2010.5.14
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十六回

 いまが死に時(どき)なんだけど


 おしゃべり芝居が、また、パタッととまってしまった。
 Rマネの目がこわい。
 弁解します。
 いま、私、たいへんに多忙なのです。
 とてもいそがしい。
 Rマネの目が届かないところまで忙しい。
 いそがしくて死にそうです……などと、いそがしがって得意げに言いふらしてはいけない、とむかしむかし、先人に忠告されたことがあります。それは卑しい、下品な行為である、と……。
 いそがしがる、いそがしぶる、などという言葉があるものだろうか、と思い、ためしに広辞苑をひらくと、あった。
「いそがしがる」……いそがしいと思う。いそがしい様子をしている。
 広辞苑には「いそがしぶる」という言葉は載っていなかった。
 偉ぶるとか、金持ちぶるというふうにして私は使っていたような気がする。
「あいつ、へんに偉ぶっていやがって、気に食わねえ」
 とか、
「あの野郎、金持ちぶっていやがって、いやみな人間だぜ」
 とか。
 ついでだが、「豪(えら)がる」という言葉が、広辞苑にあった。
「自分でえらいと思う。えらそうにする。いばる」
 という意味である。
 五十数年前、
「いそがしいのはだれでも同じですよ。いそがしいなどと言わないで、『黄色オラミ誕生』の連載をおつづけなさい」
 と、私に忠告してくれたのは沼正三氏(巷間いわれている沼正三ではなく、本物の沼正三氏)でありました。
 あのときは本当に自分を、恥ずかしく思えた。
 だが、そのときもやはり多忙で、沼正三氏の期待にこたえられず、私は「奇譚クラブ」に連載していた小説を、中断してしまったのだった。
 いや、私はいま忙しいのだから、こんなことをぐだぐだかいているひまはないのです。
 でも、弁解をしなければならない。
 さまざまな方々から、たくさんのお手紙をいただいているのです。
 私のところへ送られてくるお手紙は、いわゆる「手書き」がほとんどなのです。とてもていねいな肉筆です。
 そして、まじめで切実な内容ばかりです。
 その返事をいたさねばならないのですが、ひまがなくて、どうしても書けないのです。
 私からの返事をお待ちの方、すみません。けっしてなまけているわけではなく、書かなければ、書かなければと思いながらも、なかなか書けないのです。
 私には、仕事がありすぎるのです。
(ああ、私はまた、いそがしぶっている!)
 だけど、私はもう高齢で、いまさら仕事をしても仕方がないのです。
 なのに、あとからあとから、いろんな仕事が飛びこんできて、防ぎようがないのです。
 エンディングプランナーという肩書きをもつお医者さんが書いた本の中に、
「人間が死ぬのに適している年齢は八十歳位」
 というところがあって、なるほど、と思いましたね。
 つまり、頭も体もまだしっかりしていて、だれにも迷惑をかけずに、ポックリ死ねるのが八十歳位、というのです。
 エンディングプランナーというのは、「人生の終わり方を考え、計画する人」ということでしょう。
 私、ちょうどいま、その八十歳なのです。
 もう仕事なんかしなくてもいいはずなんですよ。死ぬのに適している年齢なのです。
 つまり、いまが死に時(どき)というわけです。
 ですから、何かたのまれても、威張って、私はいまが死に時ですから、お引き受けできません、と言って頑として断ればいいのですが、浅草生まれの浅草育ちなもんですから、なかなか断れない。
 もともと軽薄な人間でお調子者なので、おだてられると、いつのまにか引き受けることになってしまう。こまったものです。
 お金になる仕事もあれば、お金にならない仕事もある。
 お金にならない仕事のほうが、内容的に楽しい。
 終わってからも楽しい余韻がいつまでもつづき、ああ引き受けてよかったな、と思うときがある。
 そんなときは寿命が三年位のびたような気がする。
「縄」の濡木痴夢男が、えッ、こんなことまでやってるのか、まさか! と知らない人は腰をぬかすようなことまでやっている。

「…このとき、高い高い空の向こう、そのまた向こうの遠い遠い空のかなたから、高らかな笑い声をあげて飛んでくる者がいる。これこそ、だれあろう、赤いマントに包まれた、われらが正義の味方、黄金バットであります。ワッハッハッハッハッ……」
 などと叫んで、大声をあげて笑う仕事を、じつはきのうもやっていたのです。
 女を縛って、ハダカのオッパイの上に蝋涙をポタポタたらしている男が、その翌日になると、
「われこそは正義の味方、黄金バットなり!」
 わめき、怒鳴り、大勢の観客の前で、腹をゆすって笑っている光景を、だれが想像できるでしょう。
 でも、現実に、やっているのです。
 おもしろがって、得意になってやっているのです。
 こういうことをやっているから、みなさんからいただいたお手紙の返事が、なかなか書けないのです。
 スミマセン。
 雀百まで踊り忘れず。
 きのうはその「黄金バット」を、なんと、某一流大学の、神聖な教室の中で、学生を相手に演じていたのです。
 そうだ、そのとき私が講演した、街頭紙芝居についての台本を、ここに、ずうずうしくご披露することにいたしましょう。
 紙芝居「黄金バット」を演じたあとで、こういう台本をもとにして、約三十分間、学生や教師たちの前で、私はもっともらしく大道芸の歴史についての講演をしたのです。

 ハイ、私が、ただいま上演致しました紙芝居「黄金バット対死神博士」の作者であり、この紙芝居の絵を描いた当人であります。
 この「黄金バット」という、顔面は頭骸骨、赤いマントですっぽり全身をおおって、羽根も翼もないのに、自由自在に空を飛びまわる怪人が、いちばん最初に紙芝居の舞台に登場したのは、むかしむかし、一九三〇年、昭和五年とも、あるいは六年ごろのこととされています。
 つまり、いまから八十年も前のことであります。
 黄金バットのお話をする前に、紙芝居のそのものの歴史をすこしお話したかったのですが、長くなりますので、このへんは省略させていただきます。
 当時、街頭紙芝居というものがありまして、これが子供たちに、たいへん人気がありました。
 街頭というのは、街(まち)の頭(あたま)と書く、あの街頭、つまり、街の中でやる紙芝居であります。
 自転車の荷台の上に、舞台と、飴の入った箱をのせて、街から街へと移動して、公園とか、空地とか、路地の中の通行人のない場所で営業するわけであります。
 ですから、雨が降ったら、できない。雨の日は、お休みになります。
 当時は、この紙芝居屋さんが、東京だけでも二千人を越えていたといいます。
 この紙芝居をつくる会社、会社というより製作所が、東京近辺に二十社以上もあったそうです。
 ですが、みんな小規模な組織ばかりなので、できてはつぶれ、また新しくできてはつぶれて、正確な数字は残されていません。
 その製作所の一つに所属していた永松武雄という絵描きさんが、台本作者の鈴木一郎という人と一緒に「黄金バット」をつくりあげた、ということになっております。
 この「黄金バット」が、街頭紙芝居はじまって以来の大ヒットとなります。
 子供だけでなく、大人にもよろこばれて、つぎつぎと続編がつくられます。
 当時は版権などというものはありませんので、いや、あったかもしれませんが、街の片隅で、子供相手に飴を売りながら営業する紙芝居の世界なので、そんなにうるさくはない。
 この街頭紙芝居というものは、一枚一枚が手描きであります。大量に印刷されるわけではない。同じものを印刷したところで、商売になりません。
 ですが、「黄金バット」があまりにも評判になったので、似たような絵の紙芝居が、あちこちでつくられ、それもまた街の子供たちに歓迎されます。
 テレビなどというもののない時代であり、これが一番安くて、身近な娯楽でした。
 八十年たったいまでも、紙芝居というと、年配の方は、
「ああ、黄金バット、おもしろかったなあ」
 と、なつかしそうに言われます。
「黄金バット」が、なぜこんなに、いつまでも人の記憶にのこる人気者になったのでしょうか。
 ごらんになっておわかりのように、「黄金バット」というのは、文字どおり荒唐無稽、もう何がなんだか正体がわからない。
 人間だか、宇宙人だか、あるいは死霊みたいな存在なのか、なにがなんだかわからない。
 骸骨だけの不気味な顔や頭が、おめんをかぶっているようには見えない。
 正義の味方のはずなのに、どうしてこんな不吉な、おそろしい顔をしているのか、それがわからない。
 どこに住んでいて、どこから飛んでくるのかわからない。
 何を食べて生きているのかもわからない。
 アメリカ製のスーパーマンのように、誕生から宇宙を飛んで地球へ現われるまでの、もっともらしい素性の説明など、一切ない。
 地球を守るためにやってきたのだ、などとは一言もいわない。
 とにかく日本人の主人公に危機が迫ると、とつぜん飛んでくる。
 そして「正義の味方だ!」と叫んで高笑いし、悪人たちをやっつける。そして去る。
 こまかいことは、何もわからない。
 一番はじめにこれをつくった作者にもわからなかったと思います。理屈をつけることが面倒だったのではないでしょうか。
 この、なんにもないところが新鮮で、不可解な興味が集中して、人気を得たのではないかと私は思っています。
 グロテスクな容貌の怪人が、正義の味方だったというキャラクターは、皮肉味もあってたしかに意表をついています。
 人間の世の中、理屈はわかっていても、理屈どおりにいかないことのほうが多いですからね。
 なにがなんだかわからないけど、本当は正義の味方かどうかもわからないけど、とにかく一応は正義の味方だと高らかに笑って、どこかから飛んでくる黄金バットが、いまだに庶民の記憶から消え去らないのは、そんなところに理由があるのかもしれません。
 こんなぐあいです。
 これに尾ひれをつけて、おもしろおかしくしゃべります。みなさん熱心に見てくれ、聞いてくれて、楽しかった!
「黄金バット」が終わってひと休みしていると、こんどは地方都市の歴史博物館から、「立ち絵」上演の依頼がきました。
「立ち絵」というのは、明治の一時期から、大正、昭和の初期まで演じられていた大道芸で、紙芝居の前身といわれているものですが、これを実演できる者は、いま私しかいないのです。
 だから断れない。引き受けると、多忙の上に多忙がかさなり、動きがとれなくなる。
 死に時を逸して、病気なんかでぐずぐずだらだら生きていると、みじめなことになる。
 私の居住区で行われる演劇祭の季節も近づいてきた。人間的なつながりがあって、これはちょっと断れない。
 出版社から頼まれている「美濃村晃の業跡」の原稿。これは私の本業であり、大仕事である。計四冊分書かねばならない。
 べつの出版社にも、いそぎの小説を一本書かねばならない。八十枚のミステリ。
 かぞえたら、まだまだいっぱいある。
 そうだ、落花さんといく芝居。これは、他を犠牲にしても、いかねばならない!

つづく

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