2011.8.4
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百七十三回

 ちがうのですよ


 ここに記録しておくほどの内容ではないと思うが、万一、誤解される御仁(ごじん)がいるとこまるので、一言、よけいなことを書きそえる。
 前回の「木賊(とくさ)の庭」の撮影中、悪い高利貸しの男に扮した私が、犠牲者である人妻ヒロミ(早乙女宏美)の口に、手拭いでサルグツワをするときの状況説明文のところである。
 私は早乙女宏美を相手に、こういうシーンを、もう○十年も前から、何回となく演じているので、つい段取りどおりの、慣れ合いの動きになってしまう。
 すると、このドラマの進行係であり、ときに演出家と化す中原るつ氏が、たちまち鋭い声を発するのだ。
「先生、いくら芝居でも、もうすこし指先に力をこめて、力づよくやってください。指がやさしすぎます。そんな小手先の技巧では、美しく哀れで、残酷で官能的なサルグツワシーンには、とてもなりません! 田丸は何のためにヒロミにサルグツワをしているんですか!」
 表現はいささかちがうが、中原氏はこういう意味のことを言って、私を叱咤するのだ。
(そうなのである。単なる注意とか指示をこえて、もう叱咤そのものの声なのである)
 私は後頭部をガツンとなぐられたように緊張する。
(ようし、ちくしょう、やってやるぞ!)
 指先に力をこめて、さらに念入りに、ぎゅうぎゅうサルグツワをする。
(緊美研時代でも、こんな凄いサルグツワはやらなかったぞ……)
 結果的には、中原氏のこの演出のおかげで、自分でもほれぼれするような、すばらしいサルグツワシーンとなり、私たち「ともしび」の全員は、結果をみて、満足した。
 ただの満足ではなく、大満足である。
 とくに中原氏がメイキング映像として、この場を動画で撮影したものは圧巻である。
 私自身、これほど迫力のある、官能美に充ちたサルグツワ場面を演じたのは、他に記憶がない。腹の底から、うなりましたね。
 だが、誤解されるかもしれない、と思ったのは、ここである。
 前回、このへんの状況を読んで、
「ナルホド、SM関連の撮影の場合、縛りでもサルグツワでも、やたらに本気になって、力をいれて、真剣にやればいいのだ、それがホンモノだ。ホンモノこそいい作品なのだ」
 と、勘違いする人が出てきそうな気がしたのだ。
 そんなアホな人は、まず、いないだろうと思うが、万一ということも考えて、以下よけいな注意を書く。
 中原演出家が鬼のような形相になって、どんなにつよく私を叱咤したところで、「木賊の庭」はドラマであり、サルグツワは台本に書かれた一シーンである。
 そして私は演技者でしかない。
 どんなにリアリズムを追求してみたところで、百パーセント本気になって、早乙女宏美の声と口をぎりぎり封じ込めるつもりはなく、中原氏だって初めからわかっている。
(早乙女のほうにしても、本当に呼吸困難におちいったら、いくら後ろ手に縛られていても、暴れて、私を蹴飛ばして逃げるにちがいない)
 私たちは緊縛ドラマを撮っているのだ。作りものを本気で作っているのだ。
 私は前回にも、つぎのように書いている。

「……じつはこのとき私は、人妻ヒロミを演じる早乙女宏美の反応のほうを気にしている。早乙女は顔が小さく、比例して、口も小さいのだ。丸めた白布を口の中へつよく押しこむと、すぐに喉に達し、呼吸困難になる。
 早乙女の表情の変化を見守りながら、私は指先に力をこめ、中原ディレクターが意図するきびしいサルグツワ場面を演じた。……」

 いかなる責めシーンにも、私はこのように相手の女性の表情を凝視し、責めの演技を加えてきたが、AV系のSMビデオの監督の中には、本気になって拷問シーンを長時間くりかえし、得意になっている人物がいた。
「これだけ本気を出して、ビシビシ手加減なしにしつこくやっておけば、どんなマニアでも満足して買ってくれるだろう、ねえ」
 と、撮影終了後、その監督はうまそうにタバコをふかしながら私に言ったが、私は返事もせずに自分の縄をバッグの中にしまうと、さっさと現場を逃げ出した。耐えられなかった。
 こういう意識と認識しか持たずに、
「自分はSM映像を撮るのが得意だ」
 と誇らしげに言う人物は他にもいる。映像だけでなく、出版物の世界にもいる。
 この種のSM商品制作人間を好んで使う制作会社側の人間も、マニアと呼ばれる人たちの本当の嗜好がわかっていない。
 わかっていないから、残酷拷問股間責め大会みたいな映像を、つぎからつぎへとつくっていた時代があった。
 だが、そういう下半身露出拷問ショーを見せ場とした商品の営業成績がよかったという話を、私はきいたことがない。
 SMマニアがイメージするSMシーンと、開股異物挿入シーンこそがSMだと信じている制作者側との間には、相当な感覚のずれがある。似てはいるが「非」なるものである。
 このずれは、どんなことがあっても重なることはない。どこまでいっても重ならない。
 片方は、ただひたすらに女性器のみを信奉する、いわゆるノーマルな多数派であり、片方が信奉し、執着するのは、女性器以外のところにある。
 おや、話がいつのまにか、また横道に外れてしまった。
 こんなことを書くはずではなかった。
 年をとったせいか、愚痴ばかり書いている。それも、いつも同じような愚痴を。

「木賊の庭」で高利貸しの悪い男(つまり私)が、不幸な人妻ヒロミの口にかける手拭いのサルグツワは、どんなにリアルに見えても演技である。
 演技でなければ、あんなにきれいに揃って、形よく、官能的な美しさをもって、しかも激しい情念をこめて、サルグツワがかけられるはずはないではないか。
 そして、サルグツワをされる早乙女宏美のほうも、無抵抗の悲運な人妻の情念が、表情と全身にこもっていて、見る者が見れば、これは凄い芸だと思うにちがいない。
(ここのところ例によっていささか自画自賛)
 私たちが胸中にふかく抱くSM快楽嗜好の感覚と情念を理解し得ない者が、どんなに本気になって、力まかせに、乱暴に襲いかかったとしても、その行為はただ荒々しく醜怪なだけで、サルグツワ愛好家の心を感動させることはできない。
 ぜったいにできない。
 だから、本気になってやれば最高のものになると、なんでも力まかせに、ムキになって相手の抵抗をねじふせ、激しく暴力的にやればいい、などという性質のものではないのですよ。
 ちがうのですよ。
 そんなものは、ダメなのですよ。
 そういうものは、私たちがイメージする、あの甘い蜜のような、夢幻的な快楽に包まれたSMではないのですよ。

 ここまできて、この一文を書いたことも、なんだかひどく無駄だったような気がする。
 こんなこと、いまさら書かなくても、わかりきっていることではないか。
 ぐだぐだ書いたところで、わかっている人ははじめからわかっているし、わからない人は、いくら説明したところで、結局はわからないのです。
 感覚の世界だから仕方がないのです。説明するだけ、ムダなのです。むなしい徒労なのです。
 だから、わからない人には、私たちの快楽世界の話をしてはいけないのです(と、もう何十年も前から思っていることを、また、改めて思ってしまう)。
 こんなことより「木賊の庭」の撮影記を、まだ半分しか書いていない。
 ようやく前半を終えたところである。
 どこで横道に入り、踏み迷ってしまったのだろう。
 次回は「木賊の庭」の後半を書かねばならない。

つづく

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