2010.8.5
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百四十六回

 美濃村晃のやさしさ


 なかなか書けない。
 書き出しの、最初の一行が、書けない。
 なまけているのではない。
 私は、気まぐれなことこの上ないが、性格としては、怠惰ではないはずだ。
 原稿を依頼されて、そのしめきり日に、これまで遅れたことはない。
 が、こんどばかりは、どこからどのように書き出したらいいか、迷っている。
 書き出すときの、自分の立ち位置、姿勢にとまどっている。
 こんどの原稿は、全部書き上げると、四百字詰め原稿紙で、六百枚前後になるのではないかと計算している。
 つまり、その位の枚数で、きっちりまとめようと思っている。
(もちろん、書いてみないと全くわからないことだが)
 なぜ書けないのか。
 書かねばならぬことが、多すぎるのだ。
 私は彼と、あまりにも深く、まじわり過ぎた。
 だらだら書いてはいけない。
 美濃村晃という人間を、効果的に、鮮明に表現しなければならない。それが私の義務である。一言半句といえども、無駄な表現はゆるされない。
 となると、やはり書き出しの瞬間がむずかしい。
 美濃村晃の絵に対する私の心構えを、ゆるぎのない、明確な姿勢できめておかねばならぬ。
 そのことだけを考えながら、私はこの数カ月間、四六時中、書こうという気力だけは充実させてきた。
 たとえば、数日前から、私の所属している劇団の、新作のけいこが始まった。
 私はその芝居を休むことができない。どうしても参加しなければならない。
 新しい台本を前にして、二十人近い人間が一室に集まっている。
 台本を声に出して読みながら、私は頭の片隅では、「美濃村晃の世界」の、書き出しの一行を考えている。
 書き出しの一行。書き出しの一行。
 頭から離れることがない。
 突然、具体的な一行が、そして、それにつらなる数行が浮かび上がることがある。
 だが、いざとなると書き出せない。
 あせりみたいなものも、わずかだが感じはじめている。
 きのう、飯田橋の風俗資料館へ「秋吉巒・悦楽郷の幻影展」を見に行った。この展示会のサブタイトルは「知られざる秋吉巒の世界」である。もちろん、これも「美濃村晃の世界」と密接な関係がある。
 そのあと、有楽町のピカデリー・1で、アメリカ映画「ソルト」を見た。
 前評判のいい映画なので、満員御礼の札止めではないかと危惧していたのだが、客席には四分の一ほどの空席があった。
 両足をのばし、半分ねそべったような形で、楽にアンジェリナ・ジョリーの、どアップの顔を観賞することができた。
(月に一、二度、あるいは二、三度いくジプシー一座の、いつも超満員で熱っぽい人間たちの体臭渦巻く客席とは、たいへんな違いである)
 風俗資料館の中原館長に、やや濃いメイクをさせると、アンジェリナ・ジョリーみたいな顔になることを発見した。
 こういうことを彼女に言うと、
「えッ、それって、どういう意味ですか、どこがどう似てるっていうんですか!」
 たちまち柳眉を逆立てるので、うっかり口には出せない。
「ソルト」は、だましたり、だまされたり、まただましたり、だまされたりの、後味のわるいスパイ映画だった。
 だましたり、だまされたりするのも、もちろん快楽の一つにちがいないし、多くのドラマはそれで成り立っているので、私は嫌いではない。
 だが、それをこのように徹底的に、巧妙な演出でリアルにやられると、人間て、なんていやなものだろうと思えてくる。
 アメリカって、なんてイヤな国だろうと思う。
 そして私は、そうか、人間というものは、やはり、おたがい、信じ合わなければいけないな、と日頃の私らしくない感慨を抱いてしまう。
 アンジェリナ・ジョリー扮する女スパイは、毒蜘蛛を飼っている昆虫学者の夫と愛し合っており、そこのシーンだけはちょっとほのぼのするのだが、あとはなんとも冷酷で殺伐なシーンの連続である。
 銃を使った殺し合いのシーンの、
「ババーン、バキューン、ブスッ!」
 という重苦しいリアルなサウンドも、気持ちわるい。腹にひびく。
 あの威圧的な音を快感と感じる人は、病んでいるとしか思えない。
 そうだ、こんど横浜の歴史博物館でやる「立ち絵」のとき、私は、クッキーの丸い空缶に黒い紙を貼った太鼓を鳴らそう。
 あんなリアルな「ブスッ、バキューン!」よりも、ブリキと紙の太鼓の「べこん、ぼこん、べこん、ぼこん」という、チープな音のほうが、人の心を和ませる。
「ソルト」を見ているときも、私は頭の片隅で、「美濃村晃の世界」の書き出しを考えていた。
 スクリーンにエンドマークが出て、場内が明かるくなったとき、私は、愛とやさしさをいっぱいに秘めた「美濃村晃の世界」を書こうと思った。
 私は「愛」という表現も、文字自体も、じつはあまり好きではない。
「愛」と言ってしまうと、人間の感情、動作、交流、なんでもかんでも「愛」で説明がついてしまう。
 これも愛だよ、それも愛なんだよ、と言われると、それでなんとなく納得したような気分になり、言われたほうもそれで納得し、うすっぺらな形で解決してしまう。
(この「おしゃべり芝居」のなかで私は「愛」という文字をほとんど使ってないはずである。意識して「愛」を避けている)
 もうだいぶ以前のことになるが、「性科学」と称する本をたくさん出しているT・Tという「学者」がいた。
 私は、そのT・Tの口から、
「喜多玲子というのは男で、この男は、女をいじめる責め絵ばかりを描いている。それは、女に裏切られた過去があり、女を憎悪するあまり、この男は女を縛る絵ばかり描いているのだ」
 という言葉をきいている。T・Tは自著のなかにも、そういう解説文を書いている。
(いうまでもないことだが、喜多玲子とは、美濃村晃のことである)
 こういう俗説は、いまでも世間に流布されている。
 私はこんどの「美濃村晃の世界」で、その誤りを正さねばならない。
「ソルト」というアメリカ映画を見て、私は思いましたね。
 決心しましたね。
「愛」は、あいまいだけど、やはり、いい言葉です。
 人の心を、おだやかにさせます。
「美濃村晃の世界」の文章は、「愛」を底流に秘めて書こう、と私は思いました。
 美濃村晃が、いかに人間を愛し、女性を愛し、そして自分の妄想する欲望を、正直に愛したか。
 彼は、やさしい男だった。
 本当に、心のやさしい男だった。
 どんな女性に対してもやさしく、差別をせず、包容力があった。
 そのやさしい男がなぜ、女を縛っていじめる絵を好んで描いたのか。
 あの自称性科学者のように、女性に裏切られて憎悪するあまり、責め絵ばかり描いた、と解釈してしまえば、話はかんたんである。
 女性に裏切られるどころか、美濃村晃ほど女に愛され、慕われた男を、私は他に知らない。あんなやさしい男が、女に嫌われるはずはないのだ。
 やさしかったからこそ、あんなにも繊細で美しい線の女体が描けたのだ。彼はサディストどころか、そばで見ていると、女王様に仕える奴隷のように思えることがあった。
 あまりのやさしさに、私はそばで見ていて腹が立ち、我慢できなくなって文句を言ったことがある。
「須磨さん(美濃村晃の本名)、だめだよ、あんな女にやさしすぎるよ、あの女はね、須磨さんにやさしくされるような女じゃないよ。そんなにやさしいとバカにされるよ」
 そうだ、あのやさしさを描こう。
 丸の内ピカデリーを出て、九階から一階までゆっくりとエスカレーターでおり、有楽町駅へむかいながら、私は昨夜、そう決心したのだった。
「ソルト」があまりにもつめたく、だましあいの映画だったせいで、私は逆に刺激された。
 美濃村晃の絵にひそむ「愛」を深く深く掘り下げて、それをテーマにしよう。
 それしかない。
 何かにすがるような気持ちになって、そのことばかりを考えて歩いた。
 姿勢をしっかりときめて机にむかい、書き出しの一行と、こんどこそ真剣に取り組んでみようと思った。

つづく

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