2007.09.13
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第十三回

 真実の羞恥


 きのう「永井なつ」という美少女を登場させ、私が縄を持って、川村監督のもとでビデオ撮影し、その撮影の模様を、感動のうすれないうちに書いておこうと思い、気合をこめて書きはじめたのだが、ここまでで400字詰原稿紙34枚、さすがに疲れました。
 ベッドの上に倒れこんで一時間ねむり、また机にむかって書きはじめます。どうしてもきょう中に書いておきたいのです。体力はもう限界に近づいていますが、まだ気力はのこっている。
 しかしながら川村監督、私はいまほど、自分の文書力、描写力、観察力、記憶力、表現力の貧しさを痛感したことはありません。
 きのうのドキュメント映像の、撮影現場における状況のいっさいを、私はもっとうまく、正確に、描写し、記録できるはずでした。その自信はありました。文筆業50年の実績が私にあります。
 結果は、ごらんのとおり、無残なものです。素材の存在感、生身の迫力に負けました。きのうのあの、ドキュメント映像の「永井なつ」という素材、存在感に負けました。あの感動的な美少女の快楽の、素直な反応の実態を、十分の一も描写できなかったような気がします。
 いつもは自信たっぷりの私が、弱音を吐いています。私のこの文章の十倍、いや二十倍も三十倍も、私の縄に対する美少女の快楽の反応は繊細で、鮮烈でした。よくあるモデルや女優たちのような、いかにもAV的な、それらしい「快楽表現」(マニアにとっては、あんな不愉快なものはない)を、ひとかけらもみせませんでした。
 (いってみれば彼女はまだシロウトなのですから当然なのですけれど)
 はじめから終わりまで彼女は真実の快楽の声を肉体から発し、魂でうめき、もだえてくれました。それなのに私は、それをいま文章で伝えることができない。もどかしくてたまらない。
 ペンを置いて、すこし休みました。しかし、ここまで書いてきた以上、ここでやめるわけにいかない。ラストシーン(になるはず)の「美少女浣腸」の模様を書かなければ、この項は終わらない。

 川村監督。
 じつは私、きのうのあのドキュメントは、あれだけでもうたくさん、あれ以上撮る必要はないのではないか、と思っていたのです。あとは「蛇足」になります。
 最後に「浣腸」をやることになったとき、正直、私はもう、うんざりしていました。これ以上、何かやることは、彼女の「正直」な心をもてあそぶことになり、なんだか痛々しく思えてきました。
 (痛々しいだろうがなんだろうが、それをやるのがサディストではないか、といわれればそれまでで、私はやっぱり、本物のサディズムの精神を持たない、ただサディストの演技をしているだけの人間なのかもしれません)
 「えッ、さんざん縛って責めて宙吊りした上に、まだ浣腸なんてやるの!」
 と私は思わずつぶやきました。わがままな私は、思ったことをすぐに口に出します。
 すると監督がそれをききつけて、
 「はい、おねがいします。彼女にとっては、はじめての浣腸です。きっと、まったく新しい、羞恥の反応をみせてくれると思います」
 と、人のいい、誠実な川村監督は、すみません、という表情を私にみせて、ペコリと頭を下げました。
 私はやる決心をしました。やらなければ、一日は終わらない。このスタジオから出ることができない。外はもう夜になっているはずです。
 台風が近づいて、ときおり激しい吹き降りをみせていた雨も、いまはやんでいるようでした。密閉されているスタジオの中ですが、雨が大量に強く降るときには、その気配が感じられます。早く終わらせて、台風がこないうちに帰ろう。

 その準備ができました。私は彼女を軽い前手縛りにしました。使い古して柔らかくなりきっている縄で、彼女の手首だけを、前で軽く縛り、うつぶせにさせると、お尻を高く上げさせました。
 もう「緊縛」を見せる必要はないと思ったのです。本当の浣腸マニアにとっては「縄」の存在なんか、むしろ邪魔なのです。
 「浣腸」に限らず「SM」と称しているさまざまなプレイの中には、縛らないほうがいいものがたくさんあります。縛ることによって「狙いどころ」が逆に散漫になります。テーマがぼやけます。しかし、SMを知らないSM映像制作者たちは、やたらにモデルや女優を縛ることを命じます。縛って女性の手足の動きを封じることによって、その特殊な性向の効果が半減することを、不勉強な彼らは知らないのです。
 (あ、またよけいな憎まれ口を書いてしまった。書くだけならいいけど、私は撮影現場でみるにみかねて、つい口に出してしまうので煙たがられるのです)
 結果を先に書いてしまいます。
 この「浣腸」シーンは、彼女の真にせまった羞恥の表情のおかげで、大成功でした。いや、真にせまったのではなく「真」そのものだったのです。過去50年間、私はこういう撮影の現場で、数多くのモデル、女優たちの羞恥の表情を見てきましたが、いまのところ、この「永井なつ」の表情が、文字どおり「最高」だったといえます。
 (ああ、こういうところで、最も俗でセンスのない「最高」とだけしか表現できない私の文章力の貧しさよ!)
 とにかく彼女は、いじらしかった。痛々しかった、可愛らしかった。
 羞恥にまみれてわななく彼女にむかい、私は排泄された自分の色のついたかたまりを見ろ、と命じました。
 (このときの私の心理は、やはりサディストのものだったのでしょうか。いや、ちがうのです。私は川村監督が期待している、彼女の羞恥にゆがんだ痛々しい表情を、最も効果的に出させるために、彼女に「自分の排泄物をみつめろ」という「酷」な演技を命じたのです。つまり、ドキュメント映像の「質」をあげるためです)
 彼女は犬のような全裸の四つん這いのポーズでふりかえり、私の命じたとおり、いまにも泣きそうな顔で、自分の肛門から出たばかりのそれをみつめました。
 そして、さらに痛々しい、いじらしい、羞恥にまみれた表情になりました。それを見たとき、私は、
 (このドキュメントに「浣腸」は必要だった!)
 と思いました。感動がありました。川村監督、ありがとうございました。

 撮影が終わり、彼女がシャワー室へ入り、体を洗っているとき、私はヘアメイクの女の子に私の縄を一本渡し、
 「彼女にこれをやってくれ」
 と、たのみました。「縄自慰」のとき、あとでやると約束した縄です。
 そして、私はもう、彼女に会わずに、あいさつもせずにスタジオを出ました。雨は降っていませんでしたが、湿気の多い、べとつくような風が吹いていました。

 この日の撮影の報告は、これでおしまいにします。疲れました。なんだかひどく疲れました。撮影の現場で、女の子を縛ったり吊ったりしているときよりも、こうやって書いているほうが疲れます。現場は適当に体を動かしているので、かえって疲れない。いい運動になる。
 「永井なつ」の撮影のことだけで、50枚近く書いてしまった。机の前に座ったきりなので疲れる。一気に50枚近く書いたので、腕や手首が疲れたが、心も疲れた。「おしゃべり芝居」はすこし休もう。
 あしたから、べつの芝居のけいこを始めよう。それは「夕方の散歩」というタイトルの芝居なのだ。
 98歳の老人のところへ、夕方になると黄金バットが迎えにきて、手をつないで、一緒に空を飛んで散歩するという話である。
 ファンタジックではあるが、SMの気配はどこにもない芝居である。私が台本を書き、私が演じる短い芝居である。あしたから、そのけいこを始めよう。じつは、本番の日が近づいているのだ。
 この劇団の者は、私が一昨日、19歳の少女を裸にして、ガラス製の太い浣腸器を肛門から突き入れ、1リットルもの大量の浣腸液を注入した、などということを知らない。
 98歳のボケ老人に扮して、黄金バットと一緒に空を飛ぶ芝居をやる男と、美少女を全裸にして尻の穴に指を突っこんで排泄をうながす男が同一人物だとは、この劇団の者はだれも信じない。
 だから人生は楽しい。芝居はおもしろい。
 このボケ老人の芝居が終わると、すぐにまた、妻だけを愛しつづけて一生を過ごした純愛一途の老人の役を、私がやる。これも私が書いた芝居である。つまり、自作自演である。
 私は、いつでも、どこでも、芝居ばかりやっている。

つづく

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