濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百六十四回
撮影まであと三日
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撮影を三日後にひかえた夜、中原プロデューサー、山之内幸カメラマン、早乙女宏美と、そして私の「ともしび」同人、四人が一室に集まって、最後の打ち合わせをやった。
この三時間半のおしゃべりの楽しかったことは、筆舌につくしがたい。
あたりまえだ。
私だけが男で、私を取り巻くのは、一芸に秀でた美女ばかりなのだ。私はハーレムの王様みたいなものだ。
そして、この夜集まった全員が「緊縛写真」に、ゆるぎのない情熱を抱いている。
いい写真をつくりたいという強い欲望に燃えている。
つまり、私たちの心は、誇張ではなく、一つの目的にむかって結び合っている。
私がこの上なく充実した、あたたかい幸福感に包まれて一刻を過ごせたのも道理である。
ここで私がこんなことを言っては、思い上がりとも、傲慢ともとられるかも知れないが、この夜じっくりと深いところまで話し合ったメンバーは、「緊縛」に関して、私と全く同レベルの感覚をもつ、信頼にたる人物ばかりであった。
私は心置きなく彼女らと語り合った。この夜ここに美濃村晃がいたとしたら、彼女たちのアブ感覚の深さ、高さ、鋭さに、涙をながして喜んだことだろう。
私はしゃべりながら、ときおり美濃村晃の存在を感じていた。私たちが好むものは、しょせんは徹底した「こだわり」の観念世界なのだ。だから、つねに孤独である。
私は彼女たちと語り合いながら、美濃村晃に声をかけていた。
「……須磨さん、いまから四十年前、いや五十年前に、あんたが縛り、あんたが撮った数々の写真、ああいう写真を愛し、ああいう写真を撮りたいと念願して、いまここに、こんなに熱心な、けなげな女性たちが集まって、楽しくしゃべり合っているんだよ。この場の情景を、ひと目、あんたに見せたかったな」
須磨というのは、美濃村晃の本名である。
そして私はふと思いついた。
そうだ、私がたいせつにしてしまってある、美濃村晃と椋陽児、島本春雄と私の四人が一緒に並んで写っている四十数年前の写真、あれをアルバムから切り取って、中原るつ館長の手に渡しておこう。私がやがて消滅すると、あの写真も消滅してしまう。この風俗資料館の中におさめておくのが一番いい。美濃村晃も、椋陽児も、島本春雄も、きっとあの世でよろこんでくれるだろう。
この夜、私は、
「一つの意志につながった人間が、こんなふうに和気あいあいと一室に集まって語り合うことができるなんて、奇跡みたいなもんだよ。うれしいなあ。ありがたいなあ」
というような意味の言葉を、何度か口にした。
この夜の私は、孤独ではなかった。
単なる趣味人の集合を超えた、クリエーターとしての内容の濃い、デスカッションの一夜であった。
ここまで書いたとき、中原るつプロデューサーから電話があった。
「……昨夜の話のつづきなんですけど、田丸がヒロミの空腹を思って、外のコンビニへ弁当を買いに行くでしょ、家の中へ一人のこされたヒロミが、男のいないときに、なんとか逃げようとしてもがく。だけど、後ろ手の縄は柱につながれていて、逃げることはできない。なんとかして縄を解こうとするヒロミの意志、その動き、拘束されている柱から逃がれようとあせる女の悶える姿、その表情、さまざまなポーズ。そして、どうしても縄が解けないことを知ったときの落胆、絶望、あきらめ、悲哀。さらに男に対する怒り、憎悪のシーンなんかを、こまかく表現したいですね。セリフの入らない無音の写真だからこそ、適確に表現すれば、見る人たちに自由でゆたかなイメージを、ドラマティックに与えることができると思います」
「うん、そうですね。そこは一つのクライマックスの見せ場だから、じっくりとていねいに山之内カメラマンに撮ってもらいましょう」
と応じながら、私の頭の中は、そのシーンの早乙女宏美の動きのあれこれをイメージしている。
そのイメージ以上のものを、あと三日後の早乙女は演じてくれるだろうと思いながら。
そして私は、るつプロデューサーのその電話での言葉をヒントにして、さらにイメージをひろげている。
「……どうしたんだい、たべないのかね、奥さん。せっかくおれが、わざわざコンビニへ行って弁当買ってきてやったのに、お腹すいてないのかい。たべないと体に毒だよ、うふふふふ……。そうか、長いあいだ縛られていたから、手首が痺れていて使えないのか。よしよし、それじゃおれが、たべさせてやろう」
田丸、割り箸を使って、ヒロミの口へ弁当の飯粒を持っていく。
ヒロミ、顔をそむけて抵抗。くやしい(うん、これはいいシーンだぞ)。
田丸、ヒロミのくやしがる顔を見るのがうれしい。
さらに、ヒロミの舌をはさんでなぶったりする。その割り箸の先とヒロミの舌のアップ(というイメージが、いま湧いた)。
つぎに、ペットボトルからお茶を飲ませようとするシーンのイメージに展開する。
ヒロミの唇の端から顎に、そのお茶がこぼれ、流れていくアップ。ヒロミのくやしそうな、哀れな表情。
うん、そうだ。田丸という男は、こんな意地の悪いことをしながら、口先だけはバカていねいで、妙に腰の低い人間にしよう。
そのほうが、いやらしさと、卑しさがでる。つまり、卑屈な男なのだ、そして卑劣な。
お茶をすこし飲んだあと、ヒロミは田丸にむかい、トイレに行きたいと訴える。
田丸、ヒロミを柱から離して、縄尻をつかんでトイレへ引き立てる。
ここでヒロミの排尿シーンを、直接撮るようなことは、したくない。ぜったいに、したくない。
それは排尿排泄マニアの、華麗でせつなく、愛しいイメージ力、妄想力を破壊し、マニアたちの詩的なロマンティシズムを裏切ることになると思うからである。
トイレの中に押し込められ、閉じられたドアのすきまから、ヒロミの羞恥と、男への恨みの表情を見せたい。それだけにしたい。
るつプロデューサーと電話で交わした会話から、このようなイメージがつぎつぎと湧き出して、とまらなくなる。
しかし、いくらイメージをふくらませても、こまかい動きや、アングルは、当日、撮影現場に立って、早乙女に実際に呼吸してもらわなければ、当然きまらない。
三日後には、その当日がくる。
もう一度、縄の手入れをしておこう。
この「縄」についても、るつプロデューサーからの提言がある。
今回は、この田丸という卑劣な変態男が、はじめからヒロミを縛ろうと企んで行くのだから、自分で「愛用」の麻縄を持参するのは、まあ、当然であろう。
しかし、現在ではもう麻縄なんてしろものは、めったな場所では見られない。存在しない。
存在するはずのないところから、いきなり麻縄が出現して、女性が縛られる写真や映像があり、見ていてたしかにおかしい。違和感がある。
この種の趣味的な写真や映像に対し、そこまでリアルに考えることもないと思うが、考えなければ不都合な場合もある。
るつプロデューサーが言うように、たしかに「商業緊縛」用の麻縄を使わなくても、十分に魅力的に、官能的に、拘束感を表現できる縄、紐の類は、他にいろいろある。
縛るのは、なんでもかんでも麻縄、というのは、ほんとうに、バカの一つ覚えといっていい。
えッ? なんだって?
麻縄こそ最高、と、それを最初に言いだし、何年も言いつづけてきたのは、濡木痴夢男ではないか、とおっしゃいますか?
はあ、それを言われたら、ハイ、そうです、すみません、そのとおりです、と頭を下げるより仕方がない。
ですから私は「麻縄フェチ」を自称してきた。
でも、つい最近、私は街の洋品店の店先に、三メートル近い長さの、うすい生地のスカーフが、二百円で売られているのを見て、すぐに買った。幅は三十センチほどである。
そのとき私は、落花さんと一緒に歩いていたのだ。スカーフを買った一時間後に、私はラブホの中で、そのスカーフを使い、彼女を後ろ手に縛っていた。
「縛られ心地はどう?」
と、私がきくまでもなく、彼女はもう半分失神していた。
これは、ウソではないのです。
冗談みたいですけど、ホントの話です。
この場合は、人に見せるための縛りではない。
まったくプライベートの快楽ですから。
プライベートの場合は、おたがいに気持ちがよければいいのです。
田丸に縛られ、どんなに意地悪くいじめられても、ヒロミは決していい気持ちになってはいけません。
ここでヒロミがいい気持ちになってしまうと、話はまったく違う方向に展開してしまいます。
それはそれで、うまく描けば、おもしろいものになりますけどね。
(つづく)
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