濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十二回
「鮮血花かるた」と「つぼみ斬魔剣」
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大田黒秋良様。
さまざまな資料が豊富につめられている宅配便、たしかに頂戴いたしました。
ありがとうございました。
私へのごていねいな手紙、そして「裏窓」「サスペンス・マガジン」時代の私と、私の周辺に関する親密さのこもった懇切なエッセイをお書きくださいまして、感謝にたえません。
鹿野はるお氏の書き下ろし作品、ひばり書房刊の貸本屋向きマンガ「新・美男同心シリーズ・8」の「鮮血花かるた」の一冊は、いま、なかなか手に入り難い貴重な本です。昭和三十九年(一九六四年)以前の作品と思われます。いまから約五十年前の絵物語です。
また「週刊漫画ゴラク」増刊号の「コミックブレイク」(日本文芸社刊)というマンガ誌に、神田ゆうという方が連載された「つぼみ斬魔剣」第一話から第六話までを切りぬいてくださった資料、これも鹿野はるお氏の作品と同様に、時代物マンガです。
大田黒さんから私への手紙にあったように「つぼみ斬魔剣」は、各ページにフンドシ美少女が魅力的に登場して、意欲的なおもしろい作品だと思います。
それにしても大田黒さんは、河出書房新社から出した私の六冊の文庫本の内容を、よく読んで覚えていてくださいます。
魂のこもった緊縛シーンを描かれる鹿野はるお氏のことも、畔亭数久(ぐろてすく)氏の絵物語に出てくるフンドシ美少女のことも、私のその本の中に紹介されているのです。
お気にかけていただいて、うれしく思います。感謝します。
送っていただいた鹿野はるお氏の「鮮血花かるた」を拝見しますと、むかし、美濃村晃と二人で、荒川区町屋の鹿野氏のご自宅へたずねて行ったときのことを思い出します。
「この貸本屋作家の鹿野はるおという人は、会ったことはないけど、きっと我々と同じ趣味をもっていると思うよ。SMの心得があるよ。直接会って『裏窓』に描いてもらうように、たのんでみようよ」
「うん、ぼくも同志のような気がする」
と、私もその気になり、上野から京成電車に乗って町屋という駅でおり、細い路地の奥の、そのまた奥の路地をたずね回って、鹿野先生のお宅へたどりついたのでした。
ですが、鹿野先生、毅然として胸を張り、
「せっかくだが、わたしは、ひばり書房さんに恩義がある。他誌に描くわけにはいかない」
と、古武士のようなことを言って、結局、「裏窓」には描いてくれなかったのでした。
この日の鹿野先生の風貌を思いうかべると同時に、私の脳裏には、美濃村晃との、あのSM三昧(ざんまい)の日々がよみがえるのです。
「SM」を忌避する権力者たちの、底意地の悪い執拗な弾圧に明け暮れたあの時代、それゆえに忘れることのできない美濃村晃との凝縮された濃密な快楽の日々……。
周囲のほとんどが「敵」だったせいもあって、私と美濃村晃はつねに固く手を握り合っていなければ、生きていけなかった時代だったのですよ。
言ってしまえば、現在もまた、周囲のほとんどは「敵」みたいなものです。
もっと言ってしまうと、味方の顔を持った「敵」なのですよ。
「私はあなた方と同じ性癖を持つ人間です」
などと言って接近してくるのですが、実際は味方ではないのです。似ているようにも思えますが、じつは非なるものです。私はとても用心ぶかくなっています。私はこういう人たちには、決して心をゆるしません。
私が過去に書いたわずか数行の「フンドシ美少女」の文章を覚えていてくださり、今回わざわざこのようにコミック誌を何冊も切りぬいて、まとめて送ってくださった大田黒さんこそ、私どもの「味方」にちがいありません。
大田黒さんから送っていただいた鹿野はるお画伯の「鮮血花かるた」をみると、やっぱりいいのです。おもしろいのです。
一冊の絵物語の中に、縛りのシーンはわずかしかないのですが、その小さくコマ割りされたスペースの中に存在する四、五点の責め場が、なんともいえないくらいに可愛らしく情感があるのです。
縛られている女はもちろん着物を着たままで、扱帯(しごき)による高手小手です。
その背中に高々とまわされている手首の位置が、たまらなくいいのです。SM的にみて色っぽいのです。
鹿野先生、ずいぶん気合いをこめて、このシーンを描いています。
その気合いが、情念となってこちらに伝わります。とくに女の表情をていねいに、まつ毛の一本一本までこまかく神経を使って描かれているのがわかります。
責められている女の大きな目に、うるうるとぬれた怨みの情感がぽってりとこもっていて、なんとも可愛らしい。
おや、この風情はどこかで見たことがあるぞ。それも身近で、なまなましく見ているぞと思って考えたら、なんと落花さんが私に縛られたときの雰囲気によく似ているのでした。
(ただし落花さんという人は、私が縛ると同時に、毎回かならず半分気を失って体をぐにゃぐにゃにさせ、両眼をとじてしまいます。ですからこの鹿野画伯の絵の中のパッチリ目の美女とは、顔形はすこしちがうのですが、全体の雰囲気、縄によってかもしだされる全身のエロティシズムがそっくりなのです)
美濃村晃と二人で、一日がかりで鹿野先生をたずね、その帰りの電車の中で、こんなことを話し合いました。
「鹿野先生の中には、SM、それも縛りに対するマニア的な思いが絶対にあるんだ。そのことに、あの人自身はすこしも気がついていない。自覚していないで、こういう縄の情感のある絵を描くところがおもしろいなあ」
美濃村晃のこの感想に、私もまったく同感でした。
どんなにマニア向けに描こうと意識して努力しても、その「心」をもたない画家の絵には、どうしてもSMの「味」が出てこない。
その逆に、自分ではまったく気づかずに、マニアがよろこぶイラストを描く人もいる。
これは文章、つまり小説の場合も同じです。
(SM雑誌を編集していた時代、編集部に売り込みにくる画家や作家が、月のうち三、四人いました。それらの人たちと話し合っていると、そういうことが、よくわかります)
もう一つ言ってしまえば、商業SMの場合、どんなにマニアっぽく、荒々しく縄をかけたとしても、縄を握る人にその「心」がなかったら、縛りにSMの官能、あるいは快楽の「味」が出てこないのです。
(このことは「裏窓」に掲載されている美濃村晃の写真をみると、はっきりわかります。美濃村晃が自分の手で女性を縛り、そして自分でシャッターを押した写真です。縄を一本だけ使って、軽く縛ったものですが、じつにSM官能味の濃い、いい雰囲気の写真です)
大田黒さんに送っていただいたもう一つのほうの時代物マンガ「つぼみ斬魔剣」。
これは、はっきり申し上げて鹿野画伯よりも、絵のテクニックは数段巧妙だと思います。若い作家だと思いますが達者な絵です。
なによりも現代的です。新しい。女体を描く線が細く、のびのびしていて躍動的です。
鹿野画伯の描かれる女体の線は、どことなくゆったり、もったりしています。ポーズの数もすくない。
「つぼみ斬魔剣」のほうは、二〇〇九年に発表された作品なので、五十年前の鹿野作品よりも現代的なのは当然で、これでもか、これでもかとばかりに大胆なエロティシズムに終始しています。
神田ゆう氏が描くヒロインは、すぐにフンドシ一つの裸になって、敵と激しく闘います。
さまざまなアングルからのフンドシ描写は肉感的であり、一般的な視点からみても、セクシーで楽しい絵物語です。
これほどひんぱんに、刺激的な角度から美少女フンドシの姿が絵物語の中に登場するのはめずらしく、一つの資料としての値打ちは十分にあります。
大田黒さんがていねいに切りぬいて、私のところへ送ってくださるお気持ちになられたのも当然だと思います。
ヒロインを襲ってくる敵というのは、蛇女とか、蜘蛛女とか、天狗とか、つまり魔性のものばかりで妖しい術を使います。
天狗男はその高くて長い鼻を武器にして、美少女の股間を、フンドシの上から突き立てるという趣向です。
当然、ヒロインの手足は拘束され、危機におちいるシーンが続出します。
その拘束シーンも細密に、官能的に、上手に描かれています。一般読者によろこばれそうなシーンが、つぎからつぎへと展開して、神田ゆう氏はなかなかのストーリーテラーであります。
これもSMだ、と言われれば、たしかにそうなのでしょうけど、きびしいことをいえば、もう一つ、なにか「味」が欲しい。
それは、フンドシの描写に、マニアのもつこだわりみたいな陰影を、もうちょっとだけ欲しい、ということでしょうか。
フンドシそのものに、もうすこし質的な立体感を加えていただきたい。
欲をいえば、このヒロインが、なぜいつもフンドシをしめているのか、その心理みたいなものを説明、描写していただきたかった。
そうしてくだされば、これは相当に高い点数がつけられるマニア向けの絵物語になることを保証します。
もちろん、このままでも「美少女フンドシ」の立派な資料となることは、まちがいありません。
かさねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
たいせつに観賞させていただいたのちに、鹿野はるお画伯の「鮮血花かるた」と一緒に、風俗資料館に預かってもらいます。
(つづく)
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