明かるいバラ色から、やや暗い青っぽいライトに変わり、つぎにステージに登場したのは、稲荷山こん十郎だった。
いまどきの若者らしく背が高く、そして手も足も細く長く、格好よかった。
左右の目尻がややつり上がっていて、顎も細い。
藤色の地に、白い花模様をぬいた着物、濃い紺地の帯を小粋にしめて、足には白足袋、右手に扇子。曲は、
「どんな苦難がおそいかかろうとも、荒波こえて嵐に耐えて、おれは負けずに生きていく」
というような、男の心意気を歌ったものだった。
なよなよした派手な衣装を着て、たくましい男の心情を踊るという趣向なのだろう。
曲が節目にくると、稲荷山こん十郎は着物の袖を肩までたくしあげ、腕を肩近くまでさらけだして見得を切った。
その見得がきまるたびに、客席から、
「こんちゃーん!」
という女性の声がかかった。人気のある役者なのだった。
私は、その踊りに、すぐに退屈していた。
芸を演じる人間に対して、私は意地のわるい目を持っている。
あなたは狷介だ、と人に言われたことがある。
舞台に目をやりながら、私は左隣にすわっている落花さんの耳に口を寄せ、
「この人の踊り、形だけで、心が入っていない」
と、ささやいた。
私がそんな批判をする前に、彼女は私と同じことを思っていたにちがいなかった。
うなずきもせず、彼女は舞台にまっすぐ顔をむけていた。
すると私はますます、こん十郎の踊りが苦痛になった。
見ていられなくなった。
で、落花さんの耳に、また言った。
「この踊りは、いまどきのSM雑誌みたいだね。形だけはいろいろそれらしく、格好つけて、派手なことをやってるけど、かんじんの魂が入ってない」
また、こうも言った。
「いくら印刷がきれいで、一見豪華な内容でも、誌面を構成する人間に、魂が入ってなけりゃ、本当の読者の心をつかむことなんか、できゃしないよ。あの雑誌のいちばんイヤなところは、読者に対して、編集者が、上から目線の編集をしているところだ。だけど、そのことに編集者は気がついていない。一生けんめい読者にサービスしていると思っている。だけど、そう思えば思うほど、内容は上から目線になっている」
落花さんの目は、しかし、舞台の上にそそがれたままだ。
私もそれ以上大きな声を出すわけにはいかない。
周囲の客席には、目もあり耳もある。
私は左手で、落花さんの右手を握った。
彼女はぬいだコートをきちんとたたんで、膝の上に置いてすわっている。
そのコートの下に、彼女の両手がある。
私は左手をコートの下にもぐりこませ、彼女の右手を握りしめる。
周囲の客からは見えない。
稲荷山こん十郎の踊りはまだつづいている。こんどは勢いよく片袖をぬいで肩をむき出し、足をトンと鳴らして見得を切った。
私は左手で、彼女の右の太腿をつかんだ。
五本の指で太腿の若い弾力を楽しんだ。
彼女の下半身は、黒い布地のパンツにぴっちりと包まれている。
左手の指を五本ひろげて太腿の肉の丸みを確かめ、つかんだり押したりして感触を楽しむ。
彼女の下半身の体温が、私の手の指から手首へ、腕へと伝わり、心臓にまで届く。
太腿の体温と弾力は、即私の快感となる。
彼女の全身を抱きしめている妄想に浸る。
いや、妄想ではない。実感である。
顔は舞台にむけてはいるが、私の心は踊りとは無関係に陶酔している。
彼女は動かない。
私の手の無言の侵入を、避けようとはしない。
さらに強度の情念をこめた私の掌と五本の指の動きを、防ごうとせず、まっすぐに上半身を立てたままで受けている。
受けてはいるが、反応はしない。微動だにしない。
黙ったままじっとしているのは、私の右手の理不尽な動きを、彼女も快楽と感じているように思える。
そうなのだ。きっと快楽として感じているのだ。
だが、落花さんは、快楽を快楽として反応しない人である。
快楽に感じたとしても、それをあからさまに表現することをしない。
恥ずかしげもなく、あからさまに反応することをはしたないと思っている女性なのだ。
そこがまた、私が好ましいと感じるところである。
快楽を快楽と感じ、べたべたと反応し、密着してくるような女は、じつは、私は好きになれない。
そういう女は、うっとうしいと思う。私もひねくれている。
私が彼女に対して行う、こういう場所でのこういう接触行為は、これがはじめてではない。
過去に何度か経験している。
落花さんと親しみ合ってから四年ほどになるが、劇場や映画館や、その他のイベントホールへ一緒に行った回数は、数えてみると、数十回、いやもう百回は超えているだろう。
とにかく、かなりひんぱんに、その種の場所へ行っている。
「ぼくはね、映画や芝居を見ていて、退屈してくると、となりにいる女性の体を撫でまわすくせがあるんだよ」
と、知り合ったばかりのときに、私は彼女にそんなことを言ったような気がする。
もちろん、周囲の客に気づかれそうな状況のときには、そんな破廉恥な真似はしない。
それに、私と彼女が見に行く映画や芝居、その他の催し物の中身については、私たちなりに、前もって厳選する。
というより、私たちの好みは、一般的なものよりは、かなり片寄っている。退屈しそうなもののには、はじめから近寄らない。
だから退屈することはすくないのだが、全編にわたって緊張を持続させてくれるようなものには、めったにぶつからない。
退屈するシーンが長くなり、我慢できなくなると、周囲の状況をたしかめながら、私の片手がもぞもぞと動きだすというわけである。
太腿の弾力はいい。うっとりする。
腿のつけねに近い丸みのやわらかさはいい。
私は彼女の太腿の内側まで、五本の指さきで丹念になぞる。指の腹で柔軟な弾力を味わう。彼女の内腿のなかに、私の魂は吸いこまれる。
客席の目はみんなステージに向けられてはいるが、これはスリルのある行為であり、それゆえに官能的な快楽は極上のものだ。
退屈しのぎ以上のものだ。
客席から拍手がおこった。
稲荷山こん十郎の舞踊が終わったのだ。
魂は感じられなくても、彼は彼なりに熱心に踊った。要するに未熟ということである。
ねぎらいの拍手。この劇場の客はやさしい。
落花さんの膝上にかけてあるコートの下から、私は左手をぬいた。
ぬくときも彼女はなんの反応も示さない。
照明と音楽が変わり、つぎに登場したのは、この一座の座長だった。
時代物の年増女に扮しての女形の踊りであった。
濃い紫地の着物に、紺色の鳥がはばたいている、色彩的には地味な衣装。純白の長襦袢。白足袋。
静かな動きのなかに、道ならぬ恋に悩む女の心がこめられていた。全身が情感に包まれ、隙がなかった。衣装の図案のなかの鳥が、生き生きとうごめいた。
空にさしのべる手の指の先端にまで、恋する女のせつない神経が感じられた。貫禄があり、みごとであった。
落花さんはこの役者が好きなのだ。私は彼女に引きづられてここへやってきたのだ。
「結局、踊りも、魂の表現ということだよなあ……」
わかりきっていることだが私は感嘆し、落花さんの耳に聞こえるようにつぶやいた。
座長である女形の踊りは、ひたすら魂を、全身の動きのなかにこめていた。男を恋慕する女の情念を、内に秘めた動きだった。
内に秘めても秘めきれずに、外にあふれだしている妖しい色気が芸であり、客席を魅了する。
まだ若い稲荷山こん十郎の踊りは、客席を意識し、客に媚びた見得を切り、それは言ってみれば「上から目線」の芸であった。
くらべて座長の女形は、激しくせつない女の恋情を、あくまでも内面的に演じていた。それが見る者の心をとらえる。
上からの押しつけがましい目線を、すこしも感じさせなかった。
ショーのすべてを見終えてから、私は座長と握手した。「お疲れさま」と言った。
それから私は落花さんと「駒形どぜう」へ行き、どじょう鍋で酒を一合と、夕飯をたべた。
どじょう鍋とどじょう汁を、
「おいしい」
と言って落花さんは微笑した。
あの一座の熱演から受けたこころよい刺激と興奮が、私たちのなかにまだ残っていた。
「駒形どぜう」からJR浅草橋駅まで、もう暗くなってしまった夜の街を、手をつないで歩いた。
Rマネとも、中原るつ氏とも、おしゃべりしながらこの道を歩いたことを思い出した。
この道は、江戸通りというのだ。
駅で別れるとき、私はいつも落花さんに、
「きょうはおつきあいしてくださって、ありがとうございました」
と頭を下げ、礼を言う。
形だけではない。心からそう思う。
私は落花さんに対しても、Rマネに対しても、るつ氏に対しても、「上から目線」でものを言ったことは、一度もない。
いくら年をとっているからといって、自分のことを、はじめから「上」だとは思っていない。
一週間後、落花さんとまた会った。
そして、いつものように、いろいろ語り合った。
「駒形どぜう」から浅草橋駅まで、手をつないでおしゃべりして歩いたことが、ふと話題になった。
「あのときは、楽しかったです」
と彼女は大きな目をキラキラさせ、声を弾ませて言った。
ショーを見たことよりも、どじょう鍋をたべたことよりも、駅まで歩いた十五分間が楽しかった。そういう口ぶりだった。
「だったら、また歩こう」
と、私は言った。
(つづく)
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