濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百四十三回
雑草と呼ばれても
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私が過去に、さまざまなペンネームを使って、執筆してきた小説、戯曲、シナリオ、エッセイ、絵物語の類は、現在ほとんど飯田橋の風俗資料館におさめられているが、それでも、全部ではない。
全執筆量の、六、七割程度のものであろう。
あとの三、四割は、いまどこにあるか、わからない。
私の手もとにもない。
たいして値打ちのあるものではもちろんないが、それでも一応は、私の生きてきた記録にはちがいない。
私は、私が書いてきたものを、本心から、ロクでもないものだと思っている。
だから掲載誌を、ていねいに保存することもしなかった。
消えてしまったら、消えてしまったでいいと思っていた。
いや、雑草のように消えてなくなってしまったほうがいいと思っていた。
実際に、私に依頼した雑誌の編集者に、
「あなた方の書いておられる雑草みたいな原稿は……」
と、面とむかって言われたことがある。
そのときは、さすがに私は怒ったが、そうかもしれないと、思いなおしたりもした。
「雑草」と呼びながらも、その出版社は、私の書いたものに、毎月多額の原稿料を払ってくれていた。
どんな雑草でも利益さえあげれば、企業は使ってくれる。
また、私はある映像制作会社に雇われ、いわゆる「SMビデオ」撮影の現場にいた。
昼食後の休息のとき、私はADのB君の質問に対して、こんな返答をしていた。
「……だからね、この作品のヒロインはね、じつは夫よりも、夫の父親のほうが好きなんだよ。その義父も、それに気づいて、せがれの目をぬすんでヒロインにせまる……このへんに、この作品の狙いがあるんだ」
このドラマの台本は、私が書いたものであった。
私とB君の会話を、このとき横で聞いていた監督のIが、もう一人のADにむかって嘲笑まじりに言った。
「おい、作品だとよ。こんなSMビデオでも作品というのかよ。作品というものはな、もうちょっと格調の高いものを言うんじゃないのかな」
それを耳にしたとき、私は内心激怒した。
「SM」に対する偏見と蔑視が、あきらかにあった。
が、黙って耐えた。
その監督が撮った映像は、その制作会社では営業成績がよく、社長も一目置いている人物だった。
そのこと以来、私は自分の書いたものを「作品」を呼ぶことを避けた。
I監督の言葉に、いったんは怒ったが、
「……なるほど、『作品』などと呼ぶべきものではないかもしれない」
と、肯定することもあったのだ。
これに似た体験をいくどか味わったのち、私は私の書いたものに、愛着をもたなくなっていた。
もちろん原稿料をいただける責任ある仕事である以上、書くときはいのちをけずる思いをしてペンを握った。
一生けんめい書いて、つぎの注文をもらわなければ、食べていけない。
しかし、SM雑誌の編集者から「雑草」と呼ばれ、I監督から「こんなもの作品と呼べるか」と冷笑、侮蔑されたことは、一種のトラウマになって、常に私の心のなかにあって離れなかった。
そんな私の心を救ってくれたのが、風俗資料館の中原るつ館長である。
このことは前にも何度か書いているので、またかと思う方もいるだろうが、私の河出文庫の六冊目の著書「緊縛★命ある限り」に、中原るつ氏は懇切ていねいな解説文を添えてくださった。
私の書いたものを、彼女は「作品」として認めてくれ、評価してくださった。
ありがたかった。この中原氏の文章で私は救われたのだった。
雑草でも作品は作品であり、その時期、その場において、それなりにふさわしい役割があった。
そこに値打ちがある、と私は自分の仕事に対して、ようやく納得できるようになった。
納得はできても、自信のようなものはとても持てず、劣等意識はあいかわらずだったが、とにかく私は中原るつ氏の「解説文」で、甦ったのだった。
中原氏から新しい励ましを受けるようになってから、私の書くものは変わった。すくなくとも、世間に妥協せず、書きたいことを書くようになった。
世間に媚びたり、妥協してたるんだものを書くと、すぐに彼女から注意をうけ、ときに叱咤されるのである。
私はここで、大田黒秋良氏に登場してもらわねばならない。
私が書いたものは、風俗資料館のなかに、六、七割はおさめられていると前に述べた。
もちろん、私にとってこれ以上ありがたいことはない。
そして「おしゃべり芝居」の誠実な読者であられる大田黒秋良氏は、いま、風俗資料館にはない私の書いたものを、熱心に探がし出してくれるのである。
大田黒氏への感謝の言葉は、以前にも述べたが、今回また新しく探がし出してきてくださった。
感謝感激である。
大田黒氏はただ発掘するだけでなく、私の書いたその小説を熱心に読んでくださり、コピーと一緒に読後感を添えて、私のところに送ってくださるのである。
この読後の感想文が、毎回、私をいい気持ちにさせてくれる。
つまり、率直に、ほめてくださるのである。単なるお世辞ではなく、適切な表現でほめてくださるのが、私のような自信のない物書きにとってはありがたい。
たとえば以前、このようなお手紙をいただいた。
「……先日は久保書店在籍時の貴重なお話をきかせて頂いたり、濡木先生御自身の著書及び、南郷京助氏の単行本を頂いたり、本当にお世話になりました。頂きました『古城の幽鬼』は、その日から読み始め、一日弱で読了してしまうくらい、面白かったです。
筋運び、プロット、オチ、どれも文句なしのレベルで、楽しく読めました。とくに『白蝋荘事件』は、『裏窓』版とは結果が異なり、細部まで手を抜かない、濡木先生のプロ精神が見てとれました。……」
こういうおほめの言葉をくださる読者の方には、私はなんでもして差し上げたい。
今回、大田黒氏が私のところへ送ってくださったのは、私が「探偵倶楽部」という月刊誌に、飯田豊吉のペンネームで書いた「男狩りの裸女」というミステリ短編小説のコピーである。
これがなんと、昭和三十三年(一九五八年)の十一月号なのだ。
一九五八年といえば、いまから五十年以上もむかしの雑誌ではないか!
この号の目次もコピーしてくださっているが、私の筆名の両隣は、木々高太郎氏と、島田一男氏であり、お二方とももうこの世の人ではない。
同じく「探偵倶楽部」昭和三十三年の十二月号には、これも飯田豊吉のペンネームで、「蛇王城の復讐姫」という小説を書いている。この号には、豊田一狼のペンネームで「白蛇夫人の敗北」という短編も書いている。
つまり一冊の雑誌に、筆名を変えて二本の小説が同時に掲載されている。
また同じく「探偵倶楽部」昭和三十四年新年号に「銀座の女奴隷市」という小説を、飯田豊吉ペンネームで書いている。
この当時「探偵倶楽部」という雑誌に、私は毎号のように小説を書いていたらしいのだが、それをすっかり忘れているのだ。
私の手もとに、この雑誌は、なぜか一冊もない。
私の著作の六、七割は、風俗資料館にあるが、あと三、四割の所在はどこにあるかわからない、というのは、このことである。
「探偵倶楽部」に発表した小説は、なぜか私の「仕事メモ」にも記載されてないのだ。
これも大田黒氏が探がしてきてくれたのだが、「推理界」という雑誌の一九六八年(昭和四十四年)十月号に「泣くな殺し屋」という推理短編を、これは飯田豊一という名前で書いている。
この号の目次には、西村京太郎、佐賀潜、西東登、新章文子などの江戸川乱歩賞作家がずらりと名前をつらねている。
ほかに、角田喜久雄、大藪春彦、都筑道夫、田中小実昌氏らの名前もある。
これらの一流作家と並んで、どうして私の名前があるのか、光栄とは思うけれども、疑問である。
「推理界」の編集長は、私を「SM界」から引き離して「推理界」のほうへ引き寄せようとしていたのだろうか。
だが、この時代、私は美濃村晃つまり須磨利之が編集する雑誌のほうに、強く心を引き寄せられていた。
「探偵倶楽部」や「推理界」にいくら招かれても、「裏窓」の魅力には勝てなかったのだ。
「裏窓」は、ペンネームさえ変えれば、同じ号に五編でも六編でも、さまざまなジャンルの小説を、自由に書かせてくれたのだ。
私が「裏窓」に、最初の連載小説「地獄の乳房」を書き始めたのも、一九五七年(昭和三十二年)二十七歳のときであった。
この連載の挿画を担当してくださったのが、秋吉巒氏である。
緻密な人物デッサン、登場人物が躍動する斬新な構図を、私は毎号うっとりして眺めた。小説よりもイラストの魅力のほうが勝っている、と私は思った。
私の手もとにもない私の旧作を、大田黒氏は、いつもなみならぬエネルギーを費やして探がし出してくれる。
つまり、旧作にまつわる私の思い出を探がし出し、連れてきてくださるわけです。
ありがとうございます。改めてお礼を申し上げます。
お礼の気持ちの一端として、私が「裏窓」にいたとき、編集実務用に使っていたボロボロに汚れた古い「裏窓」を、数冊まとめて風俗資料館にあずけておきましたが、受け取っていただけましたか。
あなたに差し上げたいものが、まだ多少あると思います。古い汚らしい本とか資料ばかりですが、ぜひお受け取りください。
(つづく)
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