2010.12.30
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百五十一回

 古い小屋をたずねていきます


 落花さん。
 きのう、あなたとお別れしてから、まだ時間が早かったので、映画を見ようと思い、あの映画館の前まで歩いていき、すこしのあいだ考えていました。
 アメリカ映画の「ハングオーバー!」と、アメリカ・イギリス合作の「ヤギと男と男と壁と」という、ちょっと魅力的なコメディ二本立て。
 上映開始時刻もちょうどよかったので入りかけました。でも、やめました。
 ここのところ、河出書房から依頼されている原稿「美濃村晃物語」(仮称)の執筆を中断したままです。
(ウェブ・スナイパーとか、SMネットとかの原稿執筆が入ってしまったので)
 よし、このまままっすぐ帰って、「美濃村晃物語」のつづきを書こう、と決心しました。
 駅へ向かう途中、ブックオフへ立ち寄り、文春文庫の辺見庸の「赤い橋のぬるい水」を一冊買いました。
 二百五十円の定価がついていたので、三百円出したら、百七十五円のお釣りがきました。半額特売日ということなのです。
 安い! 安くて申しわけない。
 吉本隆明が解説文を書いているので、それを読みたかったのです。
「赤い橋のぬるい水」は、今村昌平が映画化したのも見ています。なんだかゾクゾクするような、おもしろい映画でした。
 電車に乗ったら、お腹がすいてきました。
 すると、秋葉原駅の、駅中(えきなか)の「梅林」の、あのおいしいかつ丼が目の前に浮かびました。
 たべたい!
 すこしでも早く部屋にもどって、遅れている原稿にとりかからなくてはならない、という気持ちと、梅林の七百五十円のかつ丼をたべたいという気持ちが、私のなかで激しくせめぎあいました。
 私は卑しい人間です。
 十五分後、私はそのかつ丼をたべていたのです。
 おいしくておいしくて、涙が出そうになりました。これはまさしく快楽だ、と思いました。
 ま、考えてみれば、この店のやや甘い感じのかつ丼が、私の口の好みに合っているというだけの話です。
(そういえば、永井荷風も近所の食堂の、好きなかつ丼をたべながら死んだのだっけ)
 それから梅林の向かい側にあるコーヒーショップで、二百五十円の熱いコーヒーを飲みました。これもおいしい。ワインなんかもあります。
 飲んだり食べたりするテーブルが中央にあって、その周囲に十店近いさまざまな店が並び、客は好きなものを選んで自分で運んで勝手にすわってたべる。
 数年前から、あちこちでできている、そういう形式の店です。日本そば屋も中華スナックも、パン屋も揃っていて、ごちゃごちゃしているようだけど、店内のインテリアなんかも新鮮で気がきいていて、一見おしゃれな感じの、いまどきのフードコーナーです。
 かつ丼をたべたあとの熱いコーヒーをのみながら、辺見庸と、吉本隆明の文章をゆったりと読むというのは、なんともぜいたくな快楽で、至福といってはオーバーかもしれませんが、まことにいい気分のものでした。
 このコーヒーショップで、じつは、四日後の午前十一時、私は落花さんを待つのです。そして、ここを出発点として、一日を楽しく過ごすのです。
 四日後の午前十一時ジャストか、あるいは十一時五分前か、あるいは十一時五分過ぎに、あなたはいつものように黒い帽子をかぶって、私の視界に、ニコニコ恥ずかしそうに笑いながら現われるのです。
 私の姿をみつけると、帽子の下の目をハッと大きくひろげ、左手(なぜかいつも左手)の三本指で恥ずかしそうに自分の唇をおさえ(指が三本しかないというわけではない、ちゃんと五本ある)、それから首と肩をわずかに左へくねらせながら、そのまま二、三歩よろめくようにいったん後ろへ下がるのです。そしてまた、もとの位置にもどってくると、こんどははっきりした笑顔で、
「おはようございます」
 と言って頭を下げ、私のほうへ近づいてくるのです。
 この日(つまり四日後)、私があなたを案内するのは、いつもの浅草ではなく、私もほとんど行ったことのない、東京から離れた未知の某所です。
 いえ、その、駅を中心とした繁華街には、何年か前に私は何度か行ったことがあります。映画館などもたくさんありました。
 だが、地図で調べたところ、私があなたを連れていくのは、駅から約二十分、あるいは三十分ほど歩いた距離にある、繁華街から遠い位置の場所なのです。
 私とあなたはタクシーなんか乗らずに、仲良く手をつないで、歩いてそこへ行きます。
 はたして迷わずにその未知の場所へたどりつくことができるでしょうか。でも、東京から離れた知らない街の、まだ歩いたことのない道を、不安と、なにかしらの期待を抱きながら二人で歩くのも、ちょっと刺激的ではありませんか。楽しくないはずはありません。楽しいにきまっています。
 私とあなたがたどりつくそこは、あまり繁昌していない貧しげな商店が並ぶ通りの片隅に、ひっそりと息をしている、古びた木造の二階建て。あるいは、ところどころ剥げ落ちたモルタル塗りの、みすぼらしい建物です。つまり、小さな芝居小屋なのです。
 え、モルタル塗りってなんだ、というのですか?
 私も正確なことはよくわからない。
(みればすぐわかるのだけれど)
 辞書をひいてみます。
 モルタル塗りというのは、セメントに砂をまぜ、水でねったもの。石・れんがの接合、壁、ゆかなどの仕上げに使用、とあります。
 ま、要するに、あのザラザラした感じの、シミだらけの褐色の建物ということです。
 とはいうものの、私はその芝居小屋を、実際に見たわけではありません。
 見たことがないから、期待をこめて見に行くのです。
 わびしい芝居小屋のモルタル塗りのうす汚れた外観というのは、私の妄想です。
 そうであったらいいな、と思う私の夢想です。小屋の前に、赤や緑や黄色や紺に染められた役者幟が数本立っていたら、最高にうれしい。
 それはむかし私が、藤見郁のペンネームで書いた小説「痴女の棲む二階」シリーズの白鬚劇場のイメージなのですよ、落花さん。
 そして、そういう小屋で演じられる芝居は、きっとそういう小屋にふさわしい内容のものだと思います。
 この数年間、毎月(あるいは月に二度も三度も)落花さんと一緒に見ている浅草の、あのいつもの超満員の客席の爆発的な声援の中で、死物ぐるいの熱い演技をみせてくれる人たちが、東京を離れたわびしい舞台へきて、どういう芸を演じてくれるか。
 それを確めたい気持ちもあって、私はたずねて行くのです。そして、そういう舞台を、あなたに見せたいのです。
 東京を離れた一座が、浅草と同じような熱演をして見せてくれたら、もちろんうれしいし、心からの拍手を送るし、逆に手をぬいているところを露呈してしまっても、私はそれはそれで納得できます。
 浅草の舞台で昼夜演じるあの人たちの芸は、私には、誇張ではなく、いのちがけに見えます。
 一カ月のあいだ、一人一人が、おのれの持っている精魂と体力を百二十パーセント使っていると思います。
 あれを二カ月間つづけたら、あの人たちはつぎつぎに、バタバタ倒れると私は思っています。倒れても不思議ではない。
 あの人たちの舞台を中心とした生活は、人間の体力と精神力の限界を超えた凄絶なものだと私は思います。
 あれは、それほど緊張感に充ちた、過酷な芸です。ですから、浅草を離れた土地で、あの人たちがどのような息ぬきをするか、それを見てみたい気もします。
 え、なんですって?
 それはあまりにも意地悪な興味だというんですか?
 はい、わかっています。
 もの書きというものは、元来意地悪で残酷な心の持主です。
 でもね、落花さん。
 もしかしたら……これは本当にもしかしたらですが、東京から離れた、古い街の古い小屋にくる古いお客の好みに合わせて、「継子いじめ」とか、因果物の古い芝居を、ひょいと見せてくれるかもしれませんよ、落花さん。

つづく

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