濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百四十八回
名曲喫茶がまだあった
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前回この「おしゃべり芝居」を書いているときに、中原館長から電話をいただき、「奇譚クラブ」の旧号を入手した、という知らせをうけた。
それは、昭和二十四年一月五日発行、同年二月二十五日発行、同年四月十日発行の三冊で、とりあえず表紙だけコピーしてそちらへ送るから見てくれということである。
すぐにFAXでそれが送信されてきた。
河出書房新社からの依頼で「美濃村晃物語」(仮題)シリーズを執筆中の私にとって、それは声をあげて飛び上がりたいほどの朗報であった。
というところまで前回書いた。
そしてきのう、その三冊よりもさらに古い「奇譚クラブ」を入手した、という知らせを受けた。私はすぐに飯田橋の風俗資料館へ行った。
「美濃村晃が『奇譚クラブ』の編集をまかされる以前の『奇譚クラブ』が見たい」
ということを、以前から中原館長と話し合っていた。
つまり、美濃村が参加する以前の「奇譚クラブ」が、どのような形のカストリ雑誌だったのか、それを確めたかったのだ。
こんど出版される予定の「美濃村晃物語」シリーズは、濡木痴夢男と中原るつの共著なのである。そして中原るつが占める位置は重要である。
中原館長は、執筆者として資料を手もとに置くのは当然だが、同時にまた、風俗資料館として資料の一つに揃えねばならない、と日頃から言っていた。
いや、それよりも何よりも、美濃村が参加する前の「奇譚クラブ」を見てみたい、美濃村以前の「奇譚クラブ」に触れることは、これまで美濃村の陰にかくれてよく見えなかった吉田稔という社主兼編集長の正体を知ることになる。
美濃村晃と吉田稔は、どのような信頼関係で結ばれ、変態性愛誌の花を開かせることができたのか。
私などの目には、まさしく豪華絢爛たる背徳の花であり、夢のように咲き誇ったのだ。
その異端の気配満ちる前の「奇譚クラブ」は、どんな形のものであったか、興味あるなあ、と折りにふれて中原館長と私は語り合っていた。
昭和二十二年(一九四七年)軍隊からもどってきたばかりの青年美濃村晃を原石とすれば、吉田稔は、その原石についていた泥をぬぐい、磨いて宝石にしたのだ。
磨くといっても、口先であれこれ指示したりしない。教えたりもしない。
この原石は、放っておいてもおのずから光り出し、輝き出すにちがいないと信じ、吉田稔は黙って見ていたのだ。黙って見ていることが、この原石を光らせるには最良の方法にちがいない。
そして、そのとおりになったのだ。
やや、いつのまにか話が横道に外れてしまった。
さらに古い「奇譚クラブ」を入手したという中原館長からの知らせをうけて、私は風俗資料館に行った。
まさしく、それはあった。いまから六十数年前の、敗戦直後の、質の悪い仙花紙でつくられた、うすいうすい雑誌があった。
うすいがゆえに、私は感動した。どんなにうすい雑誌でも、活字の印刷がかすれていても、この中には心にずっしりとひびく重いものがこもっている。
いま発表されている電子書籍なるものが、六十数年後、どうしても見る必要があって手に取ったとき、こういう感動があるだろうか。そんな感動なんて必要ない。感動なんかよりも、機能的で便利だったらいい、という時代になっているだろう。
昭和二十三年三月二十日発行(NO.5)
同年五月二十日発行(NO.7)
同年十月十五日発行
中原館長が新たに入手した「奇譚クラブ」の旧号は、この三冊である。
六十数年前、最も物質の欠乏していた戦後に作られた紙は、当然、劣化し、変色している。
そばで私の手もとをみつめている中原館長が、細い首をのばして、たちまち強い声を発する。
「ページをめくるときは、そおっと! 気をつけて! ていねいに、ゆっくりと!」
「はい、わかりました!」
私は思わず小学生のような返事をしてしまう。だが、またすぐに茶褐色の紙のページにひきこまれてしまう。
「うん、これはおもしろい、凄いよ。『美濃村晃物語』の最初のところ、もっと書きたさなければならない。これを書き落とすわけにはいかない!」
吉田稔の顔が、目の前に浮かぶのだ。
私は吉田稔にも数回会っている。
堺市菅原通り四丁目三十の曙書房へ、私は作家気取りで、和服を着て、わざわざ下駄をはいて訪ねていったのだった。
吉田稔は温厚な小柄の紳士だった。柔和な笑顔の底に、きらりと光る知性と気骨が感じられた。このとき私は二十四歳。
いまの風俗資料館の近くの神楽坂の喫茶店の中で、二時間も向かい合ってしゃべったこともある。このときの私は「裏窓」の編集長だった。
昭和二十三年の「奇譚クラブ」の奥付に触れたとき、吉田稔の姿が、ふわりと私の前に現われた。そして離れなくなった。
そうだった。
昭和二十八年十一月号から「奇譚クラブ」の寄稿者となった私へ、終始誠実な態度で接してくれ、郵便局経由できちんと原稿料を送ってくれたのは、美濃村ではなく、吉田稔だったのだ。私はもっと吉田稔について書かなければいけないのかもしれない。
だが、美濃村晃が登場する前の「奇譚クラブ」を書くことを、河出書房の編集部はゆるしてくれるかどうか。
美濃村晃と、その仕事を書いてくれと、私は河出書房から言われている。
いや、ゆるしてくれなくてもいい。いけないと言われたら、あとでそこだけ削ればいい。とにかく書こう、と私はきめた。書かずにはいられない。
一時間後、水道橋駅近くの喫茶店「白十字」の中で、私は落花さんと向かい合っていた。私はカレーライスとホットコーヒー。落花さんはサンドイッチとアイスコーヒーを注文した。
JR水道橋駅から神保町へむかって落花さんと歩いていたとき、その「名曲喫茶」は、むかしのままの姿で、奇跡のように残っていた。
「何十年か前、ずいぶん数多く、この店へ入ったよ」
と私がつぶやいたとき、
「入りたい、この店へ入りたい」
と落花さんは駄々っ子のように言ったのだ。
私はこの店で都築峰子に会っている。中川彩子と会っている。江渕晃夫に会っている。森下高茂や阿麻哲郎に会っている。中田耕治に会っている。エダ・キリコに会っている。それからA子にもB子にもC子にも会っている。近くに東京三世社のビルがあったのだ。そのビルの五階のスタジオで、「SMセレクト」の撮影を終えた帰り、何人かのモデルとこの店でコーヒーを飲んだ。
そうだ、「撮影同行記・モデルさまざま」の原稿も、何本かはこの店のテーブルで書いている。
いまから四十年むかしのことだ。あのころの若く初々しかったモデルも、もうみんな六十歳前後になっているはずだ。おそろしいことだ。
どんないいことをやっても、悪いことばかりやっても、楽しくても、楽しくなくても、人は平等に年をとり、死んでいく。
私はいま、不老長寿の薬をのんでいる。髪の毛は黒々となり、量も増えて長くのび、なぜかオッパイが大きくなっている。ふくらみかけた少女の乳房のような形になっている。不老長寿の薬のせいだと思う。
「名曲喫茶」の店内は、昭和二十三年の「奇譚クラブ」のページのように沈んだ茶褐色で、他に客の姿はない。
暖房がよくきいている。店内は静かであたたかく、私は落花さんとしゃべりながら、上着をぬぎ、無意識のうちにシャツの裾から左手をさしこみ、自分のオッパイを指でいじっていた。ちかごろ、こんなことをやるのが癖になっているのだ。
シャツのえりもとをはだけて、右手でそのオッパイをつかみだし、落花さんに見せた。
「キャアッ!」
と言って落花さんは上半身をよじり、大きくのけぞった。
私たちは笑った。
来月は落花さんと日生劇場の「摂州合邦辻」(せっしゅうがっぽうがつじ)と、国立劇場の「仮名手本忠臣蔵」を見にいくのだ。
(つづく)
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