2011.6.24
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百七十回

 撮影延期とテルシのこと


「木賊(とくさ)の庭」の撮影当日。
 集合時刻の三十分前に駅前のコーヒーショップへいくと、まもなく山之内幸カメラマンが姿を見せ、いつになく緊張した表情で私の前にすわった。
「どうしたの?」
 ときくと、アクシデントです、昨夜おそく隣家のご主人が急死したんです、と言う。
 その隣家と山之内邸とは棟続きで、庭もつながっている。
 朝元気で出勤されたご主人が、その夜急に亡くなられたという事態では、さぞあわただしい状況になっていることだろう。
 山之内家と隣家夫婦との日常のつきあいも、当然あるはずである。
「それじゃ撮影なんかしてる場合じゃないなあ」
 と私は言い、そこへ中原プロデューサーとモデルの早乙女宏美がやってきた。
 二人ともケータイ電話での連絡で、山之内邸隣家の異変を、すでに知っている。
(ついでにいえば、私だけがまだ、ケータイも、パソコンも持っていない)
 きょうの撮影は中止にして、つぎに四人のつごうのいい日を、相談してきめることにする。
 気の合っている仲間なので、相談することもなく、話はすぐにまとまり、三週間後ときまった。
 このコーヒーショップに真先に到着すると同時に、私はハンカチに包んだものを、テーブルの中央に、やや意味ありげにのせておいた。
 そのハンカチの包みの中には、きょうの撮影のために、きのう私が晒布(さらし)で作った「てるてる坊主」が、四個ならべて入れてある。
 おおってあるハンカチを取り除くと、山之内、中原、早乙女四氏の目の前に、てるてる坊主が四人、顔をならべ、体を寄せ合った姿で現われるという仕掛けである。
「いいかい、いまおれが、このハンカチをひらくから、みんな、ウワッとか、ヒャーッとか、キャーッとか大声出すんじゃないよ。ここは喫茶店の中で、他にもお客さんがいるんだから」
 言いながら私は、もったいぶった指先で、テーブルの上のハンカチの四隅をつまんでひろげた。
「ヒャアッ、キャーッ!」
 三人の美女の中で、いちばん甲高く絶叫したのは、意外にも中原プロデューサーだった。
「可愛いい!」
 と、みんな口々に言いながら、人形をのぞきこむ。
 私は黙って、ニヤニヤしている。
 予想どおり、期待どおりの反応であった。
 三人の美女は、それぞれカメラを取り出し、テーブルの上に横たわる四個のてるてる坊主を撮影する。
「これ、先生が作ったの?」
 と、口々にきく。
 返事をしなくても、私がこういうこまかい小道具を作って悦に入る性格を有する人間だということを、とうに知っている仲間たちである。
 四人のすわっているテーブルが、ひとしきり華やぐ。
 思わぬアクシデントで気勢をそがれていた女性たちの心が、八十一歳の男が作ったてるてる坊主で、すこし持ちなおす。
 これが一座を束ねる人間のディレクションというものだ、と私は内心得意になる。
 同時に、こんなことで得意になっているおのれの軽薄卑小さを意識して、ひそかに苦笑もしている。
 指先が多少器用なだけの小細工人間として一生をすごした男。
 いや、この期(ご)に及んで意識過剰か。自虐にすぎるか。

 コーヒーショップと同じビルの中に、こぎれいなパスタの店があって、そこでみんなで昼食をとり、きょうは解散ということになった。
 山之内邸の隣家のご不幸には申しわけないが、妙にのんびりした気分になり、昼食とおしゃべりの時間を、たっぷり楽しんだ。
 撮影という共同作業がないときでも、私たち「ともしび」の仲間は、寄り集まって、ときに楽しむ。
 会うことが楽しみである。
 これは内緒だが、たとえば四カ月後には、この四人が同じホールの同じステージに立って、大勢の観客の前で「話芸」を披露したりする。
 三週間後に、ふたたびさっきのコーヒーショップに集合することを約束して、解散となった。
 山之内カメラマンは、当然自宅へ。
 早乙女も自宅へ。
「さあ、私たちはどうしましょうかね。この時間を利用して、東劇へいくか、それとも浅草の芝居小屋へいくか」
 と私は中原氏に言った。
 どちらも近いうちに行かねばならぬことになっている。
 東銀座の東劇では「スクリーンで観る高座・シネマ落語」というサブタイトルで「落語研究会・昭和の名人」の第二回目を上映している。
 私も中原氏も、第一回目を見ている。
 今回は、志ん朝、馬生、圓生、正蔵というなつかしい顔ぶれの、いまは亡き昭和の噺家の、映像にのこされた高座姿である。
 等身大よりも二倍も三倍も大きな高座姿は、迫力があり、微妙な演出がよくわかってたいへんおもしろかった。
 だが、シネマとしてのこされている以上、きょうでなくてもいつかは見ることができる。同じものを見ることができる。
 生身(なまみ)の人間が舞台で演ずるナマの芸は、その日その日がちがう。
 とくに中原氏と私が好んで行く芝居は、日が変わると、同じものを見ることができない。
 数時間後、私と中原氏は、浅草の芝居小屋の客席にすわり、舞台のテルシをみつめていた。

 テルシは、私も中原氏も待ちかねていた役者であった。
 待ちかねていた、などというより、待ち焦がれていた、といったほうが正確かもしれない。
 待っていなければ、私たちの目の前に現われない一座であった。
 私も中原氏も、とうっかり書いたが、中原氏がどれほどテルシのことを思っているか、私の心は彼女の心と同一ではないから、わからない。
 待ち焦がれていた心が同一、などと独断することは、彼女には不本意かもしれない。
 で、彼女の思いとはべつに、私が感じたままのテルシを書く。
 テルシは、強烈な個性をもつ役者である。
 その圧倒的な個性は、他では見ることができない。
 私の目の前に、テルシの姿が浮かびあがる。二メートル近くもありそうな長身。細くて大きい。私はいつもテルシの顔を見上げている。
 ……ここまできて、私はテルシのことを、どう書けばよいのか、わからなくなった。
 で、しばらく考えてから、また書き継ぐことにする。

つづく

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