濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百十一回
劇団『東舞(とうぶ)』一日目
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西木珠代と私の「姉弟ごっこ」もしくは「冒険ごっこ」、あるいは「恋愛ごっこ」は、こんな熱い夢のような状態のままで、数カ月間つづいた。
私のこんな行動を、鶴亀劇場に関わる芝居の人たちに知られたとしても、彼らはいわゆる「堅気」ではないので、まあ、多めにみてもらえる。
しかし、三姉妹の両親および、鶴亀荘の「まじめ」な、堅気の住人たちに見られたら、たちまち糾弾され、破綻してしまう。
自分の娘三人の部屋に、若い男がもぐりこみ、だらしなく手足をむきだして、ひと晩じゅう雑魚寝(ざこね)をしている現場をみたら、どんな親だって頭に血がのぼり、激怒するにきまっている。
(いま思うと、赤ン坊のいる二十八歳の若い母親である秀代まで、その雑魚寝の仲間だったのだから、やはり尋常ではない。しかも秀代の夫は戦場につれていかれ、遠い国でまだ生死不明というありさまだった)
一九四六年(昭和二十一年)早春の或る日、珠代はいつになく真剣な顔になって、私の前にすわった。
「福二郎さん、あなたにお話があるの。きいてちょうだい」
と言って珠代は、両手で私の両手をしっかり握った。
両手をつよく握られ、珠代の吐く息が私の顔にかかって、私の胸はドキドキ高鳴った。
真剣になると珠代の目はますます蠱惑的な艶を増して光るのだ。
私は魔女の妖術にかかった子羊のように手足の力を萎縮させ、頭の中がしびれてしまう。
「お姉さんはまじめにあなたのことを心配して言うのだから、ちゃんときいてちょうだい。福二郎さん、あなたは、いつまでもこのような芝居の一座にいてはいけないわ。日本は戦争に負けて、これからはアメリカの属国になるより仕方がないのよ。歌舞伎なんて、もうおしまいよ。竹若さんや福之助さんが、どんなにいいお芝居をやっても、第一、お客さんが来てくれないじゃないの。歌舞伎はもう駄目よ。私のお友達に、角川登美江さんといって、劇団東舞の偉い女優さんがいるから、そこへあなたを紹介してあげる。あなたは東舞へ行って、しっかり勉強しなさい。いつまでもこういうお芝居にいてはいけないわ」
私が珠代にこういうことを言われたのは、竹若一座が葛飾区四ツ木の平和劇場で、「権三と助十」をやっていたときだった。
花道から板壁一枚へだてた位置につくられている細長い楽屋で、座頭である竹若が、福之助にむかって苦笑しながら、
「客の入りが悪くなって、一座が解散近くなると、どういうわけか、この『権三と助十』をやるんだよね」
と、つぶやいた。
それをきいたとき、私は非常な不安に襲われ、体をすくませてしまったことを記憶している。
本所・寿劇場時代からのひいき客も、京成電車に乗って、四ツ木までは来てくれなかった。
「権三と助十」の大詰。
奉行所の白洲に、ずらりとひかえた竹若の権三、福之助の助十。竹之助は無実の罪で捕らえられた彦兵衛。
父親の汚名を晴らそうとするのが、伜彦三郎に扮した尾上音女。
片岡当兵衛が本当の下手人で敵役の大工・勘太郎。
沢村鉄三郎は奉行の大岡越前守。
そして、役人たちに扮した梅沢秀雄、有沢浩太郎、市川福二郎つまり私。坂東竹次は牢から囚人を引き出してくる牢役人の役だった。
芝居を見ている客の頭数と、舞台で演じている役者たちの数が、ほとんど同数という、さむざむしい、空虚な客席だった。
竹若がどんなにがんばって、おもしろい身ぶり手ぶりで盛り上げようとしても、客席からは笑い声ひとつおきなかった。
縄をかけられて引きすえられている勘太郎の、その縄尻を片手に握り、片手には六尺棒を持って立っている私の耳に、
「ああいうお芝居は、もうおしまいよ」
と言った珠代の声音がよみがえった。
(お姉さんの言うとおり、東舞へ行こうかな)
と私は思った。
四ツ木の平和劇場は、毎日が不入りだった。あの時代、もし珠代という女性がいなかったら、私はどんなにさびしい毎日を送っていたことだろう。
私は珠代の忠告に従い、「東舞」へ行くことにした。
「やめさせてください」
と私が正座して言ったとき、福之助は楽屋の化粧前にすわったまま、鏡の中の私の顔をチラとみながら、こくりと黙ってうなずいただけだった。
付人の中島さんは、
「ご苦労さんでしたねえ。こういうご時勢だから、仕方ないわねえ」
と言って、すこし悲しそうな顔をした。
私は珠代に連れられて、劇団「東舞」のけいこ場に行った。
女優の角川登美江との間に、もう話はついているという。
国電・浜松町駅下車。
芝大門の近くにある倉庫のようなビルの中の一室が、当時の「東舞」のけいこ場だった。
ドアをあけると、レコード音楽のリズムがひびき、十二、三人の若い男女が、踊りのレッスンをしていた。
バレエのけいこ着をつけている女性が数名いて、その華やかな空気に私は圧倒された。
あの湿っぽく沈滞した、鶴亀劇場とはあまりにもちがう、明かるい雰囲気に私は圧倒された。
階級がちがう、と私は直感した。
第一に、年齢がみんな若かった。動作がキビキビしていて、表情に血気があった。
室内に足を踏み入れると、その左側の壁一面が巨大な鏡になっている。
私の全身が、いきなりそこに映って、私は足がすくんだ。
レッスン中の一人の女性が、珠代を見るなり、
「わあ、珠代ちゃん、いらっしゃい」
と言って両手を前にさしだし、指をひらひらさせながら近づいてきた。
そして、いきなり珠代に抱きついた。二人は抱き合ったまま、子供のようにピョンピョンはねた。
この人が、角川登美江だな、と私は思った。小柄な女優さんだった。
珠代が、私を、その角川登美江に引き合わせた。
「この子、豊一さん、よろしくね」
「よろしく。角川です。仲良くしましょう」
あいさつは、それだけだった。
「東舞」は、歴史も格式も、そして実力もある立派な劇団だということを、私は知っていた。
その格式のある劇団へ入るのも、西木珠代が保証人になるのだったら、選考とか書類などは一切不要、という感じだった。
しかし、珠代と角川登美江との関係、そして劇団とどういうつながりがあるのか、私は最後まで知らなかった。
角川登美江は私にむかい、なかば命令口調で、
「豊一くんも一緒に、おけいこしなさい。そのままでいいから、上着だけぬぎなさい。いちばん後ろについて、前の人がやるとおりにやりなさい。体をしっかり動かさないと、舞台の声は出ないからね」
と言った。
いやもおうもなかった。
登美江の言葉にうなずいて、珠代は微笑している。その微笑に励まされた。
言われたとおり、私は上着をぬいで、それを珠代の手に渡し、レッスンの中に加わった。
角川登美江と珠代は片隅に立って私の動きを眺めながら、それからも親しそうに何事かを語り合っていた。
これが、劇団「東舞」へ入った私の、第一日目である。
翌日、私は体のあちこちが筋肉痛となり、便所でかがむこともできなくなった。
登美江の命令で、いきなりやったあのレッスンのせいである。一週間位、痛かった。
私にとって、それは未経験の痛みだった。
だが、うんうんうなりながら、その痛みのなかに、なにか希望のようなものがあるのを、私は感じていた。
この「東舞」という劇団名が、仮称であることを、私はここに断っておきたい。
私は、私のことを、素直に、正直に書きたいと思っている。
書きのこしていきたいと思っている。
小説めいた作り話にならないように注意している。
そのためには、私と関わり合った人々のことも、できるかぎり正直に、そのまま書きたい。私の感じたままを書きたい。
すると、私と触れ合ったそれらの人たちに、思いもよらない迷惑がかかるような不安がある。注意して書いていても、いつなんどき、どんな拍子で、迷惑がかかるかもしれない。
それを避けたい。
私は、濡木痴夢男と名乗る私の過去や現在のこいとを、おもしろおかしく雑誌などに書かれて、ずいぶん不愉快な思いをした経験がある。
そういう不愉快な思いを、私のこの文章によって、他の人に味わわせることを私は怖れる。
(鶴亀劇場とか、白鬚劇場とか、劇場名を仮名にしたのも同じ理由からである)
濡木痴夢男などという、名前からしていかがわしい人間が、過去の自分のそばにいた、というだけで迷惑に思う人がいる。
そう思う人にとっては、私はたしかに、いかがわしい人間である。否定はしない。
あなたはそんな仕事をしていて、恥ずかしくないのですか、と面とむかってののしられたこともある。しかも多勢の前で。
あなたと関わり合うことが汚(けが)れだ、と言う人もいた。
私はいたずらに自分を卑下しているわけではない。被害妄想を楽しんでいるわけでもない。実際のことだから仕方がない。
なので、固有名詞をそのまま書くと迷惑がかかりそうな場合は、仮名にする。
どうか、ご諒承賜りたい。
(つづく)
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