濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十回
春雨ラーメンをたべながら
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中原るつ館長と某所で会い、「ともしび」の緊縛写真撮影について語り合った。
「ともしび」の写真集三冊目として予定している「水の感触」の私の台本のことに、話が及んだ。
(同人たちみんなに時間の余裕がなくて、まだ「水の感触」は未撮影のままである。江戸の下町言葉でいうと「恥ずかしいったらありゃしない」というところである)
「私、濡木先生のあの台本については、まだまだ不満があります」
大きな目玉をギョロリと黒光りさせて、中原館長は言う。その顔は、私の目の前三十センチまで接近している。
(そらきた)
と、私は思う。
緊縛写真の撮影に関して、この人ほどうるさい人を、私は他に知らない。とにかくキビシイのだ。それが、いちいち当を得ているから、こまるのだ。
「えッ? えッ? なに? どこが不満? "水の感触"については、おれは必要以上にたっぷりと台本を書き、おれのイメージの中では、もうとっくに出来上がっているんだけどなあ!」
と、私。
水責めのときの縄の使い方の注意まで、私はこまかく書いた記憶がある。
「おしゃべり芝居の中で、先生が書いたあの台本を読んだ人たちの心に、もっと何かの衝撃とか、感動を与えたいんです……」
「うーん!」
と、私はうなった。むずかしい!
そこへ早乙女宏美が現われ、話に参加すると、中原館長の言葉に同意するようなうなずき方をする。
このときは「ともしび」とは無縁の人が近くに寄ってきたので、撮影の打ち合わせは中断。
五時間に及ぶこの日の集まりが終わって、ふたたび中原館長、早乙女宏美、私の三人は、千代田線某駅前の「日高屋」に入って軽く夕食をとる。
春雨(はるさめ)ラーメンセット一人前に、ギョーザを二皿注文し、それを三人で分けてたべるという、なんとも安上がりな夕食である。
「春雨ラーメンというのは、本当にラーメンが春雨なんだ、フーン」
と、早乙女が感心している。
この日、私はつぎの芝居のけいこがあるので、あまりたくさんたべない。
満腹になると、セリフが頭の中に入らない。
(本当をいうと、満腹だろうが、空腹だろうが、セリフ覚えは極端にわるくなっている。年齢のせいである)
来月は二度、ちがう舞台に立たなければならない。
(私のこんな演劇的日常生活については、ちくま文庫の都築響一著「珍日本超老伝」千五百円+税の中に、写真入りでこまかく記述されているので、興味のある方はご参照ください)
中原館長、早乙女宏美、私と、三人は顔をそろえたが、この日山之内幸カメラマンだけは、やっぱり多忙のため、こられない。
「水の感触」も、撮影場所に山之内邸を使わせてもらいたいこともあって、彼女がこないと、話がすすまない。
だが、とりあえず来月の末に撮影しようということを決定した。
山之内邸の都合でこの日が悪かったら、またつぎにのばせばいい。
「ウーン、だけど、その撮影の前日には、夜おそくまで、ハロウィンのパーティがあるんだよなあ」
と、手帳のスケジュール表をみながら早乙女宏美がつぶやく。
「そうか、あいかわらず忙しいんだな、たいへんだな」
と、私は春雨ラーメンをすすりながら、そんな早乙女の顔をみる。
思いなしか、小さな顔がいっそう小さくなっている。
すこしやせたのかもしれない。顔色もあまりよくない。
(おや?)
と私は思った。どことなくやつれた感じのおもざしの中に、妙に色っぽいかげりがある。
早乙女のことを色っぽいなどと思ったことは、じつは、あまりない。
もしかしたら、いまが初めてかもしれない、と私は思った。
休みなく年をかさねたうえに、心身共に多忙の毎日がつづき、いささかやつれの見えるその表情に、若者にはない深味のある疲労と寂寥のエロティシズムが漂っている。
私はその瞬間的に、山之内邸のあの浴室で、縛られて水責めをうける早乙女の姿を、目の前に思いうかべた。
後ろ手に過酷な縄で縛られ、頭から水を浴びせられる早乙女の姿を、前後左右から見るときの、深く暗い凄艶な情景が、くっきりと私の目に見えた。
いまのこの雰囲気がそのまま撮れれば、これまでの早乙女とはまったくちがった、見る者の魂をゆさぶるような、深遠の被虐写真に到達するかもしれない、と私は思った。
この日、夜七時から始まった芝居のけいこを終え、深夜になってから部屋にもどった私は、「おしゃべり芝居」の百七十六、百七十七、百七十八回を読み返してみた。
そこに「水の感触」の台本、撮影メモ、私の心情などが書き込まれている。
昼間会ったときの中原館長の言った言葉が気になっていたのである。
(うん、結構きちんと、こまかく書けているではないか)
と、私は思った。
これ以上、何を書くことがあろう。
私としては、私のイメージどおりに、十分に書けていた。
実際にはまだ撮影前なのだが、読後の私の気分としては、なんだかもう撮影を終えたあとのような錯覚すらおぼえた。
私のイメージとしては、この「おしゃべり芝居」の文章で十分なのだが、中原館長には「水の感触」に対して、べつのイメージシーンがあり、その隙間をどうしても埋めたいのであろう。
一つのテーマを持ったイメージに対する充足感も、隙間の有無も、人によってそれぞれに違う。
違って当然である。
それぞれが抱く作品のイメージの間隙を埋め、ズレをなおすことによって、出来上がってくるものは充実する。
近いうちに、また中原館長と語り合って、「水の感触」の台本、そして撮影時の心構えのたりない部分、考え方の浅い部分を、もう一度、追究してみようと思う。
そのときに山之内カメラマンと早乙女宏美がいれば最高なのだが、いまの多忙ぶりではおそらく無理であろう。
(つづく)
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