池のほとりの楽園で
落花さんと「池のほとりの楽園」という意味をこめた名前のラブホでの遊戯のことを書いているうちに、途中から、いつもやっている「撮影」の仕事のほうの話に移ってしまった。 落花さんとのこの日のことは、三分の二までは書いて、みなさんにお見せしたが、あと三分の一が残っている。 それを書かなければいけない。 このところ数回、「撮影」の現場でのことを書きながら、私はときどき、 (落花さんとのあの日のことは、まだ途中までしか書いてないな。早く書かなければいけないな。早く書きたいな) と思い、気になっていた。 私はいつも落花さんを縛るときは、いきなり、服の上から縄をかける。 外からラブホの一室に入って、 「さあ、縛るから裸になりなさい」 なんていっても、彼女は恥ずかしがって、ぜったいに自分から服をぬごうとしない。 私にしても、服の上から縛ったほうが、情感がある。いきなり裸になられたら、どんなにシラケることだろう。快楽味の深い甘美な「緊縛ごっこ」とは、そんなものではない。 彼女は私と一緒に外を歩いていたときと同じ服装である。そういう日常的な世界の、さりげない服装が、私が縄(縄というより私は落花さんを縛るときには、木綿製の特殊な紐を使うことにしているのだが)で後ろ手に縛りあげると同時に、たちまち全く非日常的な、次元のちがうフェチ快楽の衣装と化して、燦然と、妖しい魅惑の光を放ちはじめるのだ。私は彼女の両腕を背中にねじあげる。 細い左右の手首を交差させ、片手でひとつかみにする。 自分から服をぬぐことをしない落花さんだが、後ろ手に縛るときには、さほど抵抗はない。両手首を素直に背後にまわし、重ねる。 「緊縛ごっこ」をできるだけリアルに、快楽的に、多彩に行う手順からいっても、まず、服の上から縛ることが刺激的である。 女のほうからいきなり裸になられたら、情緒も何もあったものではない。 後ろ手に縛りあげ、無抵抗にした女のスカートの裾を、そろそろとまくりあげるところに、「緊縛ごっこ」の大きな快楽があるのだ。だが、落花さんの場合は、そんな効果を考えて、服をぬがないのではなく、単純に、恥ずかしいからである。 よけいな計算をせずに、単純に恥ずかしがってくれることが、緊縛マニアの男にとっては最高のよろこびであり、美味なのである。 恥ずかしがらないで縛られる女なんて、緊縛遊戯にとって、じつは最低なのである。 またまたよけいなことを書いてしまった。要するに、ラブホに入って、服の上から彼女を縛りあげ、キスするところから私の遊戯は始まる、ということを書きたかっただけだ。いきなり裸にするよりも、服を着ていたほうが刺激的だ、ということをいいたかっただけである。 髪の毛をわしづかみにして、多少強引に顔をあおむかせ、唇を吸い、舌を吸い、えりもとから手をねじこんで乳房をつかみ、揉み、指先で乳首をはさんでこねくりまわし、その乳首を吸い、ときには歯で軽く噛み、噛んだまま引っぱり、それからショーツの内側に手を這わせ、股間をさぐり、指で圧迫し、すこしだけ指を入れ、動かし、それからまた唇を吸い、舌を吸い、私の舌を彼女の口の中へ深くさしこみ、舌と舌とをからませ、また乳首を吸い、噛み、噛みながら下腹に手をのばして指を動かす。 ショーツを膝のあたりまでずりさげると、ヒッという低い悲鳴をあげて、太腿を固くよじり合わせる。指一本通すことができないほど固く閉じ合わせる。が、それ以上の抵抗はしない。よじり合わせた左右の太腿の形がたまらなくいい。うっとりするほどセクシーなのだ。 股間に顔を押しつける。目も鼻も口も彼女の柔らかい太腿の肉でふさがれ、息ができない。その息苦しさが気持ちいい。 舌をのばしてなめまわし、吸う。私もまた下半身につけているものをぬぎすてる。 あおむけにした彼女の体の上におおいかぶさり、両手で左右の太腿を抱きしめる。彼女の股間にふたたび顔を押しつけ、ぺろぺろなめまわす。そして彼女の顔面に、私の股間をのせる。私の勃起したものが、彼女の口の上にあたる。 彼女は口をあけて、それをふくんでくれる。私も彼女の股間の奥深いところまで舌をのばす。私の鼻と口は、私自身の唾液と、彼女の体内からにじみ出る粘液にまみれる。 こういう行為を、何度も、何度もくり返すのだ。私は、飽きるということがないのだ。 彼女はつねに短い悲鳴をあげつづけ、全身をこまかくけいれんさせ、あきらかに「感じて」いるのだが、最終的な、あの激しい高い声は発しない。 そして私も、いつまでたっても射精しない。射精しないうちは、欲望は絶えることなくつづく。どんなに欲情しても、しかし、老人にはもう若者のように猛々しく発射するような動物的な力はない。 だから体力のつづく限り老人の欲望は衰えることなく執拗に、休むことなく持続し、快楽が果てるということはない。 この老人の粘液質の持続力が、あるいは落花さんの性感覚に、偶然、ぴったり一致しているのではないか、と私は自分勝手な、いいほうに解釈してしまう。 あるいは、落花さんは、私のこの執拗な唇と舌と手指の「攻撃」の最中、ずうっと後ろ手高手小手に縛られているので、その被縛の快感と、老人のこの「ゆるやかな責めの愛撫」が、微妙にマッチして、あるいは交錯して、彼女にとって、ちょうどいい具合の快楽になっているのではないだろうか、という希望的観測も、私にある。 「ゆるやかな責めの愛撫」というのは、若者のように女の股間ばかりを夢中になってガンガン責めたり、射精したりしないことである。「ゆるやかな責め」というのは、女体のすみからすみまで、足の指の間に至るまで、全身に及ぶのである。 それにしても、若い肉体をもつ彼女は、快楽の頂上をむかえ、ときには声をあげて果てる姿を、私にみせてくれてもいいはずではないか。 私が愛撫する強弱の力と呼吸に反応して、彼女も全身をこまかくけいれんさせているのだから、感じていないはずはないのだ。 私にはわかっている。だが、わからないふりをしている。 声を出すことが、彼女は恥ずかしいのだ。自分自身の性的なことに関しては、異常といっていいくらいに羞恥心が強い性格である。自尊心も強い。 それゆえに、どんなに気持ちがよくても、あからさまに声を出すことができないのだ、と断定してしまえば、すべては解決する。私は納得する。だが、私はこのことに関しては、解決したくない。納得したくない。 解決して、納得してしまったら、すべては終わりではないか。納得しないかぎり、マンネリズムはない。相手のことが何もかもわかってしまったら、刺激もエロチシズムも消滅する。 ああ、また延々とベッドシーンを書いてしまった。読者はさぞ退屈だったにちがいない。私のほうは、書きながら、数日前の彼女との快楽を反芻し、脳裏に再現させている。だから退屈しない。彼女との快楽が、ふたたびよみがえってくる。文章を書きながら勃起してくる。 高手小手に縛りあげた彼女の姿が、あまりにも美しくエロティックで刺激的なので、いつまでも脳裏から消えずに、記憶に残っているのだ。 記憶の中に灼きついているのは、彼女の肉体の性的な部分の感触ではなく、縛られて背中を前に曲げ、ベッドの上に横たわっている全体のポーズなのだ。 背後に高々と左右の手首を固定され、羞恥にまみれてにぶく光る女体のエロティシズムは私の心を恍惚とさせる。 彼女の体に手を触れずに、そのまま長いあいだ眺めていたことがある。眺めているだけで、飽きるということがない。 このとき、彼女もまた陶酔のさなかにいるにちがいないのだ。私が、 「こんなに手首を高く背中に縛りつけられていて、それでも気持ちいいの?」 と、きいても、彼女は「ハイ」とも「ウン」ともこたえたことがない。沈黙したまま目をとじている。くり返して私はきくのだが、一度もこたえたことがない。 返事がないのは、あまりにも気持ちよすぎて、声が出ないのだ、と私は勝手に解釈する。返事がなくても、私に背をむけて、縮んで寝ている彼女の肉体が、私の「縛り」による快感と陶酔を表現している(と、私は信じている)。 私が軽く手をさしのべることによって、彼女は敏感に反応し、全体のポーズを多彩に変化させる。 私はそろそろと彼女の乳房や腹部や太腿や股間に接触し、性的な「攻撃」を加える。それは、着衣をエロティックに乱し、後ろ手高手小手にきびしく縛りあげられた彼女をベッドの上にくねらせ、さまざまに変化する姿体を見たいからなのだ。 私が彼女の性器に触れるのは、むごたらしく縛られて目の前に横たわる彼女の魅力を、もっともっと悩ましく、妖しく、セクシーな肉体に変化させたいからなのだ。 ここのところの私たちの欲望は、同じ性向のマニアには容易にわかってもらえるが、その他の「ふつう」の人間には、どうしても理解できないらしい。いくら説明しても、わかってもらえない。 感覚的にわかってもらえないのは仕方がないにしても、観念的、理論的にもうなずいてもらえない。 悲しいのは、「SM雑誌」の編集者たちとか、「SM映像」の制作者たちにも、わかってもらえないことである。彼らは、マニアの本当に気持ち、真実の欲望を知らないままに、「SM」を標榜する商品を作りつづけている。緊縛マニアが女体を縛るのは、自由を拘束して性器を犯したいためだと、彼らは単純に信じこんでいる。マニアとは、そんな単純明快なものではない。 マニアには、マニアの感覚世界が、厳然として存在することを、どうして彼らは知ろうとしないのだろうか。 私たちは、しょせん「少数派」ということか。 あ、いつのまにか、話がまた、横道にそれた。 この日、私は埼京線の沿線にあるビルの8階の落花さんのオフィスへいき、それから、このところよく利用しているラブホテルへ入った。 板津先生の御本の「古流捕縄術」の中にある「百姓縄」のかけ方を、落花さんをモデルにして「実験」しようと思っていたのだ。そのために、わざわざ太めの麻縄を数本用意していた。 ところが、落花さんのオフィスで、彼女と一緒に、あまり楽しくないDVDをみて、なんだか妙に意欲を失い、「古流捕縄術」のほうは、やめてしまった。 落花さんをベッドの上にすわらせ、両手を背中にねじあげて、いつもの緊縛遊戯に入った。その遊戯の三分の二まではすでに書いて発表したので、あとの三分の一を書こうと思っていたのだ。 (この日は五時間、ラブホの一室にいた) 彼女を全裸にしてから、改めて後ろ手高手小手に縛りあげ、そのときの私の気持ちと、彼女の反応を記録しておこうと思っていたのだ。 だが、その三分の一の全裸シーンに入る前に、なにやら調子にのって、たくさん書いてしまった。 時間がなくなってしまった。 これから私はまた、芝居のけいこに出掛けなければならない。 「緊縛ごっこ」も楽しいが、「芝居ごっこ」もまた楽しいのだ。 いや、芝居は「芝居」と表現したところで、すでに芝居なのだから「芝居ごっこ」というのは、おかしいかもしれない。「ごっこ」というのは、即「芝居」のことなのだから。 私がいまけいこしているのは、自作自演の一人芝居である。 これが楽しいのだ。お金をもらえない仕事は、みんな楽しい。 自分一人が出演する芝居だから、気が合う。なんでも自由にできる。 だれも言ってくれないから、私が言おう。私は芝居が結構うまいのだ。一人で芝居をやっていると、自分の演技に陶酔し、恍惚となってくるのだ。 「緊縛」は変態といわれるけど、芝居を夢中でやっていても、変態とは言われない。 なぜだろう。 「芝居」よりも、やっぱり「緊縛」のほうが少数派だから、だろうな。快楽度からいったら、私の場合、そんなに変わりはないのだけれど。 (つづく)
(つづく)