濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百八十三回
信太狐か、信田狐か
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この「おしゃべり芝居」は、あいかわらず私の手書きで、一字一字ペンで原稿を書いており、それをRマネージャーが、ワープロで打って、ていねいにホームページに発表してくださる。
第一回目から今回の第百八十三回まで、変わりなく誠実に延々と打ちつづけてくれる。
(大量の文字に、よくも飽きずに、たゆまずにつきあってくれたものだ。あらためて感謝したい)
つまり、この原稿を読むはじめての読者は、Rマネということになる。
誤字脱字その他のあやまりを正し、さらに書かれている文章の内容の不審な点までチェックし、注意してくれる。
私にとって、最高の読者である。
前回(第百八十二回)の原稿をFAXで送ったあとも、すぐにRマネから問い合わせがあった。
「――狐葛の葉が生まれ育った土地の名を、先生のこの原稿には、"信太の森"と、もう一つ"信田の森"とありますが、これはどういうことですか?」
「ええッ?」
うかつにも、自分で書いていながら、私はそのことに気がつかなかった。
私の頭の中には、「葛の葉」ときたら、もうズーッとむかしから、「信太の森」である。それにきまっている。
それなのに、なぜ「信田の森」と書いたのだろう。
調べてみて、わかった。
東京創元社発行の「名作歌舞伎全集」第三巻の「丸本時代物集・二」の中に掲載されている「蘆屋道満大内鑑」の台本の部分が、すべて「信田の森」になっている。
私はそれをそのまま書きうつしたために、浄瑠璃の部分だけが「信田」となった。
この芝居の解説をされているのが戸板康二氏であり、その解説文の中で、戸板氏は古浄瑠璃についての紹介は「信太の森」とされており、歌舞伎の「葛の葉」の解説では、台本に添って「信田の森」とされている。
さすがに、こまかい心遣いである。
くらべて(くらべることはまちがいだが)私のなんと杜撰なことよ。
私はあの世におられる戸板先生に、心の中で頭を下げた。
戸板先生には、一度歌舞伎座のロビーでお会いして、すこしだけ会話を交わした。
氏は、直木賞作家でもあられる。
「中村雅楽推理手帖」を、私は愛読した。
中村雅楽といえば、モデルは亡き中村又五郎である。又五郎が雅楽を演じた。
そのつぎに雅楽を演じた先代の中村勘三郎も、いかにも地味あふれた感じでよかった。
心やさしい、おだやかな歌舞伎座の名探偵中村雅楽を演じられたお二人は、もうこの世にいない。
私の胸に、熱くこみあげてくるものがある。
横道に外れた。
岩波の国語辞典をひくと、
「しのだずし」信太鮨・信田鮨。いなりずし。泉州(今の大阪府南部)信太の森に白狐がすんでいたという伝説と、狐は油揚げを好むということから。
とあり、また旺文社の国語辞典には、
「しのだずし」信田鮨。いなりずし。和泉の国(大阪府南部)信太の森の狐の伝説からいう。
「しのだまき」信田巻。油揚げの中に魚介・野菜・肉類を詰めて煮た食べ物。
とあり、こちらは「信太」を使っていない。
戀塚稔氏に「狐ものがたり」という、日本の狐伝説について広範囲に調べられた内容の濃い著作(一九八二年・三一書房刊)があり、その本の中の「信太の狐・うらみ葛の葉」の項に出てくる地名は、すべて「信太」である。
そして、「信太妻」の伝説が、ていねいにこまかく書かれている。
この本のおしまいのほうに、「狐の回文」という項目がある。
回文とは、逆から読んでも同じになる文のことをいう。一種の言葉あそびである。
短いものでは「狐憑き」という言葉が、すでに回文になっている。
狐に関する回文が多数紹介されていておもしろい。その中に、
信太の狐の子、可愛い我が子の寝付(ねつき)の楽し
というのがある。下から読んでも同じである。
前回のつづきになるが、早乙女宏美が踊った狐葛の葉は、美しく可愛らしい中に、芯は妖獣の凄みがあってよかった。
ぎっしり超満員の客席の心を奪った。
白衣を着て、白狐に扮した早乙女は、歩くときはつま先立って軽く飛びはねるように動きまわる。歌舞伎では、これを「狐足」という。
手は両指をそろえて小さく折り曲げ、手の甲を下に、ときにてのひらを上にして表情をつくる。これを歌舞伎では「狐手」という。
早乙女の狐はステージのすみからすみを飛び回り、細い体を激しくよじって、我が子と別れる悲しみを表現した。
私の目に、ふっとそれが、猿之助の元気だった姿と重なった。
軽々とはね、走り、しまいには宙天高く泳ぎながら踊る猿之助の四の切(しのきり)の狐忠信を、私は何度興奮し、うっとりと眺めたことだろう。
二十回や三十回ではきかない。それ以上の回数を私は見ている。毎日、明治座の三階席へ通った時期がある。
改装前の明治座の三階席は、なぜか汚れたコンクリートの階段がむき出しになっていてみすぼらしく、いかにも大衆席といった感じだった。
車椅子にのっているいまの猿之助を見ると、私の胸の中に、無常の風が音をたてて吹きぬける。私の手足までが冷える思いだ。
亀治郎が猿之助を継ぎ、さらに若々しく軽快な狐忠信を見せてくれたとしても、私は現猿之助の舞台姿を忘れないだろう。
(つづく)
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