濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百三十八回
不遇の芸能
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永井啓夫(ながいひろお)氏が書かれた「『立ち絵』の歴史」(芸双書・えとく)という文章によると、その第一ページの七行目に、
「……創始以来わずか三十余年で姿を消した不遇の芸能……」
とある。
そうなのだ。
不遇の芸能なのだ、「立ち絵」は……。
東京で明治二十年代に創始され、大正末年まで、子供や一部の趣味家に愛好されたが、その制作や操作のむずかしさゆえに、すぐにやる者がいなくなった。
制作や操作自体は、さほどむずかしいものではない。
多少の心得と、指先の器用さと、演劇的なセンスがあればできる。
むずかしいというよりも、面倒なのだ。
手間と時間がかかり、そのわりには、報われることがすくない。
明治二十年代に現われて、大正の末には消えてしまった芸能である。
報われることが多かったら(お金や名誉が得られたら)そうかんたんに消滅するはずはない。
不遇の芸能。
不遇とは、
「……不運で、才能・人物にふさわしい地位、境遇を得ていないこと」
と、辞書にある。
そうか。だったらひとつ、こいつの復活に挑戦してみようか。
と、へそまがりの私は、思い立ったのである。十六年前のことである。
不遜は承知である。
繁昌している芸能には、私はあまり興味はない。
へそまがりの上に、顕示欲がつよい。
そして、絵を描くことや、歌舞伎の口調で口上をのべる芸に、自信がある。
おや、ずいぶん自信たっぷりにおっしゃるじゃアございませんか。
と人に言われたら、ええ、そういう自信はありますよ、と私は答える。
私はいつでも自信過剰な(つまり軽率な)人間である。
しかし、それくらいの自信と軽率さがないと、挑戦できない芸能であった。
それにしても十六年前、本来の仕事が多忙を極めていたあの時代に、私はなぜ「立ち絵」制作などという面倒なことを思い立ったのだろうか。
あのとき、自分はどんな気分でいたのか、と自問してみたが、これはわかっている。
私は生来、芝居が好きなのだ。
むずかしい理屈や演劇理論などと関係なく、とにかく芝居が単純に好きなのだ。
舞台や衣装を着た役者の姿を思い浮かべながら、歌舞伎のセリフを大声で言うと、どんなときでもうっとりしてきて、酔ったようなとてもいい気分になれるのだ。
芝居好きだということは、いってみればこれは私の「業」(ごう)みたいなものだ(父と母からの遺伝であろう)。
生まれついてから私の背中にべったりへばりついており、追い出そうとしても出て行かない。
おそらく死ぬまで、この「業」は私から離れることはないだろう。
だが、よけいなことを書かせてもらうと、私の芝居好きは、やや屈折している。
いくら好きだといっても、芝居の世界にすっぽり頭まで入りこんで、つまり、本当に役者とか、演劇人になってしまうことには、ためらいがある。
臆病なのである。
プロになりきってしまうほどの、大胆さがない。
それは、芝居のプロのきびしさを知っているからである。
まず、お金に苦労する。私は貧乏がこわい。
本当の芸を身につけるための修業、努力と忍耐が、なみたいていのことではないことを知っている。
その苦しさに、私の体力と神経は耐えられない。
苦しい修業をするのは、私は嫌いだ。
なるべく楽をして、いい気分に浸りたい(勝手なものだと思うが、本心である)。
臆病であり、そして卑怯でもある。
とっくのむかしに亡びてしまった芸能を、いま復活させたら、人はびっくりするだろう。
尊敬の目で見てくれる人もいるかもしれない。
私はつよい劣等感を持っているせいか、人から尊敬されるのが好きである。軽蔑されるのは嫌いである。
そして、私を「立ち絵」に挑戦させたもう一つの理由、いま思うと、この理由のほうが強かったかもしれない。
本来の仕事が最も多忙な時期、と私は書いた。
毎日ひっきりなしに裸の女体を縄で縛り、その種の雑誌へ四つも五つもペンネームを変え、朝から夜まで、夜から朝まで原稿を書いていた時期、心身が疲れれば疲れるほど、私は心の奥底のほうに、飢えを感じていたのかもしれない。
十六年前のあの時期、すでに出版物において「SM」というイメージはせまい幅のものに定着し、型どおりに固定化していた。
イメージを定着させ、一つの方向に固定化してしまったほうが、つまり、金儲けの仕事としては楽なのだ。
現実の生活においては、私もその楽なほうに荷担していた。収入を得るには、こっちのほうが楽である。
しかし、ちがう、ちがうなあ、と心のすみで私はつぶやきつづけていた。
「SM」というものは、もっと自由で、多彩で、型やぶりの、おもしろいもの、でなければならなかった。
私の心の一部に、飢渇感が生じていた。
その飢餓感がひろがったとき「立ち絵」に向かわせたのではなかったか。
毎日の仕事に十分な満足感があったならば、あの忙しいさなか「立ち絵」などに心を奪われる余裕はなかったはずなのだ。
いつのまにか話が横道にそれてしまった。
元へもどさなければならない。
とにかく私は、不遇の芸能「立ち絵」づくりに夢中になった。
それは、楽しい作業であった。
夢があった。楽しくなければ、人形づくりなどという面倒なことはやらない。
紙人形の舞台には、自由で奔放な物語の世界があった。
私がつくった紙人形は、私の思うがままに、望むがままに息づき、動くのだ。
生活費を得るための「SM」の仕事では得られない、どこまでも果てしなく、思いどおりにひろがっていく私の「SM」の世界があった。
芝居好きの私が好む「SM」の世界は、あくまでも耽美、幻想、浪漫を基調として、物語性の濃いものである。物語性を感じさせない「SM」に、私の好む「SM」はない。
(この時代につくった私の「立ち絵」の中の「八百屋お七」「切られお富」の人形の数体は、風俗資料館に預かってもらっている。罪を犯して役人に縛られている女、逆さ吊りの拷問をうけている女、引き回しの馬に乗せられている女囚、ハリツケ柱に縛りつけられている女囚、それらにからませるための男たちの紙人形も数体ある。稚拙な人形ではあるが「SM」の情念だけはこもっているはずである。この「八百屋お七」「切られお富」の二本の「立ち絵」芝居を、いつか風俗資料館で上演し、「興行」したいと私は思っている。もちろん台本もすべて私が書いている。こんど近県の歴史博物館で、二日間、六回公演する「ご存知・鈴ケ森」も同じ時期につくった。これは二十体近くある)
ここで前述の永井啓夫氏の文章を抜粋して掲載させていただく。
「……セリフの調子は旧劇(つまり歌舞伎)、講談、落語、さらに映画説明などを交えた調子の高い朗誦体で、これに効果音として太鼓、ドラ、拍子木などが加えられた。のちの一枚絵の紙芝居の話術の原型となるものといえよう。ただし、紙芝居よりはさらに各登場人物のセリフが重視されていたのは、立ち絵の紙人形が人物ごとに一体ずつ独立していたからである。」 |
人形のセリフが重要な位置を占める、という特徴が、私の自尊心を満足させるところであった。
私は、歌舞伎調のセリフが、得意なのである。自慢すると、本物の大歌舞伎の、しかも名題役者に、本気で褒められたことがある。
つぎに人形の操作。
私にとっては、これがセリフを言うよりむずかしい。
しかも本来は、セリフを言いながら人形を動かさなければならない。
が、M子嬢の出現によって、人形操作のもんだいは解決した。
口上、セリフ、拍子木は私が受け持ち、人形の操作は、M子嬢が専門にやってくれることになったのだ。
当時私は「月光」という雑誌に、サーカス芸人の世界を描いた小説を連載していた。
M子嬢はその小説を熱心に読んでくれていた。つまり愛読者であった。
そして、大道芸、見世物芸に対する関心を非常につよく抱いている女性であった。その種の芸および芸人に対する愛着の深さは、私をしばしば驚嘆させた。
人形を操作してくれるM子嬢の出現がなかったら、私の「立ち絵」は、竹串に紙をはりつけた人形をつくっただけの段階で終わったであろう。
本来は一人芸であるはずの「立ち絵」が、変則的ではあるが、彼女によってきめこまかい動きと芝居ができるようになった。
ここでまた、永井啓夫氏の文章から抜粋させていただく。
「……人形の変身は、親指と人さし指で細い竹串をくるりと一八〇度回転させるだけである。簡単な操作だが、この回転が途中で止ってしまったり、廻しすぎたりすれば効果はまったく失われてしまう。つまり微妙な指先から生まれる<間>が、立ち絵の最大の見所だったのである。そして、人物の動作の間、律動的な転換を導き出すのはセリフの間であった。のちの紙芝居や、映画説明よりも、立ち絵にはセリフの間が重要であった。セリフに伴う画面の転換、その一瞬ずつの<間>が、すなわち立ち絵のおもしろさであった。」
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永井氏のこの文章は、「立ち絵」における人形の動かし方、そしてセリフの<間>(ま)のむずかしさをよくとらえている。
このむずかしい人形とセリフの芸を、一人の人間が同時に演じなければならない。
とても無理である。
「立ち絵」を「不遇の芸能」とさせてしまった由縁である。つまり、紙芝居のように、一人で、だれにでもできるようなものではなかったのだ。
そこで私は、人形の操作をM子嬢にまかせ、自分はセリフのみに専念することにした。
セリフだけだったら、楽だし、他に神経を使わなくてもいいのだから気分がいい。
私の「立ち絵」は、私にとって快楽そのものになった。
再び、永井氏の文章を写させていただく。
「……平面的・叙述的なストーリーの説明ではなく、一役ずつのセリフの組み合わせによって場面が構成されるのが立ち絵の劇的特色であった。だから立ち絵の演者には、歌舞伎調のセリフ技術が身についており、同時に指先の器用さが要求された。町まわりの飴売り小芸人とはいえ、歌舞伎好きで、芝居の妙味を知り抜いていた彼らは、小さなプロセニアムの中で役者たちを自由に駆使し、劇場という小世界を操作していることに大きな誇りを抱いていた。子供たちから「歌舞伎屋さん」と呼ばれ、縞の着物に白足袋姿で立ち絵を演じていたのは、彼らの自信を反映したものといえよう。」
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そして、なにしろ濡木痴夢男のやることだから、「ご存知鈴ケ森」から始まって、狂言は当然「八百屋お七」とか「切られお富」などという、こちらのい匂いを強く加味していくことになる。
(つづく)
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