2010.6.1
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百二十九回

 白井権八ババア斬り


 毎月一回集まって勉強している話芸の研究会で、「立ち絵」の舞台を横目でにらみながら、「ご存知・鈴ケ森」の口上を、いい気持ちで語り上げていた。
 だんだん気分がのってきて、自分の声を、自分の耳で聞きながら、われながら、なんて艶のある、ノビのきいた、いい調子なんだろうと、うっとりしてくる。
「お若えの、お待ちなせえやし。待てとおとどめなされしは、身共のことでござるよな」
 自己陶酔のなかで、ひときわいい気分になって声を張り上げた瞬間、立ち絵人形劇「鈴ケ森」とはまったく無関係の、私がいま週に一度ずつ行っているべつの会のことが脳裏によぎり、
「よし、きめた。もうてめえらとは縁を切ろう。うす汚ねえババアどもめ。もうてめえらの顔は見ねえぞ。くたばりやがれ、クソババアどもめ!」
 刀をぬいて雲助どもを、バッタバッタと斬り倒す白井権八の魂が、私にのりうつった。
 べつの会というのは、これも声の演技を得意とする人間たちの集まり。
 ほとんどが女性で、婆里亜不利ナントカという名称。まことにもっともらしいヒューマニズムと、正義の旗をふりかざし、下手な話芸を得意げになって披露しているババアども、いや、ババアなどと汚ない言葉を使ってはいけない、ここはぐっとこらえて貴婦人とよぶことにしよう。
 きれいなおべべを着て、ツルツル化粧した白い顔の貴婦人たちが、体に障害をもつ人のために、自分の話芸を役立てようという善意あふれて涙ポロポロの集まりで、なんという粗忽な話だ、そこへ私がガラにもなく、うっかり足をふみ入れてしまったのだ。
 ガラにもなく、と書いたが、私ごとき卑小にして猥雑、貧乏人根性がハラワタにまでしみこんだ愚昧(ぐまい)きわまる人間が、まったくガラにもないところへ首を突っ込んだものだ。
 いまさら後悔してもしようがないが、魔がさしたとしかいいようがない。
「お気の毒な人たちのために、私たちのつたない話芸が、すこしでもお役に立てば……」
 ケッ……何を言やがる。
 つたない芸だなんて言いながら、内心ではけっこう上等な芸だと思いこんでいやがるのだ。
 でなけれ、ひとさまに聞かせて慰めようなどと思いあがった自信をもつはずがない。
「お気の毒な人たち」に同情するふりをするババアども、ではない貴婦人たちの優越感が、私にはどうも我慢ならない。
 なんという不潔なババアどもだ。
 それでも私はこの会との縁があり、義理もすこしあって、貴婦人たちが並ぶ末席に、ひっそりとすわり、彼女たちのボランティア精神に、素直な心で同調しようと、一応の努力はしたつもりだ。
「お気の毒な人たち」のための、貴婦人たちの思いあがった拙劣な話芸を耳にしながら、しだいに我慢できなくなった私が、手もとにあった何かのチラシの裏に走り書きしたメモを、ここに披露したい。
 彼女たちの「善意」を、すこしでも理解しようとしたのだが、ついに耐え切れなくなり、こんなヒステリックな表現になってしまった。
 八十年も生きてきて、なにごとに関してもそろそろあきらめ、おちついてもいい私に、こんなにも感情的なメモを書き散らす若さが残っていたのだ。
 まだまだ、すてたもんじゃない。
 自分の心の若さを確認したいために、私はなぐり書きのメモを、わざわざここに書き写すのだ。

 やっぱりこいつは、人間のイマジネーション能力の否定じゃないのかね。
 こんな説明だけのナレーションは、うるさいだけだ。
 うるさい、うるさい、ただうるさいという感じでしかない。
 こんな語り方では、せっかくのイメージ能力を奪うようなものだ。
 障害者の心に、こんなものがプラスになるとは絶対に思えない。
 無駄である。イライラしてくるばかりだ。
 よけいなナレーションが入ると、ドラマの中に入って行けなくなる。
 やっぱり受け手のイマジネーションを殺している。
 こういう作業を「善」だと思ってやっている人間を、私は信用しない。感覚を疑う。
 邪魔である。とにかく、こんなナレーションは、じゃまである。無意味。
 イマジネーションを信じなくてはいけない。私たちはあくまでもイマジネーションを信じて、大切にしよう。
 ドラマというものは、沈黙の間(ま)というものが、いかに重要かがわかった。
 沈黙は黄金とは、まさにこのことだ。
 画面のなかの声優たちの演技で十分である。ドラマのなかに感情移入しようと思ってもナレーションがそれを遮断する。
 うるさい。とにかくうるさい。声優の声だけで十分である。感動も伝わる。
 ナレーションが間断なくせわしなく入ると、感動が殺される。
 沈黙――間(ま)――イメージすることの楽しさ。ドラマの広がり。
 ドラマの広がりを否定し、邪魔するのが、無駄なナレーションである。
 説明しない空間……暗闇の効果。
 ドラマは効果的な省略があって成立するのだ!
 沈黙の部分が、最も大切なドラマなのだ!
 濡木は、モデルをいじりすぎると言ったマニアがいた。
 モデルの心理は、動かない無言のモデルによって語られるだ、と言ったマニアがいた。わからないところは、わからないままでいいのだ。
 何から何までわからせることはないのだ。
 音楽の高揚と、声優たちのどよめきで、ドラマの内容は十分にわかる。あるいは健常者よりもわかる。健常者にはわからないところまでわかる。
 わからないところがあったほうが、ドラマのイメージは豊饒に広がる。
 身障者のイメージ能力を、この貴婦人たちはバカにしている。
 これはやってはいけないことなのだ。
 空白のイマジネーションを殺すようなことをしてはならない!
 これは健常者の思い上がりだ!
 健常者の傲り、ここに極まれり!

 恥知らずな貴婦人たちが、得意げに、声の演技を競っている最中、私はこんな言葉を、チラシの裏に走り書きしていた。
 このいまわしい集会に、私はあと四回出席しなければならなかった。
 一回に三時間つき合わねばならぬ。
 その三時間が耐えられなかった。
 貴婦人たちと同じ空気を吸うことがいやだった。
 あと四回、十二時間つき合えばいいのだがもう我慢できなかった。
 ここにいると、私は駄目になる、と思った。私が、私でなくなる、と思った。
 私は、志(こころざし)の低い、下品で無学な、世の中のゴミみたいな人間である。
 だが、そんな私でも、私が私でなくなったら困るのだ。私は私のままで、もうすこし生きねばならぬ。
 その集会室を離れてからも、私はユーウツだった。朝から夜まで、ユーウツな気分だった。
 同じ部屋にいないときでも、あの貴婦人たちの恥知らずな傲慢さは、私を圧迫した。
 ボランティア活動とは無関係の、べつの話芸の集まりにきて、いまこうして「立ち絵」の小さな舞台の前に「鈴ケ森」を語っているうちに、私のユーウツな気分は晴れ、高揚した。手足の先端の血管まで熱くなった。
 歌舞伎口調で思いきり声を出すことは、やっぱりいいことだ。
 よし、あの醜悪なババア集団の中から脱走しよう、と決意したのは、襲いかかる雲助の群れを一人のこらず斬り倒した白井権八が、
「雉子(きじ)も啼かずば討たれまいに、益ない殺生(せっしょう)いたしたなあ」
 一段と声を張り上げた、その瞬間だった。
 あの偽善者どもがたむろする部屋には、もう行くまい、行くものか!
 とたんに、私の心のなかの黒雲は吹ッ飛び、視界が明かるくなった。
 ババアたちを斬りすてた気分になった。
「先生、十六年ぶりに、先生の語りで人形を動かし、楽しかったです。興奮しました。本番のときも、ぜひお願いします!」
 私の口上に合わせて人形を操作していたM子が、赤く上気した顔で私を見上げた。
「こちらこそ、お願いします」
 私は彼女に頭を下げた。
 この「立ち絵」の本番の舞台は、いまから二カ月後にある。まだ何回かけいこしなければならないだろう。
「ご存知・鈴ケ森」の、この台本を書いたのも私、二十体以上の人形を作ったのも私、口上役で演じるのも私である。
 芝居が好きな濡木痴夢男は(チョーンと拍子木)こんなこともやっているのですよ。

つづく

濡木痴夢男へのお便りはこちら

TOP | 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 | プロフィル | 作品リスト | 掲示板リンク

copyright2007 (C) Chimuo NUREKI All Right Reserved.
サイト内の画像及び文章等の無断転載を固く禁じます。