2010.4.20
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十三回

 おそるべき退廃美


 この小屋で演じられる三時間半のショーに、なぜこのように熱く、もの狂おしいほどの情念をこめて、観客が集まるのだろうか。
 ずいぶん以前からの、私の疑問だった。
 疑問ではあったが、深く考えたことはない。私自身が、熱狂的とまではいかないにしても、このステージのかなりのファンである。
 魅力があるから客は吸い寄せられてくるのだ。ときには、自分の身を削るような思いまでして、客はやってくる。
 それは、幼いころから私の中では、常識的ともいえる風景だった。
 この風景に接することに慣れていた。
 だから、どうしてここに客が集まるのか、考えるほどのこともないと思っていた。
 彼らの魅力は、伝統的ともいえるほど、長い年月のあいだ、持続しているのだ。
 私は彼らの魅力、そして実力にも慣れており、もの狂おしく支持する客たちの姿にも慣れていた。
 なので、ふしぎともいえる彼らの魅力の正体は何か、ということに、格別の疑問は抱かなかった。
 その疑問が、きょう見ていて、すこしだけだが、解けたような気がする。
 ひとことで言うと、客たちは、このステージで演じられるジプシー一座の退廃美に魅せられて集まってくるのだ。
 ジプシーたちが圧倒的な表現力で、客席の頭上にのしかかってくる退廃美。
 ジプシーといってしまったが、私はけっしてさげすんでいるわけではない。さげすみの心なんて、ひとかけらも持っていない。
 私は心の底から彼らを敬愛している。だから尊称である。私は彼らが好きである。もうちょっと若かったら、私は彼らの下働きでいいから、一緒に旅から旅を回りたい。私は憧れている。
 ためしに「ジプシー」という言葉を、辞書でひいてみよう。
「ジプシー」インドの北西部から出て、ヨーロッパ各地を転々と旅している民族。踊り、音楽にすぐれ、いかけ、占いなどで生活をたてている。同じところに落ち着いていない人。放浪生活をする人。(旺文社・国語辞典)

「ジプシー」ヨーロッパ各地に散在する漂泊の民族。箱馬車に住み、男は鋳掛け、女は占いなどで生活をたて、音楽、舞踊を好む。ボヘミヤン。(岩波国語辞典)

 ああ、なんというロマンティックな、自由な人たちなんだろう!
 断っておくが(ここでこんな断り方をするのはおかしく、ばかばかしいけど)私を魅了してやまない三時間半のショーを演じる人たちは、れっきとした日本人である。
 いま、最も日本人らしい、伝統的な日本人といっていいかもしれない(なにしろ、すいすいと着物を着ることができ、帯も格好よく自分でしめられる人たちなのだ)。
 ジプシー一座の退廃美、と私は表現してしまったので、ついでに「退廃」という言葉について、辞書をひいてみることにする。
「退廃」荒れくずれること。荒廃。道義的に乱れ、脆弱(ぜいじゃく)で不健全なこと。デカダン。(旺文社・国語辞典)
 とあるけど、ウーン、この解釈はよくないなあ。私のイメージとはちがうなあ。それでは岩波の国語辞典からひいてみよう。
「退廃」道徳や健全な気風がくずれること。その結果の病的な気風。また、デカダンス。(岩波国語辞典)
 ウーン、これもなんだか、ぴったりこないなあ。病的な気風なんていうのとは、ちょっとちがうような気がする。デカダンスか。よし、それじゃ広辞苑から「デカダンス」をひいてみよう。
「デカダンス」頽廃・堕落の意。一九世紀末のフランスを中心に現われた文芸の一傾向。虚無的・耽美的で、病的・怪奇的なものを好む。ボードレールを先駆とし、ベルレーヌ、ランボー、イギリスのスウインバーン・ワイルドなどに代表される。また、一般に虚無的頽廃的な芸術傾向や生活態度をいう。
「デカダン」デカダンスの芸術家。虚無的、頽廃的な感情のままに生きる人。また、そのようなさま。(広辞苑)
 うん、まあ、こっちのほうが、いくらか近いような気がする。
 でも、やっぱり、ちがうかなあ。
 あの人たちの仕事ぶりは、とても虚無的とは思えないなあ。
 虚無どころか、人一倍、勤勉家であり、努力家であり、目の前のお客のごきげんをとるためには、それこそ眠る間も惜しみ、おのれの恥をさらし、命をけずってがんばっているように思える。
 あの人たちの仕事も私生活も、過酷きわまる環境のなかにあると思う。
 ここで面倒だが「虚無」をまた辞書でひいてみようか。
「虚無」何も存せず、むなしいこと。空虚。特に、価値のある本質的なものがないこと。または、万物の根元としての無。
「虚無主義」実在とか真理とか、既にあるあらゆる制度、権威とかを否定する傾向とその主張、ニヒリズム。(岩波国語辞典)
 ちがう、ちがう、とんでもない、全然ちがう。
 あの人たちは、ぜったいに虚無主義者なんかではない。
 食事をとる時間もないらしく、舞台の上で芝居をしながら、なにやら粘液状の栄養ドリンクを、客の前でチュウチュウ吸っているのを、きょう見た。
 客の前でそういう自分をさらけだし、それをまた芝居にしてしまうという行為にデカダンスを感じるが、虚無的だとは私は思わない。
 それもまたあの人たちは「芸」にして見せ、客をよろこばせてしまうのだ。
 退廃美のなかに客の心をひきずりこみ、むりやり酔わせてしまうのだ。
 きょう、私を最も驚嘆させたのは、芝居の中で(それもチョンマゲをつけた、つまり時代劇の中で)三人の登場人物が、酒徳利を逆手につかんで、中の水を口にふくんだときである。
 それは、主役である浪人・中山安兵衛をはじめとする長屋の者が、敵である剣客たちと決闘するために、高田の馬場へ駈け出さんとする芝居であった。
 ステージの役者たちが、何やら、セリフを言いながら、口に水をふくんだ瞬間に、客席の前列にすわっていた十数名の観客たちが、いっせいに白いタオルを、自分たちの頭上に、両手で掲げたのである。
 同時に役者たちは、そのタオルめがけて、
「プーッ」
 と、口にふくんだ水を吐いたのだ。
 一度だけでなく、彼らは何度も徳利の水をふくみ、それをくり返したのだ。
 最前列から四番目あたりまでの客の頭上に、役者の口から吐き出された唾液まじりのその水が、霧となってふりそそいだ。
 満員の客席はキャアキャアと笑いころげて嬌声をあげ、どよめいた。
 私は、あっけにとられた。
 前列にすわった十数名の客には、あらかじめタオルが渡されていたのだ。
 いつ渡されたのか、後方の席にいた私にはわからない。
 タオルを渡された客は、役者が吐き出す水を、そのタオルで防ぐことを用意していたのだ。
 ということは、この芝居の中で、役者が水をふくみ、客席にむかって勢いよくそれを吐き出すことを知っていたのだ。
 この一座の退廃美に酔わされている客は、その水を受けたいがために、開演前から詰めかけていたのだろうか。
 そして、最前列から四、五列目の椅子に陣取って待機していたのだろうか。
 そんなことは知らずに、ステージから離れた、十数列後方の席にすわっていた私と、そして落花さんは(彼女もいたのだ!)ただ、ただ、驚嘆するのみである。
 水を浴びた客だけでなく、小屋の中の超満員の客のすべてが、この時代劇の演出にびっちりと組み込まれていたのだ。
(しかも、この「決闘高田の馬場」は、この日一度だけしかやらない芝居なのだ!)
 このジプシー一座は、一カ月間だけ(正確には二十九日間)この小屋で芝居とショーをやり、月が変わると、もう私たちの前から消えてしまう。
 一日に昼夜二回、二回ともまったくちがう芝居とショーをやり、つまり二十九日間に、五十八種類の芝居とショーを演じて、この場所から去り、ほかの土地へ移ってしまう。
 いわゆる「追っかけ」と称する熱烈なファンはいるだろうが、旅から旅をゆくジプシー一座の公演先に、百人も二百人もついていくとは、とても考えられない。
(それとも、そういうファンもいるのだろうか。私にはわからない。あの狂烈な熱気をみると、あるいはいるのかもしれない)
 私も落花さんも、とても「追っかけ」なんてできないので、一年に一度位しか、この一座を見ることはできない。
 どんなにこの一座をひいきにしていても、見ることはできないのだ。
 さて、ずいぶん遠回りをしてしまったが、私はこの一座の役者たちが舞台で演じる退廃美について説明しなければならない。
 どこが退廃美なのか、私はまだ何も書いていない。
 それを説明しなかったら、読んでくださっている人は納得できないだろう。
 だが、ここまできても、まだ私はためらう。この人たちの退廃美について書こうと思っても、私の未熟な表現力では困難なのだ。
 この一座の魅力は、退廃美であり、ときに倒錯美にある、と私は思う。
 ここで飛躍していうことをゆるしていただければ、この役者たちと、役者たちの演じるものを好む人は、一種のマニアと呼んでもいいのではないかと思う。
 そしてさらに、私と落花さんが、この小屋に結集する人々になみならぬ親近感を覚えるのは、彼らに退廃美マニアとしての体温を感じるからではないだろうか。
 最もかんじんな、この一座が魂をこめて表現し、客に訴える退廃美について、私はまだ書いていない。
 退廃美と断じてしまうことは安易だとも、私は思う。
 しかし、あの人たちの妖しい美しさを描写することは、本当にむずかしい。私の手に余る。安易と思われようが、浅薄と思われようが、私の力量では、退廃美と書くより仕方がないのだ。
 あの役者たちの、あまりにも非日常的な妖しく化粧された美しさがあるからこそ、彼らの口から吐き出される水を、客は声をあげ、両手でタオルをかざして受けとめるのだ。
 その客の心を書かねばならない。
 じつは、あしたもまた、私は落花さんと一緒に、べつのジプシー一座のショーを見に行く。
 そこは、いつも行く小屋とはちがう、東京の東の端にある建物の中にある。すぐそばに江戸川が流れている。
 私をそこへ誘ったのは、落花さんである。
 いまや、落花さんのほうが、ジプシー一座に夢中になっている。
 あしたは一日じゅう、昼も夜も、ひとつの建物の中にとじこもって、ジプシー一座を見る。おそるべきショーに浸る。
 倒錯の退廃美を、私はじっくりと観察してくる。

つづく

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