濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百十九回
目くそが鼻くそを笑ってはいけないけど
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水月影緒様
ごぶさたしております。
私、あいかわらず、元気です。
きのう、おとといと、連日風俗資料館にお邪魔しておりました。
きのう資料館から自宅へもどって参りますと、中原るつ館長から連絡が入り、たったいま水月さんから電話があり、私の「おしゃべり芝居」や「ナイショ話」の新しい原稿が、ちかごろネット上に見えないので、心配されておられるとのこと、ありがたくうけたまわりました。
中原館長からお聞き及びと思いますが、あいも変わらず、毎日毎日、私あちこち飛びまわって、いろいろなことをやっております。
この、いろいろなこと、というのが、実際やたらに範囲が広いので、いまとなっては、どういうふうに処理したらよいのか、途方にくれるときがあり、自分が手を出した結果とはいえ、いささか困惑、そして錯乱状態におちいっているところです。
しかしながら、しょせんは自分がまいたタネであり、一つ一つ根気よく片付けていくよりほかはありません。
近況をご報告しますと、ネット関係では、ウェブ・スナイパーというところに「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」を連載しております。
これはタイトルどおり、私の最も恥ずかしい、さりながら、生きている実感に充ちた行為を、どこまでさらけだせるかを、実験的な気分で書いているものです。
また「SMネット」という雑誌に「前略、縛り係の濡木痴夢男です」というタイトルで連載エッセイを書いています。
これは、現在の「商業緊縛」についての感想、というより批判を、皮肉たっぷりに、もちろん否定的な立場で書いています。
私は「縄師」なんかではない、撮影現場に雇われた、単なる「縛り係」にすぎない、といった意味のタイトルです。
「縄師」だなんて偉そうに自分で「師」をつけて名乗っている人間なんて信用できない、という気持ちがこめられています。
私がどんなに否定的に、皮肉をこめてわめいたところで、女性をすぐにハダカにして、四肢をのばしたり固めたりして縛って、アクロバットみたいな形にしたあげく、異物を股間に挿入するシーンが全盛の現在の「商業SM」が、どうなるわけでもない。
それはわかっているのですが、さりとてそういう風潮に同調する気もなく、まあボソボソと、こんな文章を書いている次第です。
そんな風潮に同調する気もなく、とうっかり書きましたが、撮影現場では雇い主の命令どおり、女体をひろげて縛っているので、結局は同調していると思われても仕方がない。
言っていることとやっていることと違うじゃないか、と人から嘲笑されても仕方がない。
先日も某「商業SM」の撮影に雇われて行き、自称二十歳の美女(実際テレビのCMにも使えそうな目鼻立ちのパッチリした可愛らしいお嬢さんでした)を縛りました。
クライマックスでは、私が縛ったそのお嬢さんが、四人の男優に囲まれ、つぎつぎにフェラ行為に及びます。
強制されてやるわけではなく、彼女はうれしそうな顔で、目を輝かせて男の性器をなめまわします。
心底うれしそうに、よろこんで積極的にやっているのに、なぜ彼女は縛られていなければならないのか、そばで見ていてさっぱりわからない。
彼女がこんなによろこんで、無抵抗に、言われるままに従っているのに、男たちはなんのために、どういう理由があって、彼女の自由を拘束しなければならないのか。
私には、ふしぎでたまらない。
理不尽であり、不条理の世界、というより仕方がない。
(不条理世界のおもしろさを狙っているのでしょうか。ま、そう言われてみれば、そんな気がしないこともないけど……)
私には理解できない、特別な感覚、精神世界があるのでしょう。
そのうちに四人の男性はいっせいに射精し、彼女は嬉々としてそれを顔面に浴び、口をあけて受け入れ、さらにはうれしそうに舌を出し、ぺろぺろなめたりします。
射精のあと始末として、彼女は四人の男の性器を、先端からねもとまでていねいになめつくします。
(ここでちょっとナイショ話をしますと、このシーンに入る直前に彼女を縛る縄は、私は使い古したものを使います。すこしでも精液がかかった縄は、解くと同時にすててしまいます)
「縛り係」として雇われている私は、こういうシーンを、過去に百数十回、目の前で見ております。
なぜ見ていなければいけないかというと、そういう男女の慣れ合いの楽しい状況においても、縛ってある縄がゆるんだりしたら、私は任務として、それを直さなければならないからです。
制作スタッフ側は、刺激と興奮、つまり強烈なエロティシズムをお客に与えようとして、一生けんめいがんばっておられるのでしょうが、私にはどうも官能的なものは感じられない。なんともむなしい時間の流れです。
正直いうと、このシーン、いつも絶望的な思いに私、沈みこんでいきます。
ならば、どうしてそういう現場に雇われていくかというと、まあ、お金が欲しいこともあるけど、ピカピカ光っている可愛らしいお嬢さんが、はじめて私に縛られるとき、その一本目の縄をかける最初に、やはり得(え)も言われぬ独特の微妙なエロティシズムを発するのです。
嬉々として男たちの巨根を口に入れ頬張る女性にしても、はじめて縄に触れるその一瞬だけ、さすがに不安そうな、おびえた、魅力的な新鮮な反応を示します。
本心を表わすその新鮮な反応は、数秒間で消えます。
その数秒間は私にとってやはり貴重な快楽で、それに惹かれて私は、呼ばれれば撮影現場におもむくのです。
私にとっては最も官能的であり、魅力的なその数秒間の「SM」シーンは、しかし皮肉なことに、お客さん方の目に触れることはないのです。
制作スタッフには無視される、ムダなシーンなのですから。
しかし、よく考えてみると(よく考えなくても)こういう私の感受性も、世間一般の、ふつうの「ノーマル」な人たちから見たら、やはり理不尽であり、不条理なものなのでしょう。
こういう射精ドバドバ精液ぺろぺろ、みんなニコニコの撮影を、私が内心多少バカにして(おかしい)と思ったりするのは、いってみれば、目くそ鼻くそを笑う、の類いなのでしょう。
というわけで、以上、つい最近の私の一日、結局、いつものような私の愚痴になりました。
こんなこと、これまでに何度もあちこちで書いてきたような気がします。
これから私のペンネームを、濡木愚痴男にしようかな(笑)。
水月影緒氏は、私が風俗資料館に保管をお願いしてある、私の秘蔵の映像コレクション(私がふつうのテレビドラマの中から緊縛シーンだけを録画してつなぎ合わせたもの)をごらんになって、おもしろい、とおっしゃってくださり、私へ手紙を書いてくださったお方の一人です。
私のこんな気持ち、ひとことでいえば「羞美」こそが緊縛快楽の極致、と断言する私の感覚に同意してくださる同志のお一人です。
ちょうど一年前、水月さんは緊縛における「羞美」について、私にたくさんの写真を添えて私にお手紙をくださいました。
私は大いに勇気を授けられました。
ですから、安心して、性懲りもなくこんな愚痴を、またまた書いてしまいました。
こんな愚痴をまだ書く気力と体力があるという報告を、水月さんに致した次第です。
愚痴を書いて気分を晴らすという行為も、私がまだ生きているという証拠でしょう。
体力といえば、アメリカで緊縛写真集を出されている(日本の同種のものよりも私の好みに合った立派な写真集です。これも資料館に置いてあるので、水月さん、ごらんになってください)方から依頼があり、濡木痴夢男の実際の緊縛が見たいというので、この話、やがて実現するかもしれません。
このアメリカ人がくれば、この人の目の前で、私は、私の好む緊縛を、だれに気がねすることなく、のびのびと、思う存分やれるような気がします。
水月影緒様。
そのうち風俗資料館でお会いして「羞美」について、また楽しく語り合いたいと思います。
(つづく)
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