2011.10.11
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十二回

 「葛の葉」妄想譚


 前回のはじめのところでちょっと書いたが、早乙女宏美がソロで演ずる舞踊ショー「腹切り葛の葉」を、中原館長、山之内カメラマン、私と三人並んで見た。
 歌舞伎の古典「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」を、現代風にアレンジした、おもしろい構成だった。
 早乙女も気合いをこめて熱演していた。
 翌日、私がエッセイを連載している雑誌の編集長から、FAXがきた。
 次号の校正刷りと一緒に、前夜の感想文がつぎのように書かれていた。
「昨夜の早乙女さんの舞台はよかったですね。さすがは早乙女さんですね。満員のお客さんたちが息をのみ、早乙女さんの芸に見惚れて、酔ったようになって、シーンとして見ていましたね。感動しました」
 と、賞賛していた。
 まず構成がよく、音楽がよかった。
 照明も妖しく幻想的でよかった。
 これまでにも早乙女の自作自演による舞踊は何度か見てきているが、私の右側の席に山之内カメラマン、左側には中原館長という二人の美女にはさまれての観劇は、まことにいい気分のものであり、記録しておきたい気持ちになった。
 つまり、舞台と客席に分かれてはいたが、このとき「ともしび」の四人は、たしかに一つの空間に集まっていたのだった。
 私がはじめて「葛の葉(くずのは)」の芝居を見たのは、本所緑町の寿劇場であり、当時私は小学生であった。
 この東京下町の歌舞伎小屋が、無残な形で消滅したのは、昭和二十年(一九四五年)三月十日、アメリカ空軍による本所深川浅草一帯への無差別爆撃のためである。
 若くて美しくて人気があり、私も好きだった中村鶴太郎という女形が、この夜焼け死んでいる。
 小屋が焼失するまで、私の父親は、小学生低学年の私を連れて、ほとんど毎月、狂言が替わるたびに、この劇場へ通った。
 戦争が激しくなっても、この小屋は芝居をかけつづけていた。
 私は綿(わた)の入った防空頭巾というものをかぶせられて、歌舞伎を見た。
 父も防空頭巾をかぶっていた。
 いまはもうボロボロになっているが、当時の寿劇場の、紙質のわるい、うすっぺらな筋書が、まだ十冊ほど、私の手もとにある。

 この劇場で私が見た「葛の葉・機屋(はたや)」の場は、狐葛の葉が坂東鶴蔵、安倍保名(あべのやすな)が市川新之助、葛の葉姫は当然、鶴蔵の二役早替わりである。
 鶴蔵は小太りのまるまるとした体つきで、美しいとは思えなかったが、狐の正体を現わしてからの身ぶり手ぶりが妖しく、ケレン味旺盛な芝居で、小学生の私の心を魅了した。
 その後、成人してからも、大劇場で演じられる、さまざまな役者の「葛の葉」を見ている。
 キツネが人間の女に化けて、人間の男と夫婦になり、人間の子供を産む、という奇異な筋書は、私の好みであった。
 もともとは古浄瑠璃の「信太妻(しのだづま)」の話が、「葛の葉」伝説になるのだが、この種の異類婚姻つまり人獣交合譚に、どうも私は心をひかれる。好きである。
 坂田藤十郎の「葛の葉」は、彼の扇雀時代から数回見ている。
 文楽の「蘆屋道満大内鑑」も、つい数カ月前に、国立小劇場で見ている。
 これはキツネの動きがおそろしいほどリアルで俊敏で、空中を跳びはねる瞬間はスリリングであった。
 そして、素性が露見したあとの狐葛の葉の悲しみのクライマックス、おのれの子を夫のもとに残して去る別れのシーン……

……アア恥ずかしや、あさましや。年月包みし甲斐も無う、おのれと本性顕わして、妻子の縁もこれぎりに、別れねばならぬ品となる。父御にかくと言いたいが、互いに顔を合わせては、身の上語るも面伏せ。御身寝耳に聴き覚え、父御にかくと伝えたべ。
……我は真は人間ならず、六年以前信田(しのだ)にて、悪右衛門に狩り出され、死ぬる命を保名殿に助けられ、再び花咲く蘭菊の、千年近き……狐ぞや。
……命の恩を報ぜんと、葛の葉姫の姿と変じ、……(中略)いたわり付き添うそのうちに、結ぶ妹背の愛着心、夫婦のかたらいなせしより、夫の大事さ大切さ、愚痴なる畜生三界は、人間よりは百倍ぞや。
……殊におことを儲けしより、右と左に夫と子と、抱いて寝る夜の睦言も、昨夜の床を限りぞと、しらず野干(やかん)の通力も、いとし可愛に失せけるか……(後略)

 この「子別れ」のシーンには、たまらない哀切感があった。
 ここに紹介した浄瑠璃のおわりの数行が表現する嘆きの感情は、とくにせつない。

……とくにお前を産んでからは、右と左に夫と子供を抱いて寝た楽しい夜がつづいた。
 まさか昨夜がそのしあわせの最後になるとは、知らなかった。
 千年も生きてきた私のような野干(キツネのこと)のしたたかな通力(神仏から与えられた超人間的な不思議な能力、神通力)も、我が子への愛、夫への愛のために、その予感は失せてしまったのか……。

 そしてもう一つ、私の好きなところ。
「……夫婦のかたらいなせしときより」からの数行である。
 つまり、夫に抱かれてからというものは、夫を大事にし、大切に思うのは、畜生とよばれるキツネとはいいながら、人間よりも百倍も深く強いのですよ……と嘆く場面である。

(まあ人間の女よりも百倍も深く濃厚に惚れられては困る、疲れる、というムキもあるだろうけど)

 が、この愛情過多の執念をもつ狐葛の葉の腹から産まれ、後年安倍晴明となって陰陽師の凄腕をふるう人物こそが、このときの童子なのである。

 早乙女宏美の舞踊劇「葛の葉」は、ステージに障子が三枚立てられ、その障子にうつる影を使っての演出がおもしろかった。
 葛の葉の夫である安倍保名と、二人の間にできた童子は、障子にうつる影となって登場する。
 幕があくと、早乙女自身のナレーションで、これまでのストーリーが要領よく説明される。
 あとは音楽と、早乙女の踊りだけでドラマは進行する。文字どおり、早乙女宏美の一人舞台である。
 この芝居の見せ場は、やはり、葛の葉が夫と子供に障子に書きのこす、

「恋しくば
 たづねて来てみよ
 いづみなる
 信田の森の
 うらみ 葛の葉」

 のシーンであろう。一読すれば意味はわかる。
 私のことが恋しくなったら、私の以前の棲家である、和泉の国の信田の森へたずねておいで。私はそこで待っているから、という書き置きである。
 キツネの手は、人間の手の指とはちがうので、筆を持つことができない。
 これまでの芝居では、葛の葉に扮した役者は、筆を口にくわえて、障子にこの文字を書く。
 これを、曲(きょく)書きという。
 また、「信田の森」という文字だけを、キツネであるがゆえに、裏文字で書いてしまう。つまり、障子の向こう側から見ないと「信田の森」と正しく読めない文字である。

 このクライマックスを、さすがは早乙女宏美である。
 音楽にのって思い入れたっぷりに切腹し、片手でハラワタをつかみ出し、握った手の指の間からしたたる血で、あざやかに気合いをこめて、この歌を障子に書いた。
 キツネの白い毛を思わせる白衣の衣装が、鮮血に染まった。
(このとき、私はとつぜん、テルシの芝居を思い出した。芝居の中で、すぐに腹を切ってしまうテルシ。腹を切ると同時に、口の中にふくんでいた赤い液体を、プウッと吐き出して恍惚の表情になるテルシ。魔性のような退廃美に包まれ、陶酔の中で演技するテルシ。私の想念の中に早乙女とテルシの姿が重なった)

 すさまじい迫力に、観客席は息をのみ、早乙女の妖艶、凄絶な演技に心を集中させている。
 恋しかったら信田の森までたずねておいで、と書きのこしても、ここで葛の葉が切腹して死んでしまったら、もう会うことはできないではないか。
 矛盾しているではないか。
 だが、そこは千年も生きてきた古狐である。
 暗転となり、血文字の障子は片づけられ、ステージは黒布のみ。つまり、ここが信田の森。
 そこにボウーッと出現する葛の葉は、もとのきれいな白衣に包まれた姿。
 さすがは千年も生きつづけてきて、人間の子供まで産んだ古狐。
 切腹のあとも、神通力で消え失せている。
 それを音楽と踊りで表現する早乙女。
 だが、彼女の脳裏から消えないのは、恋しい愛しい夫保名と我が子。
 二人を思って狂おしく妖しく踊りつづける狐葛の葉・早乙女宏美の姿。
 熱演のうちに舞台は終わった。客席から拍手が湧き上がり、そのとき私は妄想からさめた。テルシは去っていた。
 ステージは闇に包まれ、美しい夢幻の舞踊は終わった。

つづく

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