ出て、また姉妹の部屋へ、すばやくもぐりこむのだ。
 性的な接触はないと前に書いたが、六畳の部屋いっぱいに布団を敷いて、姉妹三人が折りかさなるようにして寝ていて、そこへ私が割り込んでいくのだから、体と体が接触しないはずはない。
 性的な意識を持たなかったとしても、二十八歳と二十一歳と十五歳の女体と、他人である十六歳の私が、ひと晩じゅうもこもこ、ごろごろ寝返りをうちながらねむっているのだ。
 客観的にみれば、そこに性的な雰囲気がかもしだされていると思われても、仕方がない。
 もっと具体的に、はっきりいえば、手足をからませて抱き合ったり、キスしたり、おたがいの股間をまさぐり合ったり、さらには、女性器の中に男性器を挿入しなくても、あの時代の男女の共通観念として、そういうなまなましい行為をしたと同じ程度の性的な快楽を、四人が四人とも、それぞれに味わっていたのではないか。
 いや、私だけはちがう。私にはそういう性的な意識は一切なかった、といくら私ががんばってみても、無意識のうちの、実際にはあったのではないか。
 私がこの部屋でエロティシズムを感じたのは、あの月光の中の太腿に対したときだけであった、といくらがんばってみても……。

 なにしろ、ついきのうまで、軍国主義の教育をうけ、天皇陛下のためならば、なんの命が惜しかろう、と毎日歌わされ、男女の自由な交際など犯罪的行為とみなされ、不倫がばれたら刑務所へ行かねばならない時代に育った私たちだったのだ。
 三人姉妹と私とは、もしかしたら、あのとき、途方もない「性的快楽」の真只中にいたのだろうか。
 そして、いい方を変えれば、あのときの私の存在は、三人姉妹にとって、じつに適当な「性的遊戯」の玩具にすぎなかったということだろうか。

 あれから六十数年後のいまとなって考えてみると、やはりあのとき私が感じた「性的快楽」の質は、現在とはかなりちがうような気がする。
 いまは「自由」になりすぎている。
 性に関していえば、自由過多の時代になっている。
「自由」になったおかげで、どんなにもの凄い、強烈な性的行為の中に溺れてみても、さほどの「快楽」とは感じなくなっている。
 下品に、具体的にいってみれば、女性器の中に男性器を挿入して、ひと晩じゅう摩擦し合うことを快楽というならば、そんな快楽よりも、手の指の先と先とを触れ合ったときに味わう感覚のほうが、性的快楽をつよく、濃密に感じることがある。
 つまり、あのとき姉妹たちと私とが共謀して、夢中になってやっていた冒険ごっこの中に、途方もない至福の「性的快楽」があったのだろうか。
 あったのだろう、きっと。

 しかし、と私はまた考える。
 あのとき、私は、私の股間のものを勃起させた記憶がないのだ。
 勃起させようと思ったこともないのだ。
 このへんが不思議である。
 そして、このへんがモンダイなのだ。
 彼女たちの肉体を妄想して、べつの場所で自慰行為をした記憶もない。
 そういう行為をしようと思ったことさえないのだ。
 勃起しないのだから、自慰しようとも思わない。
 私の体が男として未成熟だったということだろうか。
 それとも姉妹三人という複数攻勢の前にたじろぎ、私は萎縮していたのだろうか。
 いや、ちがう。
 私は、姉妹たち以外の女性に対しては、結構人並みに成熟した性欲を持っていた。
 つまり、他の女たちを相手に妄想して、立派に(?)雄々しく(?)ときには猛々しく(笑)自慰行為に励んでいた。
 たとえば、つい四カ月前まで私が働いていた兵器製造工場の中の、日の丸の鉢巻をした女子工員たち、学校から集団で連れてこられた女学生たちが、その対象だった。
 機械油にまみれた彼女たちの痛々しい顔は、むずむずするくらいエロティックだった。
 ぶかぶかしたもんぺをつけた下半身は、尻の形をまったく隠していたが、逆にそれが私の妄想をかきたてた。
 私は観念的な色魔だった。
 そういう異性たちを空想の中で裸にして、自慰をしていた。かなりひんぱんにやっていた。
 だが、その空想の中に、西木三姉妹は登場しなかった。
 姉妹たちは、兵器工場で働く女たちのだれよりも美人で、コケティッシュで、さらにエロティックだった。
 手が出せないくらい、私が彼女たちを神聖視していた、というわけでもない。
 にもかかわらず、私の自慰の対象にはならなかった。

つづく

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