酒井妙子との接吻記念日
前回記したように、私が過去に書いたものの七割ほどは、現在、風俗資料館に保管していただいている。 小さな囲みのような記事まで入れると、執筆した総量は、千点にも達すると思われる。 (なにしろ、五十年間以上、書きつづけている) 活字となって雑誌や単行本になっているその七割は、中原るつ館長の真摯な愛情により、こまかい配慮と誠実な努力をもって、たいせつに、だれにでもすぐ読めるように陳列されている。 このことは、何度感謝しても感謝しきれない。道端に生えている雑草でも、年を経ることによって、なんらかの価値が生じてくるような気がする。 ありがたいことだ。 私のようなゴミみたいな人間が、かろうじて生きてきた実績の大半は、風俗資料館が証人になってくれている。 中原館長は折りにふれて私におほめの言葉をかけてくれるのだが、しかし私は、あいかわらず、 (自分の書いたものに値打ちなんかあるはずがない) という認識を抱きつづけ、その根強い劣等意識から離れることができない。 すると彼女は柳眉を逆立て、 「大丈夫です、それなりに確かな値打ちがあるのです!」 と、怒りの表情さえみせて励ましてくれ、そのたびに私は勇気をふるいおこすのだ。 いや、このこともすでに何度かくり返して書いているので、もうやめよう。 風俗資料館の図書棚に、絶対に並べられることなく、私の愛読者である大田黒秋良氏も見逃すであろう私の古い小説が、じつはきょう、他の資料を探がしていたとき、押入れのすみの紙袋の中から、ふっと出てきた。 それは八年前に、飯田豊一の筆名で同人誌に書いた「酒井妙子との接吻記念日」という十四枚の小説である。 短いものだが、私には愛着のある一編である。 掲載した同人誌はどこかへ紛失してしまい、生原稿をコピーしたものだけが、私の手もとに残っていたのである。 これを機に、ぜひ、この「おしゃべり芝居」の中に収録しておきたい。 へええ……濡木痴夢男という男は、こんな小説も書くのか。 と、お思いになるだろう。どこまでいやらしい人間なんだ。あきれて、苦笑される方もいるだろう。が、私の文章に間違いはない。 酒井妙子との接吻記念日 上野広小路から本郷にむかって春日(かすが)どおりを歩いていくと、湯島天神に近い裏通りに、「蔦吉(つたきち)」という小料理屋がある。 その店の二階の、二十四畳ほどの座敷で浪曲(ろうきょく)の会があり、私はそこではじめて酒井妙子と出会った。昨年の夏のことである。 妙子は、桃門(とうもん)十郎という八十歳になる浪曲師の合三味線(あいじゃみせん)であった。見たところ、まだ三十前か、三十を越していたとしても、一つか二つかという若さなのに、情(じょう)のこもった、張りのある、いい音色(ねいろ)をきかせる三味線弾きである。 小柄な細い体から、なにか得体(えたい)の知れない空怖(そらおそ)ろしいような情念がほとばしっていた。私は三味線のことはよくわからないのだが、感動するものがあって、終演後、その二階の座敷での打上(うちあ)げのとき、わずかばかりの祝儀を、彼女の手に握らせた。 私は、芝居をみによく劇場へいき、落語や講談を聴きに、散歩がてらに寄席(よせ)へいくが、浪曲をやる場所にはあまり行かない。が、誘われれば、行ったこともない湯島の小料理屋まで足を運ぶのだから、嫌いではない。 白状すると、妙子に渡すための祝儀を、打上げの前に用意しながら、この三味線弾きとは、いつか二人で会うようなことになるかもしれない、という予感が、私にあった。この予感には、むろん裏打ちがある。が、長くなるのでここでは省略する。裏打ちもないのに、ただ祝儀をやっただけで二人きりになるのを夢みるなんてのは、単なる好色じじいである。いや単なる好色じじいと言われても仕方がない。私は今年七十二歳になる男である。 会うことになるかもしれないという期待はあったが、同時に、彼女とはもう会う機会はないだろう、という思いもあった。浪曲の曲師、つまり三味線弾きというのは、客の前にはめったに姿を見せない、いってみれば陰(かげ)の芸人である。もう会わないだろうという予感のほうが、当然強い。世の中、ほとんどが、一期一会(いちごいちえ)である。 しかし、若い女の芸人と、二人きりで芸の話をするという空想は、楽しい。空想だけで十分に楽しい。私には、「芸」の世界に対する憧れがある。「性」に対する欲望も衰えていない。私が彼女に渡した五千円の祝儀は、この空想代である。 こういう書き方をしていると、出てくる場所といい、登場人物といい、シチュエーションといい、なにやら大正時代か、昭和の初期のころの小説のように思われるかもしれない。実は、私自身がそう思って、書いているうちおかしくなって一人笑ってしまった。が、これはまぎれもなく現代の話であります。 小学生まで、絵やら写真やら文字の出てくる電話機をもち、猫も杓子もパソコンの操作に明け暮れているいまの世にも、こういう世界は存在しています。というより、まだ消えずに残っている、といったほうが正確か。 妙子とのそんな出会いから約一年たって、今年つまり二〇〇二年の五月十一日の土曜日(そういえば今年は桜の花の咲くのが異常に早く、ゴールデンウィークという連休が、多いところでは十日間もあった)、私は滝乃川小弥太(こやた)という若い浪曲師の誘いをうけて、再び、湯島天神裏の「蔦吉(つたきち)」の二階でやる浪曲の会にいった。 ここで私はちょっと自分のことを書かせていただく。私はときどき道楽で、寄席の芸人のための台本を書く。道楽というのは、私はこの種のものは、ノーギャラで書くからである。そういうわけで芸人たちとのつきあいが生じ、彼らの会のときには誘われたりする。そして、いつのまにか彼らは私のことを、台本を書いてくれる「先生」と呼ぶ。 その日、小弥太が演じたのも私の書いた人情物の新作で、したがって私は聴きにいかなければならない。 トリをつとめたのは梅花亭(ばいかてい)燕志(えんし)という大正生まれの大ベテランであった。ところが、この最長老の燕志の合(あい)三味線に、酒井(さかい)妙子(たえこ)が登場した。意外であった。妙子は年は若いが腕は確かだということが、業界では認められているのであろう。 この夜、私は前から二列目の、高座(こうざ)の下手(しもて)寄りの客席の座布団にすわっていた。私はたまたま空(す)いていたのでそこへ座ったのだが、この位置は高座の浪曲師をはさんで、三味線弾きと顔が向き合う形になる。 妙子は、私の顔をおぼえているだろうか、たぶん、忘れているだろうと私は思った。 一年前に、いきなり祝儀袋を手渡し、一言(ひとこと)二言(ふたこと)、ねぎらいの言葉をかけ、そのまま消えてしまった客である。私は、祝儀袋に自分の住所は書かない。 「酒井妙子賛(さん)江(へ)」と書いて、そのとなりに「立派な大薩摩(おおざつま)でした、感心しました」と小さく一行で書き、左下の隅に「目黒・飯田」と記すだけである。 大薩摩というのは、長唄に使われる独特の旋律である。浪曲の三味線ではめったにやらない。 その日から後(あと)は、彼女に会っていない。私の顔を忘れるのが、当然である。 だが、彼女は私をおぼえていた。それは、舞台の上手(かみて)で三味線をかかえ、右手で撥(ばち)を握りながら、私を凝視している目で、すぐにわかった。強く激しく、そのくせ、うるんでいるような艶(つや)のある瞳で、あきらかに、何かの感情を私の心に送っているのだった。私は思わず(うん、わかった)とうなずいていた。 彼女は三味線を弾きはじめ、燕志はうなりはじめた。泉鏡花原作の「滝の白糸」である。燕志の節(ふし)まわしは年にふさわしく味のあるしわがれた声で、明治の悲恋物語を円熟の芸で語り、妙子の三味線は若々しい張りのある音色で冴えわたった。 サワリのときの音色は、悲運の女(おんな)芸人・滝の白糸の嗚咽(おえつ)のように、二十四畳の部屋の中にひびきわたった。素人の私の耳にも、一年のあいだに上達していることがわかった。 ときどき、ふるえのくるような、神がかりのような絶妙なリズムとメロディーを奏(かな)で、その瞬間、彼女の小さな体は、光り輝いて強烈なエロチシズムを放った。 私は舞台へかけあがり、彼女の体を押し倒して犯したいような衝動にかられた。 「うぬぼれ男め」と笑われるのを承知で書くが、彼女の熱演は、私を意識し、私に聴かせるためのように思えた。彼女は私を、音で誘惑しているのだった。 この夜、集まった客は三十人だったが、終わったあとの盛んな拍手の半分は、合(あい)三味線に送られたもののように私には思えた。 私はその夜の打ち上げの席で、近寄ってきた妙子にまた祝儀をやった。そして、 「ほかに用事がなかったら、今夜はおれと一杯のもう」 と、ささやいた。 彼女は目でうなずいた。必ずついてくる。私には自信があった。 一時間後、私と妙子は上野広小路の裏通りにある竜湖洞(りゅうこどう)という近頃流行(はやり)の中華一品料理の店にいた。わざと照明を暗くして、洞穴(ほらあな)のような造りになっている。 私は妙子と並んですわった。高座では当然着物に帯だが、プライベートの彼女はブラウスにパンツルックである。私は彼女の左側にすわった。若者相手のこの店の腰掛けは、並んですわると体が密着するようにできている。二人で中国の酒をのみ、私は彼女の左の手首をつかんで言った。 「かぼそい手だなあ。こんな細い手で、あの大きな三味線を抱えて弾くのか」 指は骨がないかと思われるくらいにしなやかで細かった。私はその一本一本の指をしごくように撫でながら、 「この細い指から、よくあんな力強い、感情のこもった音が出せるなあ」 改めて感嘆した。実感だった。彼女はまったく無抵抗だった。されるがままだった。 私は右腕を彼女の右肩にまわして、肩の肉づきから、右腕の太さを確かめた。 「筋肉というものがほとんどないじゃないか。これでよく音が出せるなあ」 と、同じことをいった。いわずにはいられなかった。私はさらに右手で彼女の太腿の肉づきを確かめた。もちろん黒いパンツの上からである。指でおさえつけ、揉むようにして左右の太腿を愛撫した。 彼女は逃げなかった。両膝を小さくそろえて、私の右膝に強くおしつけてきた。 私は、彼女の心の孤独を知っていた。この一年のあいだに、すこしずつ彼女の身辺の事情が私の耳に入ってきていた。私のほうから積極的に聞きだしたわけではないが、若い芸人のために台本など書いていると、しぜんに耳に入ってくる噂だった。噂の一つ一つが、彼女の芸の資質に関わりがあるように、私には思えた。 彼女は、結婚していた。夫というのは、あまり性質のよくない、働かない男だという。 「とんでもない男ですよ、あいつは。妙子師匠の不幸の原因の半分は、あの男のせいですよ」 と、事情通(つう)の若い男が、私にいった。そして、これは噂ではない、私が自分の目でみて最初から知っていることだ。彼女は左の足が悪い。つまり、びっこをひく。目立つほどではないが、注意してみると、歩き方に癖がある。女性にとっては重い劣等感の原因である。この劣等意識が、彼女の弾く三味線の底力になっているのだろう、と私は思った。 単にテクニックがすぐれているだけではなく、音色の中に、怨念にも似た熱い魂がこもっている。最初聴いたとき、三味線の華やかなメロディーの裏にひそむ、空怖(そらおそ)ろしいような暗い情念のひびきに私は戦慄し、心を奪われたのだ。 三味線の音色だけではない、彼女の全身からその暗い情念がほとばしり出て光を放ち、強烈なエロチシズムとなって私を魅了したのだった。 洞穴の中で中国酒をのみながら、私と妙子は語り合った。妙子は自分も浪曲をやりたいといった。三味線だけでなく、語りもやりたいといったのだ。そのための台本を自分で書き、もうできあがっている、といった。 この女は、私のことをかなり知ってるな、と、彼女の口ぶりで私はさとった。なにやら得体の知れない人だが、台本を書く作家だということを、だれかから聞き出しているのだ。私の耳に妙子の噂が入っているように、彼女の耳にも私の噂のあれこれが届いているのだ。そして実は、そのことも私の計算に入っていた。誘えばかならずついてくるだろうという予感を、裏打ちするものとは、つまり、このことである。 「一人の男に惚れて、惚れぬいて、どこまでも、どこまでも追いかけていく女の話を語りたいの」 と、彼女はいった。 「弾き語りでやるのか、それは大変だ」 自分で三味線を弾き、同時に語(かた)りも節(ふし)も自分でやるというのだ。よほど熟練した者でないとできない芸である。 「でもね、先生、せっかく浪曲の世界へ入ったんだから、そこまでやらないと、私の思(おも)いが通(とお)らないわ」 と、妙子はいった。思いを通す、という表現が、私をよろこばせた。 私は、彼女が書いたという台本の内容についていくつか質問した。彼女は頭の回転のいい、利発さを示す返事をした。相当な文学少女であることを知り(義理人情を売り物にする低俗な大衆芸の代表のように蔑視されている浪花節の世界に、こんな知的な女性がいたのか!)と私は感動した。 内外の文学にくわしく、中南米の作家の小説まで読んでいた。言葉の端々に鋭いひらめきがあり、借り物ではない独自の批判力があって、またまた私をよろこばせた。 なにかの拍子に、男と女のセックスの話に及んだとき、いかにも既婚者らしい大胆な、それでいて軽妙な表現が彼女の口から出た。 私と彼女は声をあげて笑った。機は熟していた。私は、彼女の小さな頭を片手でつかむと、私の顔の前に彼女の顔をねじ向け、キスをした。 強く吸ったとき、三味線の匂いがした。三味線に匂いなどあるはずもなく、それが女の口から匂うはずもないが、三味線の匂いを感じた。あるいは、三味線の皮の匂いか。そのとき、彼女の舌が、私の口の中へ入ってきた。可憐な小さな舌だった。私の口の中で、その肉片はかたまりとなってふくれあがった。私は力いっぱい吸い、舌はますます熱くふくれあがった。 「苦しい、息ができない」 と、彼女は首をふった。 これが、二〇〇二年五月十一日、土曜日の夜のことです。酒井妙子と初めてキスをした記念日です。浪曲の会の会場である「蔦吉(つたきち)」を出るとき、私は、今夜はキスだけにしておこう、キスだけにしておいて、あとは様子をみてからにしよう、と思ったのです。それでこの夜はキスだけでした。これは男の側(がわ)の計算で、女のほうには女のほうでまた、なにかの計算があって私の誘いに応じたのでしょう。こういう女性が、実はいちばん怖いということを私はよく知っています。なにしろ、七十二年間生きてきた男ですから。 (二〇〇二年五月十二日) (つづく)
(つづく)