濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百三十六回
立ち絵の籠釣瓶(かごつるべ)
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あっち亭の師匠へ(おわびとおねがい)。
このたびは「喧嘩屋五郎兵衛」などという巷間にはあまり流布されていない人物について、いつものように勝手気まま、ずうずうしく調子にのった私が、お忙しい師匠にまで質問をしてしまい、ごめいわくをおかけいたしました。
いずれお目にかかり、改めておわび申し上げます。
ところが、私のその妙な記憶力に、きのう、また、ぶつかりました。
きのう私は、東京近県の某公立博物館の、奥深い地下の収納庫の一室(まるで核戦争時代の避難所のような立派な部屋でした)で、丸一日すごしておりました。
それは、べつの公立の歴史博物館の学芸員の方に依頼され、明治期につくられた「立ち絵」の資料を調査する「仕事」でした。
その学芸員のK氏と、博物館のカメラマンの方が一緒でした。
他に「立ち絵」の人形を動かす、M子さんという女性が同行しました。
このM子さんは、人形を操作するだけでなく「立ち絵」という、いまは滅亡してしまった特殊な大道芸全体についての造詣が深く、有能な人です。
私がときたま「立ち絵」を公演するときに助手をつとめてくれます。
私たち五人は、奥深い地下の収納庫にとじこもって、午前十時半から、午後五時半まで、明治から大正にかけて活躍した一千数百体の「立ち絵」と対面いたしました。
「立ち絵」には、すべて物語があります。
その物語の中に登場して動き回らないと、「立ち絵」はただの紙と竹串で作られた平板な人形でしかないのです。
その物語の題名、紙人形たちが演じる役名、ストーリーなどを記したものは、なぜか一切のこされていないのです。
人形そのものと、その人形が動き回った舞台だけしかのこされていないのです。
私の役目は、人形たちだけを見て判断し、その物語や、狂言名などを解くことでした。
厳重な防湿材で作られた大きな箱の中に、古い布袋に詰められた「立ち絵」がおさめられていました。
「立ち絵」の紙人形は、竹の串(おでんとか焼きとりなどに使われる、ごく一般的な串です)に貼りつけられています。
高さは、せいぜい十五、六センチほどの大きさです。
表と裏の両面に、絵柄をすこし変えて、人物が描かれています。
たとえば、表の絵は武士が刀のつかに手をかけているところ。
それをひっくり返して裏にすると、武士はその刀をぬいてふりかぶっているところ、というふうに。
色の正体もわからないほど古びた布袋(あきらかに明治時代の、しかも手製のものです)に、墨に筆の文字で「佐の」と書かれたひとかたまりが出てきました。
この「佐の」の布袋は、十数個あり、一つ一つに番号が記されています。
それは、この「佐の」という芝居が、十数幕、あるいは十数景で構成されているということです。
それを見た瞬間、
「あ、これは!」
と私は声をあげました。
あっち亭の師匠よくご存知の、軽佻浮薄(けいちょうふはく)を絵に描いたような私は、
「もしかしたらこれは……(ちょっともったいぶって)……これは、佐野次郎左衛門、つまり、籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)の芝居の人形じゃないかなあ」
と、言ったものです。
そして、「佐の」の人形がおさめられている十数個の布袋の中から「大詰の場」あたりを、見当つけて開いてもらいました。
案の定、刀をふりかぶった佐野次郎左衛門が、遊郭の屋根の上で、見得を切っている人形、それを取り囲んでいる捕方役人が出てきました。「吉原百人斬り」の大詰です。
次郎左衛門の人形は、顔に痣があるのですぐにわかります。八ツ橋花魁の人形もありました。
「やっぱりそうだ。この『佐の』というのは佐野次郎左衛門のことで、この袋に入っているのは、みんな『籠釣瓶』に出てくる人形ですよ!」
私は鼻をちょっと高くして言いました。
ところが「佐の」の布袋の中には、私の知らない登場人物も、結構たくさん入っているのです。
まず、旅姿の武士。そして、みるからに醜い姿をした女乞食。
その哀れな女乞食を、斬り殺す旅の武士。
なにやら怪しげな旅の僧。
それから、おどろおどろしい女の幽霊なんかも数ポーズあります。
そういう人物の出てくる歌舞伎「籠釣瓶」を、私は過去に一度も見ていないのです。
講談、浪曲でも、きいたことも見たこともないのに、なぜ私は、
「あ、やっぱりそうだ、これは『籠釣瓶』の話ですよ」
と、言ったのでしょうか。
女乞食や、旅の武士や、旅の僧や、女の幽霊が登場するシーンなど、見ても聞いてもいないのに、なぜこれが「佐野次郎左衛門」の物語だとわかってしまったのでしょうか。
「喧嘩屋五郎兵衛」という大阪を舞台とする侠客の物語を、私は知らないくせに、先回りして、
「これはおもしろい芝居だよ」
と言ったりする軽薄な癖が、またここでも出たのでした。
「佐の」と墨で書かれた文字、そして旅の武士が女乞食を斬り殺している小さな人形だけを見て、どうしてこれが「籠釣瓶」だとわかったのでしょう。
私の頭の中はどうなっているのでしょう。
その夜(つまり、きのうの夜です)自宅へもどり、ひと休みしてから、私はすぐに調べてみました。
なにごとも勉強です。
尊敬する吉沢英明先生の御著書「講談作品事典」。
日本のかなり古い時代から明治末期にかけて、生きて暴れた庶民たちの、善悪入り乱れ、悲喜こもごもの人間模様、老若男女の底知れぬ色欲、物欲、なまなましい生きざまの記録、波乱万丈の物語が、上、中、下の分厚い三冊のなかに、ぎっしりと詰め込まれているありがたい御本です。
中巻を手に取り、「サ」のページをひろげました。
あった。
ありました。
「佐野次郎左衛門」
野州・佐野の在、長谷部村の大尽(だいじん)大久保次郎左衛門は、掛け取りに赴く途中、吹上の先、熊谷土堤で、落破者(ならずもの)に襲われた。
これを助けたのは後から追ってきた都築武助で、元は大和郡山の本多忠安に仕えた浪人。武助は、殿の寵愛する八重垣主水との試合に勝ち、藩を追われ、江戸を立ち、江州志賀に向う途中だった。
武助は勧められるまま、佐野で食客となり、次郎左衛門に剣術と柔術を教えるうちに病没する。
このとき、祖父より伝えられた村正の一刀(福島正則から授かった、金の象眼で、銘が籠釣瓶)を差し出し、妖刀につき、遺骨と共に寺に納めよ、と遺言。
そして、祐定の一刀を次郎左衛門に与えた。が、寺に納めず、道中差に改めて愛用。これが次郎左衛門自滅の原因となった。
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(濡木注・つまり佐野次郎左衛門は、都築武助という浪人が死ぬ間際に遺品とした、妖刀村正(籠釣瓶)をゆずり受けた。この妖刀を身辺に置いたことが、数年後に次郎左衛門の「吉原百人斬」という大惨事につながっていくのである。浪人する前の都築武助にも、一席の講談としての物語がある。まるでアラビアンナイトのように、話は一本の幹から枝へ、葉へと発展していき、その一つ一つが生き生きとしておもしろいのだが、ここでは省略するより仕方がない)
さて、話は昔にさかのぼって、正徳年間、野州・佐野、長谷部村の人徳医・小松原賛斎に二子があって、兄を次郎吉、弟を勇石という。
兄は放蕩無頼の徒で、江戸に出て次郎兵衛と改名。伊予西条藩のお留守居役・渋江右近の妾、おこん(江戸節おこん)と通じた。
のちに桐生の博奕打(ばくちうち)喜惣次の女房、おなると怪しい仲となる。
喜惣次の死後、おなると夫婦になる。子供ができたので、己の前名、次郎吉と名付けた。七歳になった次郎吉に説得されて次郎兵衛は以後改心。小間物(こまもの)渡世で次第に分限者となる。医業を継いでいる弟・勇石も安心である。
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(濡木注・吉沢先生の記述はまことに自由闊達、いきなり講談口調の文章になったりする。大胆に省略された箇所もある。そのへんは理解しやすいように、私が多少整理させていただきました。ご許容ください)
ある年、次郎兵衛が江戸から戻る時、
――今日のうちに、蕨(わらび)まででも出て行こうと思い、直ぐ支度を致しまして、石町四丁目・佐野又(注・次郎兵衛の定宿・佐野屋又右衛門方)を立ち出で、筋違より神田明神の社を右手に見て、湯島から本郷台へ上って、加賀様の前(まい)から森川町へ出て、高崎屋を左に曲って右へ折れ、巣鴨から板橋へ達し(略)段段と進んで、戸田の河原へ差掛って来た――。
突然現われたのは、梅毒病の女乞食、昔捨てたおこんの、なれの果てだった。
困った次郎兵衛は、おこんを戸田川へ蹴落とし、水除けの杭で撲殺した。
翌年、江戸から帰る時、再び戸田の河原。
昨年の同月同日(十月一一日)、殺された女乞食を、船頭が地蔵様の傍ら、柳の根元に埋めたが、以後、幽霊が出るとか、火の玉が転(ころ)がるとかの噂。
その夜、次郎兵衛は蕨宿・京屋吉兵衛方に泊まり、ウーン、ウーン、おこん許してくれ……。
次郎兵衛は回復せず、勇石や次郎吉に前非(ぜんぴ)を悔いて、井戸に身を投じた。
前非とは、おこんやおなるを殺したことである。
その四九日後、次郎吉は次郎左衛門と改めて、親の家を相続。
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(ここからまた、濡木の「注」になります)
ここまできて、ようやく「立ち絵」の「佐の」の第一場の登場人物が解明できそうです。
つまり、竹串人形の旅の武士は、都築武助か、あるいは、佐野次郎兵衛だったのです。
そして、惨殺される哀れな女乞食は、おこんという名の梅毒持ちで、もとは伊予西条藩の武士の妾をしていた女だったのです。
次郎兵衛はそのおこんと密通したあとで、無慈悲にも捨ててしまう。
数年後、梅毒病みの女乞食となったおこんは、旅の途中の次郎兵衛を見てとりすがるが、次郎兵衛は邪魔だとばかりに殺してしまう。
おこんは幽霊となって、次郎兵衛の前に出現する。
次郎兵衛は、おこんばかりではなく、おなるという女も殺してしまったらしい。
なんとも陰惨にして、凄絶な物語であります。
明治期、あるいはそれ以前の時代においては、このあたりもこまかく描写されて、講談の高座にかけられていたのでしょう。
そして、私がよく知っている歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」の登場人物たちは、まだこの講談の中に姿を見せてないのです。
(つづく)
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