2010.4.24
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十五回

 春之介もまた美しい


三日月半詩郎の尻」を書きおえ、それをすぐに、FAXで落花さんのところへ送った。
 もう一度読みなおし、三十分ほどたってから、Rマネのところへ送稿した。
 Rマネのもとへ送らないと、ホームページの「おしゃべり芝居」に掲載できない。
(掲載というのか、発表というのか、私にはよくわからないのだが)
 ホームページに関しての一切は、この四年間(いや、もう五年になるのかな)Rマネがソツなくやってくれている。
 私は、何もしない(というより、できない)。
 IT関係のことは、あいかわらず私にはさっぱりわからない。
 わかろうともしない。私はまだケータイ電話すら持っていない。
 持っていなくても、べつに不自由はない。
 Rマネは、いってみれば、私専属の良き校訂者である。誤字、脱字類はむろんのこと、意味がわかり難いところを正確に指摘してくれる。とにかくありがたい人である。
「三日月半詩郎の尻」を、落花さんはすぐに読んでくれて(なんと書きおえてから十五分後である。文明開化の世である!)電話がかかってきた。
 彼女が何か言う前に、私は先まわりをして弁解した。
「だめだ。あの一座の強烈な存在感は、おれの貧しい表現力ではとても描ききれない。中途半端なものになった」
「そうでもないですよ。おもしろかったですよ」
 と、落花さんはいつもの明晰な口調で言った。慰めてくれたのかもしれない。
「半詩郎がぜんぜん描けていない。半詩郎の魅力はあんなもんじゃない」
 と私は言った。謙遜ではなく実感だった。
「けっこうよく描けていたと思いますけど」
 と、落花さんは言った。
「そうだろうか」
 私はもっと彼女にほめてもらいたい。
 考えてみれば、私は彼女にほめてもらいたいがために、この「おしゃべり芝居」を書きはじめたのだ。
「私は半詩郎の舞台を見ているから知ってるけど、実物を知らない人は、先生のあの文章だけで、その人なりにいろいろ想像して、おもしろく読んでくださると思いますよ」
 と、落花さんはいつものように冷静である。
「ま、小説に限らず、文章は、こころやかたちを、他者に強要するものではなく、最小限の提示ののち、他者の想像に委ねるべきものであるって、直木賞選考委員の偉い先生もおっしゃってるからなあ」
 と私は未練がましく弁解をつづけた。
「半詩郎という役者は、顔だけじゃなく、からだ全体に、なにか暗い陰影があるんですよ。そこにふしぎな退廃美を感じるって、彼の舞台を見た直後に、先生言ってたじゃないの。先生が描いた半詩郎には、その暗い陰影が感じられなかったわ。そのかわり、春之介の雰囲気がすこし混っていたような気がする」
 と、落花さんは言った。
「あ、そうか。なるほど、言われてみれば、そうだ」
 春之介というのは、三日月一座の若い女形で、まだ十八歳だという。
 目鼻立ちパッチリの可愛らしさで、一般的な美しさからいったら、半詩郎よりもみずみずしく美しい。
 春之介が現われると、半詩郎とはまたちがったひびきの嘆声とどよめきで、客席は大きく搖れる。
 十日ほど前、春之介が踊る江戸時代の町娘の姿を、はじめて舞台で見たとき、私は、
「や、や、や、やッ!」
 と、おどろきの声をあげ、落花さんの耳に口を寄せて、こんな会話を交わした。
「あれは、なんだ、男か、女か。あのきれいさはなんだ。あの色気はなんだ。教えてくれ。なんだ、なんだ、あれは女か、男か、教えてくれ」
 落花さんはまっすぐに舞台を見て、両眼を凝らしながら、
「わかりません」
 と、首を横にふる。
 そして、さらに男か女かを確かめるように細い首をのばし、春之介をみつめる。
 春之介もけっして陽性の雰囲気を持った役者ではなく、むしろさびしげな風情なのだが、若いだけに容貌もふっくらしていて、体つきも丸みがある。
 くらべて、三日月半詩郎には顔にも体にも病的な鋭い陰影が漂っている。
 鼻すじが細く高く、頬の肉はやや削げている。下唇が突き出し、皮肉ばかりを言う口もとに見える。
 しかし、この下唇の色気は凄い。じっと見ていると気が遠くなるほどエロティックな口もとである。
 この下唇で全身をなめられることを夢想して彼をひいきにし、舞台を見るたびに五万、十万、二十万のご祝儀をはずむ女性がいたとしても、ふしぎではない。
 若い春之介が持つ色気は、いかにも無垢で柔軟だが、すらりと細く長身の半詩郎がかもしだす暗いエロティシズムは、刃物のような硬質な感じがする。全体が酷薄である。
 私はそこに彼の退廃美を感じたのだった。
「半詩郎には、すさんだような陰影があったわ」
 と、電話の向こうで、落花さんが言った。
「そうだ、そのとおりだ。すさんだような陰影のある色気だ。それが退廃美だ」
 すさんだ色気であり、だから退廃美が全身に漂う。
 この「おしゃべり芝居」には、ときおり落花さんの鋭い助言が入る。その適切な助言に救われながら、ここまで書きつづけてこられた。
 私のこの原稿を一番に読んでくれるのは、つねに彼女である。四百字詰めの原稿紙ですでに千八百枚に及んでいる。彼女は一枚残らず読んでいるはずだ。

 それにしても、半詩郎や春之介に限らず、ジプシー一座の人たちは、みんな化粧がうまい。
 自分の顔面を装おうメイクアップのテクニックに、全神経を集中させ、全生命を賭けているといっても過言ではないだろう。
 ショータイムで踊るときには、一人一人が主役であり、全員がきりりとした美しい二枚目になる。
 女形で踊る場合は、当然、女よりも美しく艶やかな顔をつくる。
 へたなメイクをすると、ひいき客を逃がすことになる。美しく、そしてセクシーな対象でないと、客は祝儀をつけない。
 化粧がうまいというのは、自分の要望の欠点をかくし、美点のみを強調して、より魅力的に見せることだ。
 それともう一つ、衣装の選択と着こなしがうまい。
 これも全精力を使い、芸人生命を賭けている気迫が見られる。踊るときには自分で選び、自分で作った衣装を着て、客の前にアピールするにちがいない。
 衣装の着こなしの上手下手で、舞台上での色気の有無がきまる。
 たとえば、着流しの単衣(ひとえ)をつくるとき、わざと身幅を微妙にせまくした採寸を注文するのではないか。
 それは下半身、とくに尻の形を客の目にぴっちりと露骨に見せ、セクシーさを強調させるためである。
 私が半詩郎の尻の形に幻惑されたのは、あきらかに彼の意図のとおりに、私の官能が疼いたためである。
 こういう演者たちのけなげな「芸」を、大多数の人間は認めようとしない。
 下品とか、卑しいとかいって敬遠する人間もいる。あきらかに差別されている。
 こういう「芸」を卑しいとも下品とも思わず、蔑視もせずに、これこそ芸能の神からの使いだと信じて陶酔し、熱愛する少数派の人たちのことを、私は心のなかでひそかにマニアと呼んでいる。
 人間の本能の深いところでつながっている同志だと思う。
 私は子供のころから、このジプシー一座の存在を知っている。この「おしゃべり芝居」にも、そのことを書いている。短い期間ではあったが、関わったこともある。
 落花さんをジプシー一座の客席へ連れて行ったのは、じつは私である。
 それまで彼女は、この世に、こういう芸能人種が存在していることを知らなかった。
 庶民は大体において、市井の芸能を好み、親しむものだが、ジプシー一座の存在は、その庶民感覚からもいささかはずれた位置にある。
 彼女はこの種の芸能とはまったく無縁の環境に育った人間である。
 それゆえに、日常感覚と距離をおく、異端ともいうべき密室空間へ彼女を案内することは、私にとって一つの冒険であった。
 私がこの舞台を見せることによって、あるいは彼女と、それまでうまくいっていた関係が切れる怖れさえ私にはあった。
 けっして上品とはいえない密室空間にうごめく男女たちの姿を、芸を、彼女に見せようと私が決心したのには、一つのきっかけがあった。
 だが、それを語ると長くなりそうなので、そのへんの事情と経過は、あとにゆずる。
 いまはかんたんに書く。
 数年前のある日の夕方、私は彼女の手を引いて、海に近い運河の岸の乗船場から、小さな船に乗った。
 そのとき、彼女はめずらしく非常な不機嫌状態だった。
 船は走り、都会の街の間を流れる川の上流に位置する下船場へ近づいたが、彼女の不機嫌はまだつづいていた。
 その怒りの理由は、よくある通俗的な女のわがままから生じたものではないことを、彼女の名誉のために記しておく。
 かんたんにいえば、彼女の怒りは、現代社会の非人間性をむきだしにした、功利主義一辺倒に構成された建築物の実態をあからさまに見せつけられたからである。いわば社会的な、人間的ないきどおりといったものであった。
 私はなんとか彼女の怒りをしずめようと思った。
 しかし、船の中では、彼女をあの密室空間へ誘い込むアイデアは思いつかなかった。
 やがて船がその町の船着き場に接岸し、私はまた彼女の手を引いて上陸したのだが、そのときふいに、あの猥雑な、しかしきわめて人間っぽい空間を思い浮かべたのだ。
 よし、あそこへ案内し、あれを見せてやろう!
 連れ込んだあげく、こんな汚ない、空気の悪い、得体のしれない人間ばかりが凝集している、臭い、不気味な場所はいやだ、とますます怒りをつのらせたとしても、それは、そのときのことだ。
 あれを見たときの彼女の反応やいかに。
 いってみれば、あのときの私の気持ちは、一種の賭けであった。

つづく

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