濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百十二回
日陰の愉悦
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劇団「東舞(とうぶ)」のことを、歴史も格式もあり、実力もある立派な劇団である、と私は書いた。
この「東舞」のことは、昭和二十八年(一九五三年)実績のある重厚な出版社から発行された「芸能辞典」に記録されている。
この出版社名、および著者、編者の方々の名前を記したいのだが、前述のように「東舞」という劇団そのものを匿名にしてしまったので、その関係でここだけを表面に出して書くわけにはいかない。
いささか妙なぐあいになってしまったが、おゆるし願いたい。
日のあたらない場所ばかりえらんで生きてきた私が、このような劇団にかつていたことを書きのこしたい気もあるのだ。
私が胸を張って語れる、たった一つの過去というべきか。
ここまで私は自分を卑下する必要もないと思うのだが、過去のトラウマが、私をこのように用心深い、臆病者にしてしまった。
(このトラウマについても、一度こまかく書いてみたい)
けれども、このトラウマによる劣等感が、私の仕事を支えている面もあるので、一概にマイナスばかりとはいえない。
猫の頭を撫でるようにしてトラウマを抱きしめる性癖が、私にあるような気もする。
『劇団東舞』今日、児童文化の問題が盛んにさけばれ、それらに対する諸設備も漸次具備せられつつあることは、何んといってもよろこばしいことではあるが、未だに児童劇場一つ持ち得ない現状は、子供の世界にとって限りなくさびしいことである。かかる祈りにもかかわらず、ある限られた特定の場所において、順次、公演をつづけている各児童劇団の努力に対しては衷心敬意を表せざるを得ない。がその反面、こうした努力が、未だに一般社会から、一般家庭からの関心がほど遠いことは、まことになげかわしい極みである。現在、全国に六十いくつかの児童劇団があるといわれ、東京だけでも三十有余に及ぶというが、その大部分は子ども会形式のものに過ぎないものであって、真に専門児童劇団としての活動を見せているものは僅少である。それらのうちにあって、常に「児童に観せるための高度の芸術性の追求や、その演劇ジャンルの探究」をモットーとして、過去二十五年の苦難の歴史を持つものは、ひとり劇団「東舞」あるのみである。劇団「東舞」は、昭和三年五月、宮津博・芝田圭一らによって創立され、第一回公演「恩を忘れた獅子」をもって、東京小石川御殿クラブにデビューした。同五年、第七回公演「狐の裁判」を早稲田大隈講堂進出の第一歩をふみ、これが童話劇確立への第一歩でもあった。以来、昭和二十七年八月、三越劇場における「白雪姫」「春の童謡」に至る東京における公演回数は実に八十五回に及んでいる。なお、この間、昭和八年十二月築地小劇場に拠り、「ドン・キホーテ」の公演以来、外国の名作の劇化上演、児童劇演劇のリアリズムの提唱、創作劇の上演等、絶えず活発なる活動をつづけ、昭和十四年十月「風の又三郎」「お化けの世界」をもって有楽座に公演、東京における大劇場への最初の進出を見た。一方、映画方面にも進出し、日活多摩川、松竹大船等と提携して児童映画「虎ちゃん日記」「風の又三郎」「水兵さん」等を撮影。昭和十六年には東宝と正式契約がなり、劇団の半職業化を見、その他、戦時中には満州、朝鮮へと慰問巡演に赴き、または疎開学童の慰問公演として各地への巡演をつづけてきた。終戦後は、東京公演の傍ら、専ら学校巡回、地方移動公演に主力を注ぎ、北は北海道より南は九州に至る全国各府県都市にあまねく足跡を残し、昭和二十七年六月、文部省、都教育庁、朝日新聞社の後援のもとに帝劇において二十五周年記念公演として菊岡久利作「都会の野鴨」五幕七場の上演を見て今日に及んだ。
以上が、一九五三年発行の「芸能辞典」に掲載されている「劇団東舞」についての紹介である。
この「東舞」の存在を、だれに教わるということもなく、子供のころから私は知っていた。
ということは、私は小学生時代から、演劇活動に関心があったということだろう。関心というより憧れがあったのだ。
そしてまた「東舞」という劇団は、戦時中から、私の目からも華やかな活動をしていたのである。
作家・山中恒氏に、「ボクラ少国民」という重厚な内容の著作がある、
私が持っているのは、一九八九年に講談社文庫におさめられた一冊であるが、はじめは「辺境」という勁草書房発行の季刊誌に連載され、のちに単行本として刊行されている。
「ボクラ少国民」時代を生きてきた私のような人間にとっては、一読、胸をえぐられる思いのする切実な内容が詰まっている労作である。
昭和六年(一九三一年)生まれの山中恒氏が、戦争下の国民学校(小学校)や中学で体験した「大日本帝国」の権力者たちの非人間的な教育や、不合理な圧力を、豊富な資料のもとに克明に記されている。
山中恒氏と私とは一歳違いなので、まさしく同世代の中に育っている。
たとえば、昭和十五年一月、私は国民学校六年生の代表として皇居前広場に集められ、「記元二千六百年奉賀祝典」のために、何千人という生徒たちと一緒に「記元二千六百年頌歌」の斉唱をやらされた。
寒風吹きすさぶ皇居前広場に参列させられ、外套のポケットに手を入れることをゆるされず、直立姿勢で唱わされたときの凍えた指の冷たさを、いまでもおぼえている。
だが、私がここに「ボクラ少国民」という本を紹介したのは、そういうことを書きたいからではない。
この本の中に、劇団「東舞」公演のパンフレットの表紙写真が掲載されているからである。
重厚な価値をもつこの「ボクラ少国民」の内容を、私のような者に利用されるのは、著者にとっては心外きわまるだろうと思うが、どうかおゆるしいただきたい。
その「東舞」公演パンフレットの表紙写真は一ページ大に掲載されているので、印刷されている文字がよくわかる。
「日本文化中央聯盟主催・皇紀二千六百年奉祝藝能祭撰定」
という肩書きのもとに、
「山田浩作・夜あけの子供」
とある。
山中恒氏の文章によると、これは懸賞当選作で、演出は筒井敬介、一九四〇年一一月五日から一〇日まで、「国民新劇場」とその月から名称を変更したばかりの築地小劇場で公演された、とある。装置は芝田圭一。
「と同時に宮津博の演出で戦争詩三篇の朗読もされている。後半は連日『大入袋』の出る盛況であった。戦争詩の三篇は、山本和夫作『慰問袋』、草野心平作『凱旋部隊』、与田準一作『戦ふ兵隊蟻』であった」
と、山中恒氏は書いておられる。
そして、この舞台は「劇団東舞の第四五回藝能祭公演」とパンフレットの表紙に大きな書き文字で印刷されている。
この緊迫した不穏な時代に、「東舞」は四十五回もの公演数を誇る劇団であった。
つまり、私がいいたいのは、わずかな期間ではあったが、私が所属した「東舞」という劇団は、当時これほどの、いわゆる「メジャー」な存在だったということである。
このことは、私の心の奥底に、ひそかな「誇り」となって刻みこまれている。
あの過酷な戦争中、純粋な児童劇運動をつづけたいがために、ときには権力者どものご機嫌をとって、軍国主義の匂いのつよい芝居をやらざるを得なかった「東舞」とは、それゆえに「メジャー」といっていい劇団だった。
日本の演劇史に、きちんと書きこまれている実績のある劇団であった。
権力者に反抗したら、メジャーとはなり得ない。
私は生まれてからこのかた「メジャー」とよばれる世界とは縁のない、貧しい、みじめな境遇ばかりにいた。
いつも権力者たちの目をぬすみ、こそこそと卑屈な思いで日陰に生きてきたような気がする。
だからといって「メジャー」に憧れていたというわけではない。
メジャーよりも、湿った日陰の身のほうが私は好きだ。
私を取り巻く環境は、いつもみじめで貧しく、暗い色彩ばかりだったと私は思いこんでいる。
戦争の真只中に育って、家が貧しかったのは事実だが、あるいは、零落趣味を好む、生まれついての私の性癖が、そういう卑屈な負け犬の思いに快楽を味わう人間にしてしまったのかもしれない。
負け犬の姿勢で、暗いところから陰気に目を光らせている自分の姿にうっとりすることさえある。この愉悦感は醜く卑劣だと思う。
ひねくれている。いやな性格だ。
そのくせ、ほんのすこしだが、「メジャー」に心をひかれる自分もいるのだ。
「メジャー」をめざして毎日を送れば、気分は明かるく、楽だ。生きやすい。
だが、暗くいじけた日陰の場所に身をひそませているほうが、私にとっては「メジャー」よりも愉悦度は深い。
われながら複雑な、混沌として性格だと思う。自己嫌悪に一人苦悶した夜もあった。
しかし、こういう劣等感のつよい、ひねくれた性格を持った少年が、濡木痴夢男という職業をもつ人間に育っていったのだ。
(つづく)
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