濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百七十一回
長身痩躯のナルシシスト
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山之内邸の隣家のご主人が早朝に急死されたという不幸な事件があって、予定していた山之内邸での撮影を延期してしまった。
山之内邸と隣家とは、庭と塀にさえぎられているだけの近距離にある。
私たちの撮影が、あわただしい状況の中の隣家に迷惑およぼさないはずはない。
集合場所のコーヒーショップにやってきた私たち「ともしび」の仲間は、そういう理由があって本日の撮影はやむなく中止、昼食を共にしてから解散となった。
そこでプロデューサーの中原氏と私は、その日の午後、テルシの舞台を見ることにしたのだが、この行動は、単なる娯楽のためだけではない。
テルシの壮烈な生き方に接して、私たちは彼から刺激をうけたかったのである。
彼の仕事ぶりからは、私たちの撮影の仕事、その他の活動に共通するオーラを、私も中原氏も感じている。
テルシが全身から放つオーラというものは、尋常ではない。
普通ではない不思議な魅力を放つがゆえにオーラというのであろうが、さて、このオーラという、日頃私たちが安直に使っている言葉を、あらためて日本語で説明しようとすると、どういえばいいのだろう。
ちょっと気になったので、二、三の辞典を引いて、たしかめてみた。
オーラ[aura] ①生物から発散すると信じられている流動体、心霊学上の用語、特殊な蛍光版を用いると写真に撮ることができるといわれる。②独特の雰囲気、微妙な気分。(集英社刊・日本語になった外国語辞典)
オーラ 人の持つ雰囲気のこと。または、生物から発散された生体エネルギーのことで、特定の人間には目に見えるといわれている。(日本実業出版社刊・カタカナ用語の意味がわかる辞典)
オーラ 人や物がかもし出す気、なぞめいた雰囲気、心霊学でいう霊気、アウラ。(集英社刊・イミダス付録、外来語・略語辞典)
というわけで、辞典による説明の一つに、「なぞめいた雰囲気」というのがあるけど、その「なぞ」の種類が、もんだいなのである。
テルシには、身辺にただよわせている、その「なぞ」に、なんともいえないエロティシズムがある。
男の私が見ても、脳内の一部分がジーンと痺れ、どこかを吸われるような妖しい色気を感じるのだ。
この感じ方は正常ではなく、自分でもいささか不気味だと思う。
たとえば私は歌舞伎をよく見るが、人気絶頂の若くりりしい二枚目や、いまを盛りの艶麗な女形を見て、美しいとは思うが、このテルシから受けるような、皮膚の表面を鋭い刃物でスーッと傷つけられる痛みにも似た感動を得たことはない。
うっかり痛みと書いたが、痛みは感じない。傷つけられても、痛くない痛みなのだ。
痛いどころか、こころよいのだ。痛いというより、疼くといったほうが正確だろうか。
テルシは長身で全体的に細く、手足や腰の動きがしなやかである。形が美しく立派であるだけでなく、うまい役者である。修業によって得た演技力ではなく、瞬間的に、天性とも思われる切れ味のいいうまさを見せる。
テルシは美男子だろうか。
クセのある顔だが、美男子にちがいない。
百八十センチ以上もありそうな長身でありながら、女形をやるのだ。
あでやかな女形舞踊を達者につとめ、客席から喝采をうけるのだ。
体の動きが柔軟なので、女形の踊りとしてのソツはないが、顔にはやや険がある。
頬骨が高く、鼻梁はやや鉤鼻である。顎はとがり、心持ち長い。
眼窩はすこしくぼみ、まなざしは鋭い。
客席にむかって流し目をおくり、それはそれで十分に妖しく色っぽいのだが、まなざしの鋭さは消すことができない。
しかし、達者な演技力と相俟って美しい。
目のすみに鋭さのある妖しい官能的な美しさに客席はうっとりする。
私のとなりにすわる中原氏もうっとりした顔で眺めている。臆病な私は、テルシのこの美貌に危険めいたものを感じ、ときどき彼から目をそむけたりする。
こういう女形なので、生娘や若い女に扮しての踊りはやらない。濃密な色事を暗示する、たとえば不倫の匂いをただよわせる年増女のような舞踊が多い。
いきなり女形舞踊のテルシを書いてしまったが、彼が扮して最も格好よく似合うのは、女形ではない。
着流しの黒羽二重(くろはぶたえ)の衣装で、大小二本の刀を落とし差しにした浪人者である。
しかも、いかにも無頼渡世の荒廃を身につけた浪人者は、つねに殺気を秘めている。
テルシの舞踊ショーをいくつか見てきているが、私の脳裏から離れ得ぬ一場面がある。
「大利根無情」の歌にのって、浪人・平手造酒(ひらてみき)に扮したテルシが登場する。凄愴のオーラがたちまち舞台にみなぎる。
ご存知、江戸は神田、千葉周作道場の俊才とうたわれながら、酒に溺れて身を持ちくずした剣の名人で、いまは労咳に病み疲れ、博徒の用心棒に落魄した、みじめな姿である。
舞台は、博徒飯岡方と笹川方の喧嘩の場である利根川の土堤。
長身痩躯、肺病のための蒼白陰惨な顔で、すこし踊る。
その左右から決闘相手の飯岡方の博徒たちが現われる。
テルシは大刀の柄に手をかけ、すこし腰をひねって反り身になる。
この身構える瞬間が、たまらなく格好いい。斜め前方にのばした片足の、草履ばきの素足の指先までそりかえらせるのだ。
(この芝居小屋はあまり広くないので、首をのばせば客席から役者の足の指まで見えるのだ)
抜刀したやくざどもが、いっせいに襲いかかる。
テルシは大刀を抜き放ちざま、そのやくざどもの四、五人を、一瞬のうちに斬り倒す。
このときの動きに無駄も隙もなく、手さばき、足さばきがあざやかで美しい。
まことに洗練された殺陣(たて)である。
ひと呼吸で五人を斬り倒し、さらに格好よく形を決めると、すかさず客席から、
「テルシ!」
と声がかかる。するとその瞬間、悲運の剣士・平手造酒の全身は、さらに密度の濃いオーラに包まれ、まぶしいほどの光彩を放つ。
(ちくしょう、やるなあ!)
私は心の中で、感嘆せずにはいられない。
ひそかに隣席を見ると、中原氏も私と同じくまばたきもせず、テルシを凝視している。利根川の土堤に立つ、黒羽二重姿の浪人に心を奪われている。
テルシという役者は、おそらく殺陣が得意なのであろう。憎たらしいほど自信たっぷりである。
おのれの長身痩躯、そして彫りの深い顔形と、オーラを放つ眼光を計算した演技。
私は舞台のテルシを眺めながら、この役者が深夜、一人、刀をぬいて、鏡の前で、いかに格好よく相手を斬るか、それをひそかに研究している姿を想像している。
逆境に生きる孤独な剣士が、破滅を知りつつ突きすすむときの殺陣が、いかに客席にいる人間の心を魅了するか、彼はいやらしいほど熟知しているにちがいない。
役者はだれでもナルシシストだが、このテルシはどんでもなくずばぬけたナルシシストだ。
緻密な彼の計算(というよりは、これはおそらく彼の天性の感覚だろう)にのせられ、私も中原氏も、満員の客席のすべてが、他愛なく酔わされている。
酔うことが気持ちいい。酔うために入場料を払っているのだ。
自分の芸に酔う客席を確認するとき、同時にまたテルシの心も舞台で酔っているのだ。
そのナルシシズムに包まれた彼の自己陶酔が、ときに、われわれの目に、怪しいオーラとなって映るのか。
彼の殺陣を見るとき、私は子供のころから中年を過ぎるまで慣れ親しんだ新国劇の殺陣を思い浮かべる。
刀をかまえる辰巳・島田のさまざまないい形が、まぶたの裏によみがえる。
(じつをいうと、テルシの殺陣は、その若い年齢と美しい容姿ゆえに、ときに辰巳・島田を凌駕する)
さらにまた、いまから六十年以上もむかりになるが、浅草公演劇場における剣劇・金井修一座の殺陣を思い、同時期の浅草昭和座における梅沢昇一座の殺陣に、せつない思いをはせる。
私は、なにをぐだぐだ書いているのだ。
テルシの殺陣の格好よさを、いくら書いたところで、この一文のテーマに近づくことはないではないか。
いや、すこしは近づくかもしれないが、テルシの特異な魅力について、もっと早くから書かねばならなかった。
それなのに、自分の気持ちの中で妙にもったいぶって遠回りしてしまった。
私と中原氏が、テルシという役者に、なぜこれほど心を奪われているか、それをはじめから正直に、ずばりと書かなければいけなかったのだ。
私たち「ともしび」のたいせつな撮影が延期になったのをいいことに、テルシの芸を見にやってきた、その理由を率直に書かねばならない。
彼の放つオーラが、いかに退廃美の魅力に充ちているか、そして彼が、舞台で血を流すことに、いかに執着する役者であるかを、もっと手ッ取り早く書かねばならなかったのだ。
彼の舞台を見て、そして書き記すことは、私たち自身の仕事にとっても、のっぴきならない刺激となり、貴重な勉強となるからである。
で、つぎにそれを書く。
役者としての普遍的な彼の魅力は、もう大体おわかりいただけたであろうから。
(つづく)
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