2011.5.9
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百六十五回

 満足度百点満点


 撮影も、そしてその結果にも、私はたいへんに満足した。
 いまの私のこの満足感、満足度を、どのように表現したらよいのか、わからない。
 自分の貧しい文章力が、腹立たしい。
 表現する言葉がみつからないほど、私は満足しており、うれしい。
 よくもまあ、三人が三人とも、私の言うこと、望むところを、きっちりと正確に理解してくれ、それぞれに咀嚼して動いてくれた。
 三人とも大車輪の活躍をしてくれた。
 見事という他はない。
 私の言うことを理解してくれた、という以前に、三人とも、そもそも私と同じ感覚と意欲をもち、同じ目的と成果をめざして、迷うことなく、一途に突っ走ったということだ。
 今回の撮影の目的を、私は例によってこの「おしゃべり芝居」の中で、ずいぶんしつこく、くり返して書いた。
 三人とも、それを本当によく読み込んでくれた。そして、実行してくれた。
 いや、こういう言い方は、三人に対して傲慢であり、無礼というものであろう。
 もともとこの三人は、私と同等の緊縛美感覚を備え持つ逸材だったのである。
 それが絶好のチャンスを得て、いちどきに花開いたのである。
 いや、花開くというような、なまやさしいものでなく、私の目からみると、猛然と炸裂し、爆発したかのように思えた。
 緊縛美感覚などというものは、教えようと思っても、教えられるものではない。伝えようと思っても、伝えられるものではない。
 たとえば、縄の使い方ひとつにしても、私が教えたことを忠実に真似して縛ったところで、本当の緊縛美など生まれるはずはないのだ。
 形だけ似たものになるのが、せいぜいである。最もたいせつな魂は不在である。
 それを承知の上で、もっともらしく縄のテクニックなどを解説してきた私の、不実な、いい加減な性格。卑劣な世渡り。
 しかし、それをここでは言うまい。

 早乙女宏美は、さすがであった。
 私の意志をしっかりと受けとめ、自分のものとして、縛られた女の内面を表現してくれた。
 早乙女のこの日の表現の一つ一つのみごとさを、ここに記録しておきたいのだが、文章力が拙劣なために、うまく書けない。残念である。
 撮影終了後、私たちは赤札屋という居酒屋でビールを飲み、この日の感想を述べ合った。
「早乙女を便所の中へ連れ込んだとき、あそこで服の裾をまくりあげたりして、便器をまたがらせるショットなんか撮らなかったのがよかっただろう」
 と、私は得意まんまん、鼻の先をうごめかして三人に言った。
「そう、あそこよかった、よかった、ほんとによかった!」
 と、山之内幸カメラマン、そして中原るつプロデューサーが異口同音に叫ぶ。
 撮影時の興奮が、余韻となってまだ全員に残っている。
 このときつぶやいた早乙女の一言がよかった。
「あそこでは、裾をまくられないほうが、みじめで、恥ずかしい気持ちになるのよ」
 裸にむいて、尻なんか突き出させて、排泄シーンを直接撮ったりしたら、せっかくの被虐エロティシズムが台無しになってしまう。
 なんでも裸にすればいいと思うのは大間違いである。
「そうだよ。お尻を見せるよりも、後ろ手に縛られて、せまくてうす暗い便所の隅に立ちすくむ着衣姿のほうに、おれたちのいう被虐美があるんだよ。きょうはそれを実証したね」
 美女三人に囲まれてビールを飲みながら、私はますます陶然となる。
「おしゃべり縛り」の一六四回にも、私はこう書いている。

 ……お茶をすこし飲んだあと、ヒロミは田丸にむかい、トイレに行きたいと訴える。
 田丸、ヒロミを柱から離して、縄尻をつかんでトイレへ引き立てる。
 ここでヒロミの排尿シーンを、直接撮るようなことは、したくない。ぜったいに、したくない。
 それは排尿排泄マニアの、華麗でせつなく、愛しいイメージ力、妄想力を破壊し、マニアたちの詩的なロマンティシズムを裏切ることになるからである。
 トイレの中に押し込められ、閉じられたドアのすきまから、ヒロミの羞恥と、男への恨みの表情を見せたい。それだけにしたい。
 実際の撮影は、このとおりに進行した。
 つまり、私のイメージどおりになった。
 私のシナリオを、ただシナリオどおりに忠実に撮影したというのではなく、三人が三人とも、このシナリオに心から共鳴し、熱く燃えあがって撮ったのだ。
 お尻をまくられ、排泄ポーズをとらされるよりも、着衣のままで縛られ、便器のそばに立たされたほうがみじめな気持ちになり、恥ずかしいと早乙女は言い、作品はそのとおりに、被虐の情感をみせて仕上がった。
 この便所シーンだけでなく、彼女たちは全シーンにわたって一糸乱れず、私のイメージどおり、狙いどおりの情感をもとめてキビキビと動き、それぞれが自分の仕事に魂をそそぎこんでいた。
 いちばん動きがにぶく、もたもたしていたのが、高齢である私であった。

 山之内幸カメラマンは、はじめから堂々とカメラを構え、自信たっぷりの重厚な動作でシャッターを押しつづけていた。ほとんど声を発しなかった。
 百パーセント自然光だった。人工的な照明はいっさい使わない。
 被写体に対する幸カメラマンの姿勢には、寸分のためらいも、迷いもなかった。
 自分の信じる美意識の中に、全神経を集中させているかに見えた。
 目の前にうごめく被写体の被虐美を純粋にとらえようとして、幸カメラマンは全感覚を凝固させ、身じろぎもしなかった。
 そのゆるぎのない姿は、私を安心させた。うれしかった。私の目にくるいはなかった、と思った。
「ともしび」にとって最良の、最強のカメラマンだと私は思った。
 幸カメラマンは、縛られて目の前に呼吸する早乙女に対して、一言の指示も与えなかった。
 無言のまま、表現者である早乙女宏美の表現と対決した。
「おしゃべり芝居」一六〇回の中で、私は書いている。

 ……でき得るかぎり、自然の流れの中で撮影をすすめよう。
 カメラマンがモデルにむかって、
「あっち向け、こっち向け、顎を上げろ、顎を下げろ、眉と眉を寄せて、悲しそうな顔をしろ!」
 などと命令する声が聞こえそうな、安易なつくりものの写真だけは絶対に撮らないように、みんなで気をつけよう。
 カメラマンが指示する声だけしか感じられないようなものは、緊縛写真としては最低のものだということを、改めて心に刻みつけよう。
 私がしつこくうるさくくり返してきたこの種の注意書きを、たとえ読まなくても幸カメラマンは、すでに十分に心得ているはずであった。
 縛られたモデルの動きに対して、あれこれとこまかく命令し、モデルのせっかくの個性を殺してしまうカメラマンの「愚」。
 女の内面のおののきを表現しようとせず、生きた個性を封殺して人形扱いにしてしまっては、緊縛写真の情緒も情感もあったものではない。
 緊縛写真は、けっして残酷写真ではない。
 ときに、感傷過多のロマンティシズム写真なのだ。
 終始、自然光の中で、無言のうちに、自信と緊張感をもってシャッターを押しつづけた山之内幸カメラマンのこの日の作品の出来ばえは、四日後にわかることになる。
 幸カメラマンが撮った作品を、中原るつプロデューサーが印画紙に拡大プリントし、それをまず、私たち仲間内だけで鑑賞するための集いを持ったのだ。
 この夜、私たちがそれぞれに発した感動の言葉を、ここに記録しておこうと思ったのだが、自画自賛になってしまうので、遠慮しておこう。
 写真の中で、田丸(濡木)が、ヒロミ(早乙女)の口にサルグツワを噛ませるシーンは、とくに中原プロデューサーが動画で撮影し、これは圧巻であった。
 これまで見たことのない、すさまじい迫力と真実味があり、まさしく、圧巻と形容する他はない、凄愴華麗なシーンであった(と、やっぱり自画自賛になってしまった)。

つづく

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