濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第十六回
「女相撲」の資料すこし
|
|
2004年(平成16年)に引越してきたときの書籍、資料類を入れた段ボールの箱が仕事部屋のあちこちに、まだ、積みかさねたままになっている。解くひまがない。
必要があって、たまに一個ずつ箱をあけ、中のものを、使う分だけ取り出し、あとは未整理のまま、つみかさねておく。
その本の山が、なにかのはずみで、くずれる。すると、思いがけない資料が、ひょっこり出てくる。
きょう、また出てきた。「女相撲」に関しての資料の一部である。少数派の人にとっては、貴重なはずである。
私も過去に、べつのペンネームで「SMセレクト」誌に、女相撲の小説をいくつか書いている。
わずかばかりの資料だが、これはRマネージャーに預けねばならない、と思った。
私はもう先がない。今年はどうやら生きられそうだが、来年あたりは死ぬかもしれない。なにしろ年である。
何を言ってるんですか、不吉なことを言わないでください!
と、Rマネは細い眉をつりあげて怒るだろうが、そろそろ八十歳近くなっているのだから仕方がない。Rマネの年齢は、私の半分にも達していない。
これまでに私の秘蔵の「SM資料」を、すこしずつ預かってもらっているが、この「女相撲」も、いまのうちに渡しておいたほうがいいと思った。
長いあいだこういう仕事をしている関係で、いわゆる「SM社会」の交友範囲は多いほうだが、信頼して資料を預けられるのは、Rマネしかいない。これらの資料を読んで理解する力量は、Rマネのほうが私より上である。この資料を生かして使う裁量もある。
秘蔵のものを安心して渡せる相手がいるというのは、私にとって、しあわせなことである。
永年苦労してあつめた資料を、当人が死ぬと同時に、家族の者に捨てられたという話を、私は結構たくさん知っている。
のこされた家族の者にとって、ときに、それらの遺品は、「忌まわしいもの」に違いないだろう。ゴミ同然に投げ出されてしまうことが多い。「マニア」というものは、どこまでいっても孤独である。
安心して資料を預けられる「同志」がいるのは、しあわせである。私は、Rマネにもっと感謝をしなければいけない。
私の知る限りにおいて、死んだ当人の秘めたる「趣味」が、その子供に遺伝しているという事実に、出会ったことがない。
資料とはいっても、今回突如として出現した「女相撲」関係のものは、私のあつめた中の、ごく一部である。
「女相撲」に関しての資料は、私の部屋のどこかに、まだひっそりと隠れているはずである。
たとえば、「女相撲女優」の中村京子からもらった、むかしの女相撲興行の古い番付のポスター(コピーだが)が入っている袋が、どこかにひそんでいるはずである。
きわめて珍しいその番付は、SMビデオの撮影で、中村京子の自宅を借りたときに、
「濡木さんに、これ、あげる」
といって、彼女が私にくれたものである。私が秘蔵するたいせつな資料の一つになっている。
その番付の中に勢揃いしている女力士たちの名前を見ていると、「女相撲」の小説のストーリーがむくむくと湧いてくるのだ。
私は小学校三年位のとき、母に連れられて遠い親類の家へ泊りがけで遊びに行った。夏休みだった。そこは、茨城県・土浦市のはずれの広い農家で、近くの神社で祭礼の最中だった。
境内に建てられた掛け小屋の中で、私はホンモノの「女相撲」の興行を見ている。触れ太鼓を叩いて歩く、情緒たっぷりの町まわりの情景も実際に見ているのだ。
その女相撲の小屋のとなりに、異形のものばかりを見せる見世物小屋があり、私はそれも見ている。
成人してから私は、そういう異なるものにとり憑かれて、見世物小屋めぐりをするようになるのだが、その性癖はこのころから芽生えていたように思う。
女相撲興行町まわりの触れ太鼓のあとについて歩いた子供のころのことを書きたくなったが、長くなるので、それはあとにする。
いまは「資料」のことを書かねばならない。中村京子はそういう貴重な「資料」を、私に気前よくくれたが、彼女は気っぷのいい、姐御肌の女である。新宿ゴールデン街にある彼女の店はいつもにぎやかで繁昌している。十年位前「緊美研」でも、中村京子主演で、何本かビデオを撮っている。彼女は熱演してくれた。
また話が横道にそれてしまった。どうもいけない。今回は「女相撲」の資料のことをテーマに書こうと思っていたのだ。
出てきた資料の袋の中に、1994年(平成6年)みなと座で公演した「女相撲」――憧れのハワイ場所――のプログラムがあった。これは全国22ヵ所の劇場、ホールで公演された芝居で、私は池袋の東京芸術劇場で観ている。
このプログラムの中に、「女相撲回向院興行」と題して、明治23年11月、東京両国で行われた女相撲についての読売新聞の記事を要領よくまとめて紹介している文章がある。
これが私にはたいへんおもしろい。さまざまなイメージが浮かびあがる、貴重な資料の一つとなった。いまはもう絶対に見ることのできないホンモノの女力士たちの姿を、生き生きとよみがえらせることができるのだ。
これは劇場だけで売られているプログラムなので、読むチャンスのすくない文章だと思われる。そこで、このプログラムを作成された方(編集人は室岡一郎と記載されている)へ、敬意と、感謝の念を送りつつ、全文を掲載させていただく。
-----
女相撲。明治に生きたお年寄りの話では、それは綺麗で、頼もしい女力士だったという。明治二十三年十一月、両国回向院での興行を追った読売新聞の記事を頼りに、私たちも少しばかり女相撲の世界を覗いてみたい。
●まずは興行の予告記事(八日付)
……今度羽前回山形より現出せし、女力士二十余名は、単に角力のみにあらず、其他の撃剣、柔術、力持等をも兼業せる……特に大関遠江灘という女の如きは、頗る歯力ありて、二十七貫目余の土俵を前歯にくわえ、左右の手に四斗俵を引提げて土俵の上を徐々往来する程の大力にて、明九日より両国回向院内に於て興行するという。其番付は左の如し……
東 西
大関 富士山よし 大関 遠江灘たけ
関脇 北海道きわ 関脇 東海道もと
小結 妹背山ぎん 小結 日高川くの
前頭 唐獅子きん 前頭 鯱鉾 なえ
同 金龍山かん 同 日光山やすき
同 淡路島なみ 同 珊瑚珠さき
同 蒸気船はや 同 八丈島えん
同 電燈 わか 同 千石舟つむ
同 大鳥山とめ 同 電信 いま
同 金剛山きく 同 入舟 とり
●蒸気船、電燈、電信のしこ名が、明治らしく面白いが、この予告、思わぬ変更となる(十日付)
……力士等の乗込み都合あり。昨朝直江津より汽車に乗じ、同夜着京する旨電報あり。之が為め、初日は来る十三日に延引の趣なり……
●巡業移動には思わぬアクシデントがつきものである。ともあれ十三日から始まったこの興行、初日の様子を見てみよう。「花櫓娘角力」と見出しのつけられた二日連続の記事である(十四日・十五日付)。
……女角力は、いよいよ作十三日より開場しやるが、その概略は櫓土俵を設け、力士の塵手水、その他仕切口等、総て普通角力と同様なるが、力士は一様に銀杏返しに髪を結い、頬に紅粉を粧い、いずれも半股引に肉襦袢を着用して半身をおおい、金紗模様に各自記名の化粧廻しを胸高に締め込み、まず目見えとして土俵入りとなし、それより角力二番勝負六番あり。
次は妹背山大力腹櫓にて、二十貫目、二十二貫五百目、二十三貫目の土俵三俵を腹に受け止め、之に金剛石きくの上乗りは大喝采を得て、それよりまさに二番勝負、次いで飛付三人抜き勝負は、妹背山勝抜き賞を得やるが、いずれも華々しき活発な取組にて、大いに観客の興に入り、初日に珍しき大入りなり。さて右勝負中主なると略記すれば、最初、北海道は、ちょっと仕切り一、二回の化粧立ちありしが、双方激しく突張り或いは離れて挑み合う内、東海の一本背負い、残るとブツダン返しにて北海の勝。
二番目は見事背負い投げ、東海の勝。第三番目は互いに暴れ廻り、ちょっと左四つに番い、押合いしが、双方の体一変に反り橋潰れて勝負なく、更に取直しやるに首投げにて北海道の勝となる。
日光山に鯱鉾は、左四つにて一本背負い、鯱の勝。二番目は背負い投げ、三番目は空出し、日光山の勝。
日高川に妹背山は、最初寄り、次捻りて妹背山の勝。
金龍山に入舟は最初踏切、次櫓投げにて金龍山の勝。
富士山に八丈島は、初めツキ返し、次蹴返して、両度とも富士山の勝。
妹背山に遠江灘は、寄りて妹背山の勝。
次に同力士の大力腹櫓を一覧に供し、それよりまさに富士山に東海道の立会い。互いに突合い或いは離れ、小手先にて暫時挑む内、富士より仕掛けし一本背負い残りて、反対に東海道の背負い投げ極まる。
二番目は同じに双方激しく突合う内、東海一身に力を込み、シャニムに寄り行き、富士既に危うかりしと土俵際に反り身となって辛く防ぎ止め、そのまま寄り返すと、東海いまや返されながらに敵の左足を軽く取って、見事後へ投げ退き、充分勝と思いの外、富士の体ひと廻りして残り、後より突出しやるに、東海憤然として富士に飛び掛からん見幕なるが、行事中に入て引分け、更に勝負をさせしに、遂に富士山の勝となりしは、中々面白き勝負なりき。
北海道に遠江灘は、最初北海道の勝。次は北海の合掌を突放し、遠江の勝は立派なりき。それより飛付き三人抜きありて中入りとなりけり…
……中入り後は、富士山よしの五人力の芸にて、最初一人を背負い、二人を左右に脇挟み、一人は前面に付着し、之に一人上乗りとなさしめ、都合五人の力士を一身に受け、鳴物を連れて軽々しく土俵を往来せり。その働きは如何にも大力と思われぬ。
次でかねて好評の遠江灘の歯力の技芸にして、まず土俵の貫目を検査し、太夫は自ら場の中央に進み、屈みて前歯を以て二十五貫目の俵をくわえ、ウント総身に金剛力を入ると見えしが、忽ち重量の土俵を両膝の上にくわえ上げ、それより反り身となりて漸時胸部まで上げ、徐々と二、三回土俵を巡るに、始終手を使用せざるは、あっぱれ大関と拍手喝采を得たり。
それより相撲甚句手踊り……大切りとして仙台の住人、妹背山の力持ちあり。まず太夫は上向きとなり、之が腹の上に土俵六俵と三十二貫目の臼を積み重ね、左右よりして杵を以て餅をつき、其の餅を観客に供して打出しとなりしが、昨二日目、観客中より花を投じ、頗る好景気なりき……
●激しい取り組みと力技、唄に踊り。溌刺とした女力士たちと観客の熱気が伝わる。休む間もないと思われるほど、精一杯、力一杯の毎日。力士の土俵外の表情を拾ってみよう。
……力士等は今迄田舎に生育ちしものゆえ、切り立ての衣類羽織を着し、表付きの駒下駄を履き、顔に紅粉を粧い、髷に結ぶ事等は、臍の緒切って今回が初めてなるよしにて、一昨日は回向院門前の坊主、鶏肉屋(しゃもにくや)丸屋の主人が女力士を招き、売物品の大判振舞を為しやる為、一同大満足なりし(十八日付)……その際、主人は女相撲のことなればとて飲食物に注意を加え、一通りの出しものの外に、小判形半台にうず高く盛り上げたる鶏肉七枚を出し、充分に勧めしも、彼らは出京初めての饗応なれば、多少遠慮なせる様子なりしに、その中両三名は可成り達者に認められければ、或る人富士山よし子に向い、随分飲めるようだが幾等位飲めると問いしに、富士山は莞爾として、妾は下戸故、ようよう一升位なるが、八丈さんは上戸ですから、一升五合位にては稽古の邪魔にもなりますまいと語りし(十九日付)……田舎に在りし頃、定めし四斗俵位手玉に取るは無造作なりしならんと力士に尋ねたるに、全く技芸は力量と異なるものにして、外観の割合に自力は弱いものなりと答えし(二十日付)。
●二十七日、文字どおり体を張っての回向院興行は急に幕を下ろす。警視庁からの差し止め命令である。櫓太鼓も力士の名前の入った垂れ幕も取り外され、相撲は禁止、力芸と手踊りだけは続けてもよいとのことであった。とかく見せ物視されている女相撲だけに、肝心の相撲が取れなくなった力士たちの思いはいかばかりであったろう。明治二十三年の回向院興行は、こうして終わった。
(引用文中の句読点・旧字等は適宜加筆、修正してあります)
-----
以上が、1994年、池袋の東京芸術劇場で演じられた早坂暁作、みなと座による演劇「女相撲」のプログラムの中の文章である。
400字詰め原稿紙8枚に及ぶ文章が、一ページの中に文字を小さくしてぎっしりおさめられている。
最後に括弧して「引用文中の句読点等を修正しております」と断っているが、私はここに再録するために、さらに行替えをした。読みやすくするためである。しかし現代人にはこれでも読みにくかっただろうと思う。
しかし、いい文章である。私は書き写しながら、女力士たちの一生けんめいな生きざまに、なんども目頭が熱くなった。彼女たちが相撲を取り、力芸を演じる姿は、どんなに迫力があり、まじめで、いじらしく、そして美しかったろう。
通俗的なエロティシズムを超えた彼女たちの美しさが、この文章から充分に感じとれる。明治時代に書かれたこの新聞記事を、いま現代の文章になおすと、それだけでマニアもよろこぶ女相撲小説になる。私はいつかそういう作業をやってみたいと思う。
そして、いまひそかに計画している同人誌「少数派の美学」にのせようと思う。以前のように、「SM雑誌」が、SM愛好家のためにあったころだったら、私のこの「女相撲小説」などは、すぐ掲載されることだろう。
いまは「女相撲」などをのせる「SM雑誌」は、皆無といっていい。女力士の股間に、バイブを挿入したまま相撲を取らせる小説でも書いたら、のせるかもしれない。
もちろん、そんなことをしたら、女相撲の真実の美しさ、エロティシズムは消滅してしまう。美しくエロティックに緊縛した女体に、バイブをねじこむのと同じことである。
書くのを忘れた。かんじんの「女相撲」の舞台は、私がみたところ、プログラムの一ページの中におさめられた「女相撲回向院興行」の文章に及ばなかった、というのが正直な印象だった。
なによりも女優たちに、女力士の風格と心根、そして情感がなかった。残念だった。だが、プログラムの中の一ページは、私にとって貴重な資料となって残った。
私はこの小冊子を劇場内で三部購入し、一部を京都の女相撲研究家・雄松比良彦氏に送った。「女相撲史研究」という、内容の濃い、立派な御本の著者・雄松氏との交友は、項を改めて書くことにする。
(つづく)
濡木痴夢男へのお便りはこちら
|