濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百四十五回
正体不明のおじさん
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えらいことになった。
私が、演劇講座の、講師になるのである。
演劇をめざして勉強している人たち、もしくは、現在すでに演劇人である男女たちの前で、私が講師という立場になってしゃべるのである。
しかも、きわめてまっとうな、その種の公的な組織の人からの依頼である。
とてもその人(にん)にないので、断ろうと思っていたとき、その講座のチラシの原案ができあがり、読んでみると、私を紹介する文章がおもしろい。
書いてくださったのは、私が日頃尊敬している演出家のT氏である。
それで、気が変わった。
チラシの文面を数回読みかえし、
(一つ、冗談半分にやってみようか)
「講座」などではなく、漫談をやろうと思ったのだ。
そのチラシの全文をここに書き写してもいいのだが、うっかり固有名詞を出すと、当今、どこで、どういう不都合なことがおきるかわからない。
なので、固有名詞その他を、○○○○にする。
この「おしゃべり芝居」のなかで、くり返し述べているように、私はかなりいかがわしい人間なので、だれに迷惑をかけることになるかもしれない。
私と知り合いであることを怖れ、だれかに見られることを警戒して、私と同行する場合、かならず五メートル以上離れて歩く人を何人か知っている。
私の顔なんか、フツーの世間では、だれも知らないのに。
というわけで、ややわずらわしいが、一応伏せ字にしてから説明することにする。
では、チラシの文面。
「特別講座・日本演劇の地下水脈を探る」
というのが講座のテーマであり、つぎに、ひときわ大きく、
「○○○○氏が語りつくす!」
とある。○○○○とは、私のもう一つの芸名である。
私が数多くの筆名を持っているということは、この「おしゃべり芝居」の最初の「プロフィル」に記したはずだ。
数多くというのは十幾つ、二十通りに近い。一人の人間が、必要と理由があったとはいえ、こんなにも異名を持つというのは、それだけでも、とても、まともとはいえない。
いかがわしい人物、という印象になる。
いまから約五十年前「悪書追放運動」が猖獗(しょうけつ)をきわめた時期、私は警視庁へ呼ばれ、
「あなたはどうしてそんなに名前をいくつも使うのか。名前をたくさん使う人間なんて、後ろ暗いわるいやつにきまってる」
と、言われた。
鞍馬天狗は、ときどき倉田典膳と名乗ったりするが、名前はそれだけである。
世の中のためになる善人が、十幾つも異名を持つはずはない。
こんなふうに「おしゃべり芝居」においても、○○○○などと伏せ字を使わなければならないのだから、やはり、よくない人間なのだろう。
伏せ字にしないで、正直に、濡木痴夢男としたらどうだ、とお思いだろうが、そうするとまた、いろいろと、わずらわしく神経を使わなければならなくなるのだ。
濡木痴夢男という人間のやっている仕事が、世間一般のフツーの人たちには、よほど珍奇で好色、特別なものに見えるらしく、私の知り合いだというと、それだけでその人は好奇心の色メガネで見られたりするのだ。
私はでき得るかぎり、人にめいわくをかけたくない。
つづいてチラシの文句、
「……劇団○○○○の常連メンバー○○○○さん(私の名前)、公演では、
『舞台から投げられたロープに首をしめられ、客席から這いあがる役』
『リアルすぎるホームレス』
『あやしい教祖』
『占い師』
『妻と娘に毒リンゴを食わされる王様』
など、一度見たら忘れられない異彩を放つ名(怪)優。
内田康夫ミステリー文学賞では、○○○○(私の別名)のペンネームで大賞に輝く、正体不明のおじさん……
実は、戦中の『慰問演劇』、戦後は歌舞伎からアングラ演劇、浅草あたりで客引きしたり、活弁、紙芝居、立ち絵と、庶民の芸能にも精通、江戸末期からの芝居の歴史も研究、その正体は?……誰も知らない。
公式に学ぶ『演劇史』には出てこない、近代演劇の地下水脈を歩いてきた氏ならではの貴重なお話しを聞く機会を作りました。
興味のある方は、ぜひご参加下さい。
十九時から二十一時までの二時間。
参加費は、五百円。……」
とまあ、チラシの文句は、以上である。
公式にも非公式にも、私にはみんなの前で演劇史などを語る資格も知識もまったくないので、二時間のうち三十分以上を、立ち絵の「ご存知・鈴ケ森」を、できるだけたっぷり演じて(これはいささかの自信がある。これだけで五百円の値打ちはある)時間をつぶし、あとは戦後すぐの時代、私が劇団○○の役者として、「ドン・キホーテ」「宝島」の旅役者にひろわれて、日本全国を巡演して歩いていたときのエピソードを、おもしろおかしくしゃべってごまかそう、という作戦をたてた。
戦後すぐというのは、昭和二十一年、つまり一九四六年のことである。
いまから七十年もむかしの話だったら、たいていのことは風化していて、どんなでたらめをしゃべっても、大法螺を吹いても、ばれる気遣いはない(ああ、やっぱり私はいかがわしい男だ)。
と、私がこんなことを思いついたのは、昨夜、NHKの深夜便というラジオ放送をきいていたら、文化座の佐々木愛さんが出演していて、戦中戦後の劇団のことを語っていたからである。彼女は、一言でいえば、劇団生まれの劇団育ちの女優さんである。
そのラジオでの最後の話で、私も六十七歳になりました、と佐々木愛さんが言ったのにはびっくりした。
へえッ、あの清楚な美少女、佐々木愛もそんな年になったのか!
私は、愛さんのお母さんの鈴木光枝の舞台を見ている。
私の母親と鈴木光枝とは、幼な友達であった。
鈴木光枝が井上正夫の井上演劇道場へ入る以前、そして女優になってからも、私の母は彼女のことをよく覚えていて、ときには得意げに私に語った。
いや、いまはそういうことを書くときではない。
ただ、佐々木愛の戦後の、純粋にして高潔な劇団生活の話は、八十歳の私を感動させた。
くらべて(くらべるまでもないけど)私の戦後すぐの生活なんて、志(こころざし)低く、貧しく、どろどろと通俗の汚泥の中に浸ってうごめくその日ぐらしであった。
話が横道に外れたので、もとのチラシの文句にもどす。
私の略歴のなかに、
「……浅草あたりで客引きしたり……」
とある。
なるほど! と思った。
浅草あたりで客引きしたり……と紹介されると先年亡くなった浅草の通人(つうじん)吉村平吉さん(私たちは平さんと呼んでいた)の姿を彷彿とさせる。
つまり、夜のおねえさんのところへ男を案内する「客引き」である。
私がやった客引きは、それとはいささかちがう。いや、かなりちがう。
きわめて単純なものである。寄席(よせ)の前で通行人に対し、大声で誘う呼び込みである。
つまり、寄席の芸を楽しむ演芸好きの通行人を呼び込むための客引きである。
私は、ざんねんながら、平さんのような、粋で色っぽい客引きの経験はない。しかし、
(待てよ)
と、思った。このチラシの、
「浅草で客引きしたり……」
という一行は、言い得て妙で、濡木痴夢男のこれまでの仕事は、べつの意味で、まさしく「客引き」ではなかったか。
客引き人生。
平さんの粋なお色気世界での客引きは、だれにでも内容が理解でき、納得できて、ときには「勲章」扱いされる仕事だが、私がやってきた客引きは、難解で、フツーの世間一般の人々には、とても納得できない、特殊な客引きである。
説明しようと思っても説明できないしろものであり、うっかり口にすることができない。へたをすると、とんでもない誤解をされる。誤解をされることは避けたい。
うっかり言えないので、とどのつまり「正体不明のおじさん」になってしまうのである。
「正体不明のおじさん」。
まあ、このへんが、私にぴったりのネーミングであろう。
(つづく)
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