2010.6.22
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百三十七回

 梅毒病みの女乞食おこん


 講談の「佐野次郎左衛門」をもとにして、歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)はつくられ、おもしろく出来上がっている。
 俳優たちのそれぞれのくふうによって人気狂言となり、名作の一つに数えられている。
 私は十五、六歳のとき、宴会の席上で、初代中村吉右衛門の声色を使って、この「籠釣瓶」の兵庫屋・縁切り場をよくやった。
 悲嘆にくれる次郎左衛門の、有名なセリフである。
「……おいらん、そりゃア、ちと、そでなかろうぜ……。夜毎に変わる枕の数、浮川竹(うきかわたけ)の勤めの身では、きのうにまさる、きょうの花と、心変わりがしたかは知らねど、もう表向き今夜にも、身請けの事を取りきめようと、ゆうべも宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓(さと)の露、濡れてみたさに来てみれば、案に相違の愛想づかし。そりゃもう、田舎者の次郎左衛門ゆえ、恨みとは思わねど、断わられても仕方がないが、なぜ初手(しょて)から言うてくれぬ。江戸へくるたび吉原で、佐野の誰かと噂もされ、二階へくれば朋輩の、おいらんたちや禿(かむろ)にまで、呼ばれる程になってから、指をくわえて引っ込まりょうか。ここの道理を考えて、察してくれたがよいではないか……」
 ああ、ここにわざわざ書き写すほどのことはないセリフを、とうとう書いてしまった。
 このへんが私の芝居マニア、歌舞伎マニアたるゆえんであろう。やはり軽薄である。
 どうして十五、六歳のときに、そういう宴会の席に出るチャンスがあったのか、というと、昭和十九年、そして二十年の前半、つまり太平洋戦争末期、私の周囲からもつぎつぎに戦場にひっぱり出される人がいて、そのための送別会がひんぱんにあったのだ。
 死を覚悟の送別会に、
「花魁、そりゃア、ちと袖なかろうぜ」
 もないと思うが、私の「芸」はそれだけだった。あとは都々逸を三つ四つ。
 先代・吉右衛門の声色で、喉をふり絞ってやると、拍手喝采してくれ、子供の私は得意だった。
 六十年前には、歌舞伎の声色や都々逸なんかを、宴会芸としてだれでもよくやっていたのだ。都々逸には、どぎついエロもある。
 そんなことはともかく、「講談作品事典」に掲載されている「佐野次郎左衛門」は、前述のようにアラビアンナイトさながらに、物語が多岐多様に展開、枝葉の如く分かれていくので、おさまりがつかない。
 読むとまことにおもしろいのだが、長くなるので、とてもここに紹介することはできない。
 戸田の河原で次郎兵衛に殺される梅毒病みの哀れな江戸節おこんの一生などは、じつにおもしろく波乱万丈で、妙になまなましい味わいがあって、これだけでも一編の小説といえる。
 また、妖刀籠釣瓶を持って最初に登場する都築武助という侍、この人物にもとんでもない過去があり、それを講談とした一編の物語もある。
 講談をもとにしてつくられた歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」の脚本が、東京創元社の「名作歌舞伎全集」第十七巻「江戸世話狂言集・三」に収録されているが、これによると、序幕はいきなり「仲之町(なかのちょう)見初(みそめ)の場」となっている。
 そして大切(おおぎり)が、
「仲之町立花屋の場」
「江戸町兵庫屋の場」
「同・大門口(おおもんぐち)捕物の場」
 となる。大切とは、ラストシーンのことである。
 が、作者である三世・河竹新七の脚本では、女乞食お清(せい)が、次郎兵衛のために戸田の川原で惨殺される場面がある、と戸板康二氏が、この「名作歌舞伎全集」の解説の中で書いておられる。
 講談ではおこんだが、歌舞伎ではお清となる。
 戸板康二氏の解説文は、簡にして要を得ており、複雑な筋立てがよくわかる。明快である。
 講談によるストーリーと比較するために、書き写してみる。

 次郎左衛門の父親佐野次郎兵衛は、遊女を妻にしたが、病気になったため捨ててしまう。そのお清という女は乞食に身を落としている。
 偶然、蕨(わらび)の宿で、お清は次郎兵衛に出あい、戸田川原までつれ出されて惨殺されるというのが発端である。
 次郎兵衛には、勘兵衛、次郎左衛門という二人の子があり、兄は農業、弟は絹商人である。次郎兵衛はお清の祟りで、同じ病毒におかされ、悶死した。(中略)
 さてこの刀、題名にもなっている「籠釣瓶」と呼ばれる村正(むらまさ)が、どうして次郎左衛門の手に入ったかという理由を書こう。
 本田という藩中の槍試合で、八重垣紋太夫に勝ち、面目を施した都築武助が、紋太夫に馬場先で襲われ、その刀で相手を斬る。
 そのあと婚約していた家老の娘千代とも別れ、流浪の旅に出て、野州千貫松原で、次郎左衛門がならず者に囲まれて脅迫されているのを救い、その縁で次郎左衛門の家に泊っているうちに病気になる。
 そして、千貫松原での遺恨を晴らしに来た悪人どものために殺されてしまうのだが、その直前、世話になった礼として、次郎左衛門に籠釣瓶を贈ったのである。
 その原作四幕目の「佐野宅・筐(かたみ)送の場」で、武助は、
「この刀は父武兵衛が、末期の際に譲り受けたる筐の一腰(ひとこし)、都築の家は本田家の譜代の家来というにあらず、以前は江州佐和山にて滅亡なせし石田の家臣、されば御当家禁制の、村正を所持なし居れど、幸いにして無銘にて、水も溜らず斬れるという、いわれを以て籠釣瓶と名づけたる家重代、昨年よりの御介抱のお礼の印に次郎左衛門殿へ譲り申せば、筐と思い守りとして、一生抜かずに秘蔵なせば、その身に祟りはいささか御座らぬ、さりながら事に臨んで抜く時は、必ずその身に過ちあって、血を見ぬうちは納らぬ、業物(わざもの)なりと心得て、粗相なき様いたされよ」
 といっている。
 江戸へ商用で出た時、吉原で八つ橋を見そめ、通いつめた揚句に愛想づかしをされた次郎左衛門は、八つ橋を殺す決心をして国へ帰り、武士として西国方(さいごくかた)へ仕官することになったといつわり、財産を兄にゆずり、荷持の治六を姪のおしずの聟にしてゆく。
 この時、高崎で研がせた刀を持って出立するわけだが、たまたま、戸田川原で次郎兵衛がお清を殺した時にも居合わせた空月という僧が、次郎左衛門の様子を見て、遠からず身を亡すだろうと予言する所がある。
 つまり、この作は、父親の悪の報いで、不幸な事件が起るという話になっており、そこへ不吉な刀がからむわけである。次郎左衛門が、あばたの醜い男になったのも、因果ということにしてあるわけだ。(以下略)

 歌舞伎座(いまは改築中だが)や新橋演舞場、あるいは国立劇場などで、しばしば上演される「籠釣瓶」は、「仲之町見初の場」から始まるので、それ以前のことは、まったく不明である。
 しかし、この戸板康二氏の解説を読むと、この芝居は「籠釣瓶」という妖刀による、おそろしい因縁話だということがよくわかる。
 私は数十年前に、戸板氏の解説文を読み、そのとき、なんというグロテスクでおもしろい因縁物語だろうと思った。
 その記憶が、県立博物館の地下の巨大資料庫の一室の中での「立ち絵」に触れたときによみがえったというわけである。
 つまり、哀れな女乞食の人形はおこん(歌舞伎ではお清)であり、旅の武士は都築武助(あるいは次郎兵衛)であり、そして旅の僧は、おこん殺しを目撃している空月(くうげつ)ということになる。
 血だらけの女の幽霊は、むろん、おこん(あるいはお清)の怨念の姿である。
 場所が戸田の川原とくれば、すべては合致する。
 つまり。
 つまりですね、あっち亭こっち師匠。
 師匠にごめいわくをかけた、大阪の侠客「喧嘩屋五郎兵衛」の正体。
 あれも、こういうふうにして、私の遠い遠い記憶の底にこびりついていたものが、きっかけを得て、フッとよみがえったということではないでしょうか。
 そう考えてみると、ナーンダ、ということになり、師匠にまでおたずねして、いやどうも、お手数をおかけいたしました。
 一編のおもしろい原作があると、その物語は演者が変わるたびに、あるいは上演する一座の都合によって、すこしずつ内容が変化し、長い年月のうちには、ストーリーの大筋は変わらなくとも、かなり形のちがうものになってしまう、ということがあるように思えます。
 私自身、なにか原作のあるドラマをやるたびに、ずいぶん勝手に脚色をしてきました。
 こんど歴史博物館で六回上演する「立ち絵」の「ご存知鈴ケ森」も、まさしくその類いです。
 多くの人間を殺してきた白井権八の頭上に血だらけの生首が雨のようにふりそそいで、その怨霊に苦しめられるというラストシーンは、まさしく私のオリジナルです。
 佐野次郎左衛門や八ツ橋花魁が登場する、はるか以前の「籠釣瓶」の物語を、「女乞食おこん殺し」をクライマックスにして、新しく私が「立ち絵」でつくってみようか、などと思ったりしました。
 以前は夫であった次郎兵衛に殺される不運な梅毒病みの女乞食が、じつは次郎左衛門を生んだ母親だったということにすると、話はさらに陰惨味の濃いものになります。
 おこんは、自分を殺したもと夫と、その夫との間にできた子供の前に、おどろおどろしい幽霊となって出るわけです。
 夫への怨念、と同時に、我が子への愛情に悩んでのたうちまわる幽霊の姿なんて、愛憎からまり合って、ちょっと凄いんじゃないかと思います。
(似たような話を、だいぶ以前「のぞきからくり」で見たような気もしますが)
 人間というものは、どんなに平穏無事を装おっていても、一歩裏にまわると、おどろおどろしい業(ごう)が渦巻いているような気がします。
 その業を、とことん描いてみたいという気持ちが、私にあります。
 こんなふうになってくると、多くの芝居好きに知られている、佐野次郎左衛門と八ツ橋の、
「おいらん、そりゃア、ちと、そでなかろうぜ……」
 の縁切り場をクライマックスとする「籠釣瓶」とは、まったくちがった、さらに悲劇的な、陰惨味の濃い「因縁因果物語」が、できあがることになります。

「喧嘩屋五郎兵衛」も、あるいはこんな経緯をへて、長い年月のあいだに、あちこちの一座で演じられ、いつのまにか、あのようにひねくれた、陰々滅々とした、痣のある身を嘆き悲しむ侠客の悲劇になったのかもしれません。
 あ、それともう一つ。
 そういう芝居を支持する観客が、その時代時代に、大勢存在したという事実があったはずです。
 お客あっての、芝居ですから。
 長い年月、多くの劇団の手によって、厳粛にこねくりまわされた果てに、複雑で、不条理な「味」のようなものが、あの芝居から、かもしだされ、匂い出したとも考えられます。なんとも不思議な魅力のある舞台でした。
 あるいは、私と彼女は、めったにお目にかかれない貴重な芝居を、あの日「花吹雪」のおかげで、見られたのかもしれません。

つづく

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