濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十四回
三日月半詩郎の尻
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座長の三日月半詩郎が、艶歌のメロディに乗って現われ、自信たっぷりに手足を動かして踊る。
ステージ中央の程よいところで、くるりと背中を客席にむけ、尻をひとひねりした瞬間、私は何かにうたれたように勃起してしまった。
半詩郎の尻の形とその動きが、あまりにも色っぽかったからである。
満員の客席に背中をむけたまま、リズムに合わせて尻だけを動かす。
同時に顔だけをねじって客席に目をやる。その瞬間の流し目が、おそろしいほど艶冶(えんや)なのだ。
自信に充ちた目の色と尻肉の動きで、なんとも妖しいエロティシズムを客席に撒きちらす。
といって、半詩郎は裸ではない。
半詩郎は男の役者である。
女にも扮するが、いまは男の衣装で踊っている。私は男の尻に勃起してしまったのだ。
踊る半詩郎は、濃い紺地の単衣を着流しにして、帯はうすい黄色である。
着物の背中には、白い大きな鯉が一匹、尾を大胆にはね上げた形で染められている。その白い鯉が生きているように悩ましくうごめく。
歌の節目で、踊りのポーズがきまる。
同時に、客席から女の声があがる。
「半さァん!」
「座長!」
「半詩郎さァん!」
私の斜め前にすわっていた五十年配の女は腰をうかし、前のめりになって、
「半詩郎!半詩郎!」
と呼びすてである。
そのかけ声が、しだいに高く鋭くなり、悲鳴や絶叫に近いものになってくる。
しかし、どんなに熱狂的な声援を送っているようでも、この一座をひいきにしている女性たちは、どこかに冷静な目を持っているような気がする。
人生の辛苦を味わっていそうな層が多いせいかもしれない。
このショータイムは、休みなしに一時間十五分つづく。
座長の三日月半詩郎はじめ、約八名いる座員たちが、入れかわり立ちかわり、衣装を替え、かつらを変えて踊る。
一人が約五分間位ずつ、つまり平均一曲ずつ踊るが、男女二人のコンビのときもある。三人四人と同時に登場し、ドラマティックな構成で踊ることもある。
客を飽きさせないように演出されている。女の座員が三人いて、それぞれが達者な身ぶりで踊る。この女優たちにも客席から拍手が送られる。
この三日月一座のショータイムで、最も多く登場し、果敢に踊るのは、座長の半詩郎である。
後半になると半詩郎は女姿となる。娘、年増、芸者、さらには花魁姿となり、衣装かつらを変え、曲に合わせて踊りまくる。
何を踊っても手をぬくことはしない。全身から放たれるエロティシズムは、ますます妖艶なオーラに充たされる。
客に媚びているように見えても、ぬきさしならない緊張感が、芯に一本通っているのがわかる。それが芸の品格を支えているような気がする。
ひいき客が自分の席を立って腰をかがめながら、舞台の端にまで接近する。踊っている役者を自分の目の前までまねき寄せる。片手をのばして用意した祝儀袋を役者の胸もとにさしこむ。
役者は低い声で、しかし情感のこもった目で礼を言い、両手をさしだして客の手を包むようにして握る。
そして、さりげなく巧妙に踊りの振りにもどっていく、これが何度となくくり返される。
役者は踊りながら、つねにひいき客の動向に意識を集中させているのだ。
二百の客席を埋めている人間一人一人の顔を、そして表情を、すべて把握しているのではないかと思うときがある。
客席は暗いのだが、彼らは暗いところでも見える目を持っているのだ。そして彼らの感覚は、すばやく動く昆虫のように鋭敏である。
半詩郎の人気は、さすがに際立って凄い。祝儀袋を持った客がつぎつぎに席を立って接近し、片手を舞台の端にかける。これらの客で列ができることさえある。
半詩郎は踊りながら客に近寄り、膝を舞台につけて祝儀袋を頂戴する。
他の客には聞こえない声で礼を言い、頭を軽くさげ、客の手を握ってから、踊りへもどる。この一連の動きに隙がない。
客の手を握りしめながら、それを「芸」として見せるところに、私はいつも感動する。これらの動きのなかに卑しさが見えないことに、私はときに畏怖さえ感じてしまう。
祝儀袋の中の正確な金額を、私は知らない。祝儀袋におさめずに、むきだしのまま、十枚二十枚の一万円札を、役者の首すじから胸まで下げて飾りにした時代を、私は知っている。それは、さほどむかしのことではない。
ああ、私も金がたくさんあったら、三日月半詩郎に、あのようにして捧げたい。
半詩郎の女形は、ふるえがくるほど美しい。いや、女とか男とかを超越して半詩郎はエロティックである。この世のものとは思えないくらいに美しく、セクシーである。
半詩郎は長身である。
百八十センチ以上あるかもしれない。女に扮し、かつらをかぶると、さらに高くなる。
体の大きいのは、女形にとってはマイナスとされている。女は小柄で、可愛らしくなければならない。
だが、あまりにも妖艶なるがゆえに、半詩郎の長身は、短所とはならない。常識をこえたエロティシズムの光彩に包まれて、彼の艶美な存在感は、衣装を変えて登場するたびに圧倒的なものになっている。
(ちくしょう!)
私は心のなかで呻き声をあげる。
どんなに粋で、艶冶な芸者に扮していて、濃厚な秋波(ながしめ)をふりまきながら踊っていても、半詩郎は男ではないか。女ではない。
どんなに色気を発散されて艶やかに踊っていても、あの芸者の股間には男根がついているはずだ。体があんなにでかいのだから、男根も大きいにちがいない。
(ちくしょうめ!)
その大きな男根をかくして芸者姿で踊る三日月半詩郎に、このように狂おしく拍手喝采する女たちの心理は、奈辺にあるのだろうか。
男根がついている美しい女だからこそ、女たちは熱狂するのか。
熱狂してうわずった声をかける女たちのイメージのなかに、半詩郎の男根はどのような位置を占めるのか。
これは倒錯感覚そのものではないか。
この倒錯した陶酔感を掘り下げていくと、どこへ到達するのだろうか。
女優が踊る芸者の衣装の内側には、当然、半詩郎のような男根は存在しないはずだ。
男根を持たない女優が踊るときには、どんなに美しい姿に扮していても、客席から祝儀袋は飛んでいかない。どんなにうまく踊っても、客席からは拍手だけしか送られない。
私は思い出した。
いまから五十数年前のある日、あるとき、美濃村晃と交わした会話。
「……須磨さん(美濃村晃の本名)、おれ、このごろ、女とセックスするとき、自分が女性器を持った女になって、相手の男に犯されるというイメージをやたらに抱くんだ。自分の性器を女の性器に挿入するとき、いま男根を挿入しているのは、自分ではなく、他の男であり、このとき自分の肉体は女性器を持った女になっている。現実に女性器に男根を挿入しているのはおれだけど、イメージのなかでは、おれはマタをひろげて、男根を挿入されている女になっている。そして、そういうイメージでセックスしていると、とても気持ちいいんだけど……」
自分の言ってることが、美濃村晃に伝わるかどうか、私にはわからなかった。
語っている自分のこの感覚が、私自身にも理解できなかった。
ふつうの人間を相手にこんなイメージを説明したところで、全く通じないだろうと思った。でも、だれかに語りたかった。
美濃村晃にも理解できないだろうと私は思った。この倒錯感覚はひどすぎる。
だが、美濃村晃はなんでも話せる相手だった。実際には私のイメージのことを、もっとまわりくどく、しゃべったような気がする。
美濃村晃は、しかし、すぐに理解して、反応してくれた。
私の顔をじっとみつめ、まじめな顔で言った。
「……そうですか。それは、いいですね。いいことですよ。やっぱりあんた、ホンモノだね。よくわかりますよ。そういう感覚がないと、この雑誌の編集はできない」
私が「裏窓」の編集を引き受けたころの話だから、一九六〇年、昭和三十五年あたりだったと思う。
私はじつは、この日のショータイムが始まり、三日月半詩郎が登場し、踊りながら後ろ向きになって尻をふったとき、すぐに、五十年前、美濃村晃と交わした会話を思い出していたのだ。
五十年むかしの記憶が、半詩郎の尻を見たとき、なぜ、ふいによみがえったのか。
わからない。
私のとなりには、いつものように落花さんがいた。
落花さんに誘われて、私はこの三日月一座にやってきたのだ。私よりも落花さんのほうが、このジプシー一座への執着度は強い。
私はステージに目をやりながら、落花さんの尻に右手をまわして、撫でた。
(つづく)
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