濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百十四回
嘘つきは作家の始まり
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「このごろ落花さんと濡木さんのおつきあいのほうは、どうなっていますか。気になっています。落花さんとセンセイのお話は、私にとって非常に興味がありますので、ぜひお知らせください」
というようなお便りを、ときどきいただく。
郵便で送られてくる手書きのお手紙を私が好むことを、みなさんよくご存知なので、私のところへくるお便りは、ほとんどが肉筆である。
しかもみなさん、ていねいな、心のこもった文字を書いてくださり、ときには直接お会いしてお話するよりも親密な気分になる。
そのようなお手紙をいただくと、返事をせずにはいられない。
で、落花さんとのことを心配してくださる方へ、ご報告いたします。
大丈夫です。あいかわらず、というよりも、以前にもまして、仲良く、密接に、いろいろやっています。
会う回数も多くなり、会って共に何かする時間も長くなっているようです。
共に何かするって、なんですか?
ときかれると、一言ではいえないのでちょっと困るけど、ま、楽しいこと、いろいろです。
楽しくないことはやりません(あたりまえだけど)。
ウェブ・スナイパーというところに、いま私はこの「おしゃべり芝居」みたいな文章を連載していますが、これは、落花さんとの現在進行中のことばかりです。
ですから、こちらを読んでいただくと、よくわかるはずです。自分でこう言うのはなんですけど、これは、ちょっと凄いです。
なにしろ、
「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」
というのですから。
このウェブ・スナイパーを担当している井上くんが、
「猥褻快楽遺書ですか。うーん、いいタイトルですねえ。いつもながら濡木先生は、うまいタイトルをつけられますねえ」
と、ほめてくれたので、私はいい気分になって、
「タイトルだけでなく、中身もがんばるよ」
と、答えました。
というわけで、中身も結構がんばっています。
よくもまあ、いい年をして、こんな恥知らずなことを書けるもんだ、とわれながら、あきれる位のものです。
ま、いい年になったから、書けるのかもしれませんけど。
いくら私が通俗エロ小説ばかり生産してきた三文文士でも、年をとれば、この程度までは書けるのです。
言い方を変えれば、単に、ずうずうしくなった、というわけのことかもしれません。
私が尊敬する作家・車谷長吉氏が、キビしいことを言っておられます。
「――小説を書くことも、人の陰口、悪口を容赦なく言うところからはじまります。悪口を言い合っている時ほど、話が盛り上がる時はありません。だんだんに言葉は大袈裟になり、嘘が混じって来る。その『嘘』こそが、創作のはじまりです。併し他人の悪口だけでは、文学は成立しません。自分の陰口をも容赦なく表沙汰にしなければならない時が来る。その時、どうするか。大抵の人はそこで小説を書くことを、小悧巧に、あきらめてしまいます。悧巧者には小説は書けません。阿呆にならないと、小説は書けません。悧巧者とは頭はいいけれど、頭の弱い人です。頭が強い人じゃないと、小説は書けません。
小説は、小説を書くことによって、まず一番に作者みずからが傷つかなければなりません。血を流さなければなりません。」
そしてまた、車谷長吉氏は、こういうことも言っておられる。
「私は自分の骨身に沁みたことを、自分の骨身に沁みた言葉だけで、書いて来ました。いつ命を失ってもよい、そういう精神で小説を書いて来ました。生きるか死ぬか、自分の命と小説とを引き換えにする覚悟で書いて来ました。」
これは文春文庫・車谷長吉の「飆風」の中の「私の小説論」から書き写させていただきました。
「飆風」は「ひょうふう」と読みます。
ルビがふってあるので、私にも読めます。
この字はしかし、パソコンの中にはないだろうなあ。
犬という字が、三つ重なっていて、つくりが「風」である。
私、こんな字、いままで見たことがない。
これまでに何度か説明してきたように、私のこの原稿は、すべて手書きです。
ワープロのような機械は、一切使わない。使わないのではなく、使えないのです。
私が書いている原稿のほとんどは、Rマネが電子文字に直して発表してくれています。
Rマネは、いまや私の手足同然です。
どうだろうか、Rマネよ。
「飆」という字、パソコンにあるだろうか。
でも、パソコンの中になくても、どこかから探がし出してきて、魔術のように間に合わせてしまうのが、Rマネの得意技の一つだから、きっとなんとかしてくれるでしょう。
現に文春文庫には「飆」という字、ちゃんと載っているのですからね。
私も一応は、調べてみた。
ふつうの国語辞典には、出ていない。
広辞苑にも、出ていない。
私の仕事部屋には、古語辞典とか、漢語辞典とかもあるのだが、日頃使わないので、どこかへもぐりこんでしまって、いまちょっと見つからない。
「飆」という字の意味は、あとでゆっくり探がすとして、車谷長吉先生のお言葉は、まことに立派であり、私のような卑小な人間にもよくわかります。
一度位は私もこういう堂々とした立派なことを、タンカを切って言ってみたいと思いますが、とても駄目です。
逆立ちしても、言えない。
私は臆病で、楽なことが好きな人間なので、いい小説なんかかけなくてもいいから、できるだけ長く生きたい。
(楽なことが好きだから「縛り係」なんてシゴトを、長いあいだやってこられたんだろうなあ……)
この世の快楽をだらだら味わいながら、だらだら長く生きたい。
すこし位だったら血を流してもいいけど、あんまり大量に流したくない。
痛い思いや、つらい思いは、できるだけしたくない。
「嘘」こそが創作のはじまり、とおっしゃられる車谷長吉先生の、そこんところだけは、その通りだと思います。
ということは、「嘘つき」は「小説家の始まり」というわけで、これは十分に納得できます。安心しました。
でも、はっきり「嘘」と言ってしまっては味もそっけもなく、愛想もないので、私は「お芝居」としているわけです。
落花さんとのことでも、一〇〇パーセントほんとのことばかり書くと、第一、彼女に迷惑をかけるおそれがあります。
どんなに迷惑をかけまいと気を使っていても、こういうわずらわしい世の中に棲息している以上、なにかの拍子に迷惑をかけることもあるので、それは仕方がないにしても、できるだけ迷惑はかけたくない。
ま、これが、年相応の分別というものでしょう。
落花さんによけいな心配はかけたくない。
だから、一番かんじんなことは書けないのだが、ある程度までは、ほんとのことを書きます。書いてきました。
ほんとのことを書かないと、「嘘こそが創作の始まり」といっても、書くほうも読むほうも、やっぱりおもしろくない。
たとえば、彼女と行ったラブホの名前を、そのまま書いてみようと思います。
(すでに「猥褻快楽遺書」のほうには、きちんと書いています)
えっ? なんですって?
そんなものを書いてくれたところで、読者にはおもしろくもなんともないって言うんですか?
そうかなあ。そうですかねえ。
でも、ラブホの名前と、どこにあるのか、その場所を書いたら、私と落花さんの行動範囲がわかって、すこしはおもしろくなるのではありませんか。
書いてみます。
(つづく)
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